8.恋心
そこは、頭の上から足の下まで360度ぐるっと真っ白な空間だった。
地面も天井もない、何もない空間を俺は一人ふわふわと漂っている。
夢でもみているのだろうか? それとも、ひょっとして死んでしまったのだろうか。
――これが気まぐれで拾った例の人間の子供か。地の精霊よ。
突然降り注いできた声にハッと我に返り、顔を上げる。
何も無かったはずの真っ白な空間に、眩いばかりの五人の精霊が佇んでいた。
水の精霊、火の精霊、風の精霊、空の精霊、地の精霊。絵物語や絵画でしか見たことのない、美しい精霊が眼前に御座しましている。
精霊は、誰もが中性的な外見で二十代ぐらいの人間の姿をしていた。
――あなた。恋心を捧げると言ったわね?
この声には聞き覚えがある。面白そうと言って、はじめに俺を女性の身体に変えた精霊だ。
精霊から放たれる高雅なオーラに気圧されてしまったが、そうだ本来の目的を果たさなければならない。
「はい、確かに申し上げました。ただ、許されるのであれば、一つだけ早急にお伺いしたいことがございます。フローラ様はご無事なのでしょうか?」
質問を投げかけた瞬間、胸が押しつぶされそうなほど苦しくなる。
精霊達から溢れ出る怒気に、空気がビリビリと振動する。
――こんな事もあろうかとフローラには特別に我等の精気を分け与えてあるのだ、無論無事に決まっている。
――しかし、初代ルーベンブルク女王のローラを害したクロディアの様にフローラを害そうとするとは、妾は絶対に許せぬ。
――右に同じく。儂らが直接手を下せない事をいいことに、こんな方法を取るとは誠に許しがたいの。
――わたくし達は怒りで少し感情が乱れてしまったけれど……貴方が止めてくれたから前回のアーク・クロディアの時の様な悲劇は起きていないわ。安心して頂戴。
――あぁ、ローラの時はやり過ぎだと怒られてしまったのよね。それで埋め合わせに、この世の理をクロディアに授ける事になったりと色々あったわね。大切な我が子を傷つけられて喜ぶ親など居ないのに、親の気持ちは子供にはなかなか分かってもらえないものね。
精霊達が次々と話し始める。何の事だが分からない点も多いが、とりあえずフローラ様が無事と聞き一安心だ。精霊達の怒りはまだ燻っているようだが、一応は落ち着いてくださったらしい。
「フローラ様がご無事なのであれば、私からはもう何も申しあげることはございません。どうぞ私の恋心をお納めください」
すると、俺を女性に変えた精霊が近づいて来て俺の頭に手をかざした。
――……ちょっと待って。この子は既に恋を経験してしまっているわね。様々な感情が恋心に絡んでいて上手く外せないわ。
すると、もう一人の精霊も側に寄ってきた。
――なるほど、特にこの首飾りがやっかいだの。この者の感情だけでなく、他人の恋心までもが怨念の様に絡みついておるな。随分と一方的に想いを流し込まれたものだのう。
呪いの首飾りだと常々思ってはいたが、やはりその類いの物だったらしい。あの野郎、この野郎。
――だが……これは、そもそもこやつが相手に何らかの好意を抱いておらねば機能しないはずの物だがの。
精霊はニヤリと笑いながら首飾りを指で弾いた。
や、やめろォ! そんなはずはない。確かに薄っすら尊敬ぐらいはしていたかもしれないが……特別な感情など抱いた事はない! ……ないはずだ! ないよね!? 誰かないって言ってェェ!!
――ふむ。とりあえず、対価は貰わねばならぬ。
「はい、どうぞ。色んな感情ごと恋心をごっそりとお持ち帰りください!」
レオン様に対して、こんなモヤモヤした気持ちをずっと抱えていたくない。一刻も早く手放そう。そうしよう。
――そうすると、ジュリアや他の者に対する恋心も失ってしまいますよ? 良いのですか?
「ご心配ありがとうございます。ジュリア王女やフローラ様への想いは恋心などという浅いものではなく、不動の愛なので問題ありません」
もし全ての感情を奪われたとしても、女性に対する愛情だけは失わない自信がある。俺とはそういう人間だ。自分のことは自分が一番良く分かっている。
――ねぇ。思ったのだけれど、ただ恋心を奪うのでは面白くないと思わない? この子の恋心がどう育つのか私見てみたくなったわ。この子が誰と結ばれるのか、皆で賭けてみましょうよ。
えっ。
――それでは儂は、この首飾りの送り主、レオンに一票投じようかの。
――我らが子フローラの魅力に抗える者などおらぬ。当然、フローラだ。
――私は、やっぱりマルクかな? フローラに恋心を対価にしない様にお願いされたとは言え、念には念を入れてマルクが恋をするまで魔法を使えない状態にしたのは少し可哀想だったし。それにこの二人の組み合わせが一番面白そうだわ。
――それでは妾はローレンに一票入れようぞ。あれは、これから化ける可能性を秘めておる。
――わたくしはクリスが一番強く想っているジュリアと結ばれる事を願いましょう。
レオン様への想いを手っ取り早く処分してもらうつもりが、何だか予想外の事態になってきた。
――諦めなさい。貴方の恋心は、すでに我々に捧げられたもの。我々がどのように扱おうが文句は言わせないわ。
「あの、ならばせめてこの呪いの首飾りを外していただく事はできないでしょうか」
――ふむ。エルンドール国王に告げていた、世界平定の任は一応予定通りそなたが果たしたようだしな。多少褒美があっても良いか。
精霊がぱちんと指を鳴らすと、途端に鎖が切れ首飾りが外れた。
うぉっしゃあああ!!!!
これさえなければ、こっちのものである。俺は晴れて自由の身で、思う存分ジュリア王女に恋い焦がれるとしよう。
あれ、でも待てよ……。
「一つだけ確認させてください。私は今、女性の身体なのです。ジュリア様やフローラ様と結ばれるためには男の身体に戻る必要があります」
あわよくば、ついでに男の身体に戻しては貰えないだろうか。
――それなら期限を設けましょうか。成人となる十六歳の誕生日の時点で相愛の相手が女性の場合は、何の対価もなしに男の身体に戻してあげるわ。ふふふ。面白いことになりそうね。
そう言うと、もう用は済んだとばかりに、精霊が一人また一人と消えていく。
今すぐ男に戻してくれるほど精霊は甘くなかった。
……って、あれ、待って。俺はどうやって人間の世界に戻れば良いんだろうか。
精霊がいよいよ最後の一人になってしまった。最後に残ったのは、俺がジュリア王女と結ばれる事を願ってくれた精霊だ。
「あのっ」
その時、とても懐かしい感触が俺を包み込んだ。
自然と涙が溢れてくるのを止められない。
「私はあなたを知っています。恐らくまだ魂だけの存在だった頃、この腕に抱き締められていたのを覚えています」
俺の身体を優しく抱き締める腕にそっと触れる。
俺が渇望してやまなかった二の腕が、ここにあった。
「私の命を救ってくださったのは、あなただったのですね。私は一体どれ程の対価をお支払いすれば良いのでしょうか」
――……幸せにおなりなさい。わたくしにとって、それ以上の対価はありません。
そう精霊は呟くと、俺の顔に手をかざす。
すると途端に俺の意識は深い闇へと沈んでいった。
フローラは初代ルーベンブルク女王のローラに良く似た魂の形をしていたため五精霊が特別に気に入り、精霊の持つ精気(これがあると魔法の効果が上がったり、身体能力が強化されたりする)を分け与えられ産まれました。そのため、精霊皆から我が子の様に寵愛を注がれています。
クリスは魂を抜き出す時点でかなり弱っていたので、地の精霊はこっそり自身の精気を注いでクリスを延命しました。なので地の精霊だけはクリスの事も我が子同然の思いで見守っています。
(※クリスが山探しのプロだったり、地の属性の魔法の効果が高いのは、地の精霊から精気をもらっていたのが原因です)
精霊が言う“我が子”は実際はフローラ様の事でしたが、クリスという解釈もでき無い事はないという状況のため皆の勘違いは進んでいきます。
精霊からエルンドール国王へのお告げは、クロディア王国からルーベンブルク王国へのテロ行為を阻止すべく、アラン様を止められる唯一の人物であるクリスとアランを出会わせるために行われたものでした。
"この地に生きる我が子のため"とは、人間界に住むフローラのためという意味でしたが、エルンドール国王が意味を深読みしたせいでややこしい事になりました。




