09 かいじん 著 道 『トンネル(隧道)』
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1969年(昭和44年)12月某日。
「我が(日本鉄道)の運転規則では列車運行中、車両に火災を認めた場合、乗務員は直ちに列車をその場に停止させなければならない。……こう定められている事は、当然知っていますよね?」眼鏡の縁を手で押さえ、机の書類に目を落としながら質問者は言った。やや痩せた体型の神経質を思わせる顔をした男で年齢は40代半ばと思われる。
「はい」質問を受けている、34歳の男は手を両膝に置き姿勢を正して答えた。
「しかし君は、火災発生を確認してから、列車を停止させるまでの間におよそ5分間、 距離にして5キロ以上走行を続けています。……これは如何なる理由によるものですか?」
「火災発生時、(北海)はトンネル内を走行中であり、その時点では弓ヶ浦口までには相当の距離がありましたので、その場に停止させた場合、乗客の避難や消火活動に大きな困難が生じる恐れがあると考えたからです」
「コホンッ」質問者の隣に座っていた大柄で体格の良い50年配の男が手を口にあて大きな咳払いをした。「つまりそれは君が独断でそう言う処置を取ったと言う訳だな」
「はい」
「私達、旅客営業に携わる者にとって安全規則とは厳格に守られなくてはならぬものです」眼鏡の縁から手を離して質問者が言った。「今回の事故で貴方が規則に反する行動を取った件について、私達は事態を重く受け止めています」
「はい」それを聞いて質問者の正面に座っていた男は自分が何らかの処分を受けるのを覚悟した。
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1969年(昭和44年)12月6日、北国新聞夕刊記事。
――寝台特急、火を噴く、日本最長トンネル内で――
6日午前6時20分頃、F県弓ヶ浦の北国本線北国トンネル(全長13・870m)を走行中の○○発○○行寝台特急「北海」(13両編成)の2両目電源車から火が出ているのを機関士が見つけ同列車はトンネルから300m離れた地点で緊急停止した。
火は駆け付けた弓ヶ浦消防組合等によりおよそ30分後に鎮火したが、電源車の床下や機械室などが焼けた。出火場所は車輪部分付近と思われる。この火災による負傷者は無かったが、同列車はこのため……とっさの判断、列車を止めず、機関士、混乱防ぐ。火災が発生した時、(北海)は北国トンネル内を走行中だったが、機関士はトンネル内で列車を停止させるのは危険と判断、このためそのまま走行を続け……。
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この北国トンネル内で起こった列車火災事故で(北海)の機関士がトンネル通過まで走行を続けた事に対し、その為に消火活動が容易に行えた事もありメディアの報道はむしろ好意的であった。
しかしこの事故の後、日本鉄道はこの機関士を規則違反として処罰し、運転業務から外す処分を行ない、この事故の後、運転規則のさらなる徹底を図った。
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もっとも日本鉄道が、「非常時には直ちに列車を停止させる」と言う規則に固執したのは、理由が無い訳でも無い。話は7年ほど遡る。
1962年(昭和37年)5月3日、この日の夜は新月で人気の無い場所は真っ暗になった。
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午後9時30分頃、首都圏の駅構内で貨物線から本線に合流しようとしていた貨物列車の機関士が貨物線と本線の信号を見間違え、赤信号を行き過ぎて進行を続けた。
途中で見間違いに気付いて停止しようとしたが間に合わず安全側線に乗り上げて、先頭のD51蒸気機関車が下り本線に突き出す形で脱線した。
直後に現場に進入して来た6両編成の通勤電車の運転士は急ブレーキをかけたが、間に合わず、蒸気機関車に接触して前2両が上り線方向にはみ出す形で脱線した。
この時点では大きな負傷者はいなかったが、さらにその6分後、現場に侵入して来た上り通勤電車が停止出来ずに下り電車に激突、この衝撃で下り電車の1両目と2両目の半分、上り電車の1両目は木っ端微塵になった。
上り電車の2両目以降は更に暴走して、避難指示で線路内に降りていた多数の乗客を巻き込んだ後、2両目と3両目が築堤から転落して付近の倉庫を破壊、結果的に死者160名、負傷者296人を出す大惨事となった。
この時、日本鉄道は最初の衝突事故の直後、直ちに下り線の列車運行を停止させたが、上り線については事故発生通知を行ったのみだった。
その後、現場からの状況連絡を信号取り扱い員が受けた時、上り電車はまさに目前を通過中だった。
この大事故の後、日本鉄道では安全管理体制が見直され、その規則の徹底が図られる様になった。
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「何が電化されたトンネル内では列車火災は起こり得ないだ」
弓ヶ浦消防署内で(北海)火災事故の記事を読んだ富原は苦々しい思いだった。
1962年6月、国内最長、世界6位の長さを誇る北国トンネルが弓ヶ浦田之庄間に開通した当初から弓ヶ浦消防組合等、地元の消防関係者は、この長大なトンネルに防火設備がまるで無い事に大きな危惧を抱いていた。
日本鉄道に対し排煙設備、消火栓の設置等を再三に渡って要請して来た。
富原自身、何度か足を運んだ事がある。
「北国トンネルは最新技術によって作られた電化トンネルでありまして、その安全性は、極めて高いものです」応対した職員は言った。「しかし現在のままでは、万が一トンネル内で火災が発生した場合、重大な災害になる恐れがあります。……何かあってからでは間に合いません」これ程、長大なトンネル内に外からホースを延引するのは困難であるし、そもそも火災発生時には排煙設備の無いトンネル内には煙が充満する事になる。「しかし国の命令でも無い限り、私共にはそう言った事には対処する力がありません」
そう言われれば田舎の消防ではもはや成す術が無かった。2年前には火災時の酸素不足に備え、救命器具や酸素マスクを常備する要望を行ったが、その後、何の音沙汰も無い。安全であるとの建前を堅持し強調する所は来年完成予定の弓ヶ浦原発の電力会社の説明のようだった。
(何にしろこの火災を起こした列車の機関士がトンネル内に停止しなかった事は幸いだった)富原は思った。
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3年後。
1972年(昭和47年)11月6日。
関西の大都市から日本海側を経て本州北端の都市へ向かう15両編成の寝台急行「冬鳥」。前日が連休最終日だった事もあり、ほぼ定員の800名近い乗客を乗せたこの日の急行「冬鳥」は午前1時丁度に弓ヶ浦駅に到着、1時4分定刻より2分遅れて同駅を出発した。
弓ヶ浦駅を出た下り急行列車はしばらく市街地を走った後すぐに北国トンネルに入る。このトンネルを抜けるには時速60キロで走行したとしても15分近くの時間がかかった。弓ヶ浦駅を出発して10分ほどたった頃、突如、運転室に車掌からの緊急打電が入った。
「601列車、停まれ!11号車……食堂車で火災が発生した」
この日、乗り合わせていた八城指導機関士は驚いて宮雲電気機関士に列車停止を命じ、宮雲機関士は非常ブレーキを作動させた。
加速走行中だった為に停止までに時間がかかったがやがて「冬鳥」はトンネル内に完全停止した。
その場所は北国トンネル弓ヶ浦口から4・6キロ地点、トンネル中央に近い場所だった。
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列車停止後、運転室を八城指導機関室に任せ、列車を降りた宮雲機関士は、まず軌道短絡器と呼ばれる数年前に常備される様になった携行用の信号変換装置で対向の上がり線の列車を停止させる処置を取った。
それから六田機関助士と共に11両目の食堂車の方へ走って行く。近付いて行くと食堂車前部から煙が漏れ出ているのが見え、異様な臭気が鼻を突いた。
食堂車の扉から専務車掌と他の車掌が消火器で消火に努めていたが、木造部の多い旧型客車は燃え広がるのが早く、炎が大きくなり始めた。
消火が困難になった為に、速やかに乗客を食堂車から離れた車両に移動させ、直ちに
食堂車と他の車両を切り離す事にした。
次第に噴き出して来る煙が勢いを増してトンネル内に立ち込めて来る中、まず食堂車と12号車を切り離し、列車を100メートル程移動させた。それから、食堂車と10両目を切り離す作業にかかった。切り離しを終え、ひとまず少し列車を移動させた時、不測の事態が起こった。
トンネル上部に設置されていた漏水を側溝に誘導する為の樋が火災の熱で溶け出して落下、これが架線に接触してショートを起こし送電がストップした。
これが、「冬鳥」にとって大きな不幸になった。
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緊急にとらなければならない処置が多かった為に、トンネル内の非常電話から、付近の駅に火災発生を知らせるまでに10分以上の時間がかかった。
午前1時30分頃、「冬鳥」からの通報を受けた弓ヶ浦駅は混乱した。
北国トンネル内での火災発生を想定した対処が決められていなかった為に、対応が中々決まらない。弓ヶ浦消防組合への通報を決定するまでに20分の時間がかかった。
トンネルの反対側の田之庄から消防への通報があったのはさらに15分以上後、火災発生から1時間近く立ってからだった。
数分後、北国トンネル入り口に消防車両が続々と到着した時、深夜のトンネル入り口は全く何事も無いかの様に静まり返っていた。
当直勤務だった為、出動して来た富原は苦い顔をした。
弓ヶ浦駅からもたらされた通報は甚だ要領を得ないものだった。列車がこの13・8キロにも及ぶトンネルのどの位置に停止しているのか、乗客、乗員の状況などはっきりした事は何もわからないと言う。
ではこちらで確認すると言えば、この非常事態に関係者以外のトンネル立ち入りには許可がいる等と言い出す始末だ。
日本鉄道の姿勢にはどことなく、出来得る限り内部だけで事態を処理したいと言う姿勢が窺えた。しかし現場には日本鉄道の人間はまだ到着していない。トンネル入り口は真っ暗でここから見る限りでは奥の方は深い闇の中だ。
北国トンネルの構造について説明を受けた時、不思議に思った事がある。トンネル灯は一斉点灯出来ない仕組みになっている。トンネル内に設置されている680基の照明を点灯させるには数十メートル毎に設置された500ものスイッチを入れる必要があった。しかも運転に支障があるとかで、普段は消灯されていると言う。
「おい! 何人か中から歩いて来てるぞ」
トンネルの入り口からライトを照らして中の様子を窺っていた隊員が大声を挙げた。駆け寄ってみるとライトに照らされた先に何人もの人がこちらに向かって歩いて来るのが見えた。
やがて煤で真っ黒になった人々が続々とトンネルから出て来るのを見て富原は奥深くで深刻な事態が起こっているのを知った。
トンネルから出て来た人達から話を聞いてみると、現場は猛烈な煙に包まれており、そこから辛うじて抜け出して真っ暗闇の中を長い時間をかけて何とかここまで歩いて来た。まだ大勢の人間が中に残っていると言う事だった。
富原は日本鉄道に早急な職員の派遣と列車の位置を確認する様、繰り返させ何とか火災を起こした「冬鳥」が弓ヶ浦入り口から5キロ付近に停車している事を突き止めた。
聞けば火災の影響で送電がストップして「冬鳥」は立ち往生していると言う。
火災現場がこの入り口から5キロも離れた場所では消火活動は困難で、何よりも乗客の救出活動を速やかに行う必要があったが、現場に向かうには日本鉄道の車両を使う他無かった。
弓ヶ浦駅にディーゼル機関車か作業用モーターカーに牽引させた救出活動の為の列車を出動させる様、要請したがこれも思いの他すんなりとは行かなかった。一刻を争う状況にも関わらず、列車を運行させるには北国鉄道局の許可が必要で、許可が下りるまでは列車を出せないと言う。その頃になって日本鉄道から派遣された保線掛の職員がトンネル入り口に到着した。
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その頃、12両目を切り離し離れた場所に停車したままの「冬鳥」の11両は食堂車から噴き続ける猛烈な煙に包まれて凄惨な状況になり始めていた。
1号車から7号車までの乗客は先頭に近い車両まで移動してそこから何とか車外に
降り立つ事が出来たが、8号車から10号車までの車両に乗っていた乗客は、7号車と8号車との間に貫通扉が無かった為に8号車からの移動が出来なかった。車外は完全に煙に包まれており、3両分の乗客が8号車にスシ詰になったまま身動きが取れなくなった。
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北国トンネル弓ヶ浦口に消防車両が到着した頃、「冬鳥」から田之庄方向へ2キロ程離れたトンネル中央に近い地点の上り線で赤信号の為に停止している列車があった。
急行電車「雪山3号」の乗務員は1時40分に信号停止してからの20分程の間に聞こえて来る無線の内容により、どうやら601列車、寝台急行「冬鳥」がトンネル内で車両火災を起こしているらしい事を知り緊張の面持ちでいた。
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午前2時を過ぎた頃、突如信号が青に切り替わった。これは後の調査で暗闇の中を避難中の乗客が軌道短絡器に触れた為だと言われている。
この「雪山3号」の停車している地点と「冬鳥」の停止地点の間にはセクションがあった為に「雪山3号」の停車している地点では送電がストップしていなかった。
「雪山3号」の運転士は状況が良く飲め込めないまま徐行で進行を開始したが、300メートル程進んだ所でヘッドライトの先に多数の人影がこちらに向かって、歩いて来るのが見えた為にその場に停止した。
煤で真っ黒になり、憔悴し切った人々がよろめく様な足取りで続々とこの列車に近付いて来る、運転士はその人々を車内に収容する為にドアを開放した。
多くが就寝中だった乗客も只ならぬ気配に気付いた。
乗務員と乗客が一体となって次々にやって来る避難者を車内に助け上げる作業が続けられたが、やがてこの周辺にも煙が立ち込め始めた。
了
2月号(第80集)作品はここまで。ではまた次回にお会いしましょう。ご高覧ありがとうございます。