03 紅之蘭 著 男前 『ハンニバル戦争・スキピオ』
【あらすじ】
紀元前二一九年、第二次ポエニ戦争勃発が勃発。カルタゴのハンニバルは、敵対するローマがまったく予期していなかった、海路からではなく陸路ガリアを横断しまさかのアルプス越えを断行、イタリア半島本土に攻め込んだ。そしてカンナエ会戦で二倍近いローマ迎撃軍を壊滅。南イタリアのローマ同盟諸市を寝返らせ穀倉地帯と十五万の動員兵力を手中にした。カンナエ会戦後、ローマ元老院は戦略方針を転換。その最中グラックス執政官が暗殺され、〝奴隷軍団〟が消滅。しかしローマは抵抗した。
ポエニ(カルタゴ)と呼ばれる通算三回の戦争で、共和制ローマは地中海世界での覇権を確立した。紀元前四世紀から紀元前二世紀のことだ。ローマをして地中海を「われらが海」とした理由は、この世界の中で最も先進的な社会構造を採用していたからに他ならない。
ローマの都市には四つのタイプがあり、それぞれ待遇が異なっていた。第一は首都たるローマ市で市民は完全な権利があった。第二は植民市で、地政学的な要衝に建てられ、ローマ市民が市民権を持ったまま移住した町だ。第三は自治市で、ローマに征服される以前からあり、ローマとの契約でいくつかの義務を果たす必要があった都市だ。そして第四は同盟市で、現地採用の役人と法によって自治権が与えられた代わりに、ローマの遠征に従軍する義務を持った都市だ。
ローマは四タイプの都市を巧妙なバランスで散らばらせた。「分割して統治せよ」という統治体制はここからくる。
階層構造は、貴族パトリキと平民プレブスとからなり、かつては対立していた。しかしパトリキと上流プレブスは結合してノビタリスという新支配階層を形成させて行く。
また、ポエニ戦争以降は、ギリシャでみられたような重装歩兵による密集隊形はすたれ、六十人から百二十人単位の小部隊による、機動性が改善されて行く。
その過渡期にあった。
当時、貧困層平民でローマ市民権を持つ者は、兵役を担った負債で、自分や家族が奴隷落ちすることが、ほとんどなかった。そのためローマ人たちは心置きなく祖国のために戦えたのである。
◇
紀元前二一一年、隻眼の将ハンニバルは三十六歳になった。
シラクサを再び奪われたカルタゴの総大将は、突如、南イタリアから北伐し、ローマ市を包囲した。
市壁の外側はカルタゴ兵で埋め尽くされていた。
恐怖した市民たちが、大本営たる元老院たちのところに押し寄せ、「大丈夫ですよね」と騒ぎ立てた。
元老院を束ねていたファヴィウスは、若き将校スキピオを伴って、自分と一緒に動揺する市民たちの前に立つようにいった。
「スキピオ君。これまでのハンニバルとの戦いでの生き残り将兵たちから、奴がどういう戦術をとったか研究しているそうじゃないか。実際に兵士たちに模擬戦もさせたという話も聞いている」
「ハンニバルは、三軍構成を基本としていますが、もう一つ遊撃隊を持っています。カルタゴ軍が横列陣形でローマ軍とぶつかるとき本隊の歩兵前衛を凸状にします。そこにローマ軍本隊の歩兵が引っ掛かける。その隙に、カルタゴ軍両側の騎兵で、ローマ軍騎兵を潰し、U字形にローマ軍本隊を包囲。とどめに、遊撃隊でローマ側の後方に蓋をして袋の鼠にしてしまうという戦術をとっていたのが解りました」
「なるほどな。その戦いへの対処法は後ほど君自身が役立てるといい。まあ、今回の戦いは、見かけほど大したものではない」
「え、大したものではないですって?」
「コケ脅しだよ。城攻めには城兵の四倍強の兵員が必要なのさ」
ファビウスは禿ている上に腹が出ていた。大声で笑う。人を食っているようにもみえたが、同時に安堵感も与えた。
◇
フォルム・ロマヌムはローマの公共広場で、神殿のある丘を背に、舗装路と下水道が早くから完備された谷底にあった。広場を囲んで、元老院や民会といった政府機関が建ち並ぶ。
広場を見下ろす元老院の基壇上に立った六十越しのファビウスは、慎重さゆえに、〝のろまのファビウス〟と揶揄されたのだが、いまでは、〝ローマの盾〟といわれるまでの信頼を獲得していた。
――兵糧は十分にある。市壁は高く敵は乗り越えてくるべき攻城兵器を持たぬ。守りに徹すれば、ハンニバルの大軍は大軍たるがゆえに食料が尽きて手も足も出せずに、退却せざるを得なくなる。
老練なファビウスよりも、前線にいた将領たちのほうが、ローマ市の危機を心配し、「援軍に馳せ参じましょうか」と使者を送ってきたのだが、
――諸君の厚情には感謝する。しかしローマは大丈夫。君たちは各自の任務に専念して欲しい。
そういって丁寧に断った。
◇
ファビウスの言葉通り、果たして、糧秣を食い潰したハンニバル軍は兵を引いた。
その際、ハンニバルは軍師シレヌスや末弟マゴス、それに親衛隊騎兵のみ百騎そこらでローマ市壁を一巡した。
隻眼のハンニバルが軍師にいった。
「先のポエニ戦争で、カルタゴが敗れた理由は、単に戦術というだけではなく体制上の問題かもしれぬな」
軍師は渋い顔をした。
若いマゴーネは意味が解らない様子だった。
麾下は傭兵たちばかり、ローマ市民と違い、血を流さないカルタゴ市民……。ハンニバルはそれを憂いでいたのだ。
ハンニバルは軍を撤収させたが、首都ローマが、敵の大軍に包囲されたというような事態は前代未聞で、市井の人々を震え上がらせた。
ゆえに、末代までも、ローマの母親たちが悪童を叱りつけるとき、「戸口にハンニバルが立っている」というようになったのだ。
(男前 了)
【登場人物】
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《カルタゴ》
ハンニバル……名門バルカ家当主。新カルタゴ総督。若き天才将軍。
イミリケ……ハンニバルの妻。スペイン諸部族の一つから王女として嫁いできた。
マゴーネ……ハンニバルの末弟。
シレヌス……ギリシャ人副官。軍師。ハンニバルの元家庭教師。
ハンノ……一騎当千の猛将。ハンノ・ボミルカル。ハンニバルの親族。カルタゴには同名の人物が二人いる。第一次ポエニ戦争でカルタゴの足を引っ張った人物と、第二次ポエニ戦争で足を引っ張った大ハンノがいる。いずれもバルカ家の政敵。紛らわしいので特に記しておく。
ハスドルバル……ハンノと双璧をなすハンニバルの猛将。
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《ローマ》
コルネリウス(父スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ。ローマの名将。大スキピオの父。
スキピオ(大スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル。大スキピオと呼ばれ、ハンニバルの宿敵に成長する。
グネウス……グネウス・コルネリウス・スキピオ。コルネリウスの弟で大スキピオの叔父にあたる将軍。
アシアティクス(兄スキピオ)……スキピオ・アシアティクス。スキピオの兄。
ロングス(ティベリウス・センプロニウス・ロングス)……戦争初期、シチリアへ派遣された執政官。
ワロ(ウァロ)……執政官の一人。カンナエの戦いでの総指揮官。
ヴァロス……執政官の一人。スキピオの舅。小スキピオの実の祖父。
アエミリア・ヴァロス(パウッラ)……ヴァロス執政官の娘。スキピオの妻。
ファビウス……慎重な執政官。
グラックス……前執政官。解放奴隷による軍団編成を行った。
クラウディス……〝ローマの剣〟と称賛される執政官。マルクス・クラウディウス・マルケッルス。
レヴィヌス……ブリンティシ執政官。寡兵でマケドニア王国に睨みを利かす知将。
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《マケドニア王国》
フィリッポス二世……アンティゴノス朝の国王。カルタゴと同盟する。
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《シラクサ王国》
アルキメデス……ギリシャ系植民都市シラクサの王族。軍師。




