03 紅之蘭 著 水 『ハンニバル戦争・エピソド』
【あらすじ】
紀元前二一九年、第二次ポエニ戦争勃発が勃発。カルタゴのハンニバルは、敵対するローマがまったく予期していなかった、海路からではなく、陸路ガリアを横断し、まさかのアルプス越えを断行、イタリア半島本土に攻め込んだ。そしてカンナエ会戦で二倍近いローマ迎撃軍を壊滅。南イタリアにあったローマ同盟諸市を寝返らせ、穀倉地帯と十五万の動員兵力を手中にした。カンナエ会戦後、敗れたローマの元老院は戦略方針を根本的から見直す。
水
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話を第二次ポエニ戦争勃発から四年後である、カンナエ開戦直後の紀元前二一五年に戻す。シラクサとカプアがハンニバルに寝返り、ほどなくタラントが陥落することになる年だった。――この動きに小躍りしたのは、カルタゴばかりではなかった。ハンニバルが占領したイタリア半島南半部に、アドリア海をわたった水辺の向こう側にあるバルカン半島を制していたマケドニア王国の存在があった。なんと、国王フィリッポス二世が船で渡ってきてハンニバルと会見を申し込んできたのだ。
アレクサンドロス帝国瓦解後、遺臣たちが領土を、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプト、アンティゴノス朝マケドニアの三つの王国に分割していた。ブリンティシは、アレクサンドロス帝国本国マケドニアに拠っていたのだが最も小さく、ギリシャ西部はローマに服属。じわじわとローマに圧されつつあった。そこにカルタゴのハンニバルが現れて、イタリア半島南部を占拠したわけだから、利用しない手はない。
場所を特定することはできないが恐らくは、南イタリア〝ハンニバル王国〟首都カプアの宮殿の一室であろう。
「二十二か、若いな」ハンニバルが交渉相手をみた率直な感想だった。
カルタゴの隻眼をした将軍が、ギリシャ人軍師シレヌスを横に置いて、マケドニア王と会談した。テーブルの向こう側に座った国王フィリッポス二世は思ったよりも若かった。余興で宴や狩りをした後、アレクサンドロス大王の話題となった。――マケドニアおよびギリシャに侵攻してきた、強大なペルシャ帝国を迎え撃って、逆に滅ぼしてしまった若き大王の英雄譚はもはや神話だった。大王の軍略はその当時の〝世界〟の基礎理論になっていた。
フィリッポスの提案は次のようなものだった。
――マケドニア勢は、ギリシャ北西部にあるローマ側のいくつかの拠点を襲い、勢いを駆って南イタリアに上陸しカルタゴ勢に合流、北上してローマを落とす。他方、カルタゴ勢はローマを落とした後、速やかにマケドニア側に渡り、ギリシャ制覇に協力すること。
「悪くない」隻眼の将がいい、二人は握手した。
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翌、紀元前二一四年。対マケドニア方面軍の執政官はレヴィヌスという人物だった。――ローマからアドリア海に沿って、アッピア街道を南下して行くと、ローマが大敗したカンナエを通って、長靴に例えられるイタリア半島のカカト部にたどり着く。そこに港湾都市ブリンティシがあり、カンナエ会戦後も落ちずにいた。レヴィヌスに与えられていた軍団はわずか一個軍団四千名というものだった。
――これで総兵力数十万はいるだろうマケドニア王国とどう戦えというのだ。
絶望的な少なさである。
「だが頭は使いようだ。一見、アドリア海によって寸断されているようだが、水辺は船によって連携することができる。攻城戦には、四倍の兵を要すというではないか。それに……」
レヴィヌスは、ハンニバルとフィリッポスとの連携がかみ合わない隙に、ブリンティシ港の艦艇を建造しまくって、五十隻体制にした。その上で、バルカン半島に〝草〟を放ち、フィリッポス二世の動向を探らせた。
レヴィヌスが、卓上にアドリア海の地図を広げたフィリッポスの下に副官がやってきた。
「〝草〟たちの詳報をまとめました」
「マケドニアを憎む者は?」
「マケドニアの南にあるギリシャ都市アエトリア、東にあるペルガモン王国……」
レヴィヌスは使節を送り、マケドニアに敵対する二つ勢力と、有事の際は二十五隻の艦隊に半個軍団二千名を乗せて送りだすことを条件に同盟に成功した。
そこへついに、マケドニアのフィリッポス二世が、数万からなる軍勢を率いて、ギリシャ西部におけるローマ拠点アポロニアに襲い掛かろうとした。
レヴィヌスも艦隊を率いて駆けつけたわけだが、手勢は二千ばかりだ。
「一気に捻り潰してやる」と鼻息を荒くした若いフィリッポス二世が、市壁の前に立ったとき、背後を衝くような格好で、アエトリア軍が姿を現した。さらに早馬がきて、「ペルガモン王国勢がわが王国東部国境に侵攻して参りました」と注進した。
アレクサンドロス大王を気取った、若いフィリッポスが、血相を変えて撤退したことはいうまでもない。
市壁に立ったレヴィヌスに、副官が、「追撃はなさらなぬのですか?」というと、その人は、「われらはマケドニアを滅ぼすのではなく封じ込めればよい。それが任務だ」と答えた。
水(了)
【登場人物】
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《カルタゴ》
ハンニバル……カルタゴの名門バルカ家当主。新カルタゴ総督。若き天才将軍。
イミリケ……ハンニバルの妻。スペイン諸部族の一つから王女として嫁いできた。
マゴーネ……ハンニバルの末弟。
シレヌス……ギリシャ人副官。軍師。ハンニバルの元家庭教師。
ハンノ……一騎当千の猛将。ハンノ・ボミルカル。この将領はハンニバルの親族だが、カルタゴには、ほかに同名の人物が二人いる。カルタゴ将領に第一次ポエニ戦争でカルタゴの足を引っ張った同姓同名の人物と、第二次ポエニ戦争で足を引っ張った大ハンノがいる。いずれもバルカ家の政敵。紛らわしいので特に記しておくことにする。
ハスドルバル……ハンノと双璧をなすハンニバルの猛将。
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《ローマ》
コルネリウス(父スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ。ローマの名将。大スキピオの父。
スキピオ(大スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル。ローマの名将。大スキピオと呼ばれ、ハンニバルの宿敵に成長する。
グネウス……グネウス・コルネリウス・スキピオ。コルネリウスの弟で大スキピオの叔父にあたる将軍。
アシアティクス(兄スキピオ)……スキピオ・アシアティクス。スキピオの兄。
ロングス(ティベリウス・センプロニウス・ロングス)……カルタゴ本国上陸を睨んで元老院によりシチリアへ派遣された執政官。
ワロ(ウァロ)……ローマの執政官。カンナエの戦いでの総指揮官。
ヴァロス……ローマの執政官。スキピオの舅。小スキピオの実の祖父。
アエミリア・ヴァロス(パウッラ)……ヴァロス執政官の娘。スキピオの妻。
ファビウス……慎重なローマの執政官。
グラックス……前執政官。解放奴隷による軍団編成を行った。
クラウディス……〝ローマの剣〟と称賛される名将。マルクス・クラウディウス・マルケッルス。
レヴィヌス……ブリンティシ執政官。寡兵でマケドニア王国に睨みを利かす知将。
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《マケドニア王国》
フィリッポス二世……アンティゴノス朝マケドニア国王。カルタゴと同盟する。
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《シラクサ王国》
アルキメデス……ギリシャ系植民都市シラクサの王族。軍師。