05 紅之蘭 著 道 『ハンニバル戦争・エピソド』
【あらすじ】
紀元前二一九年、第二次ポエニ戦争勃発が勃発。カルタゴのハンニバルは、敵対するローマがまったく予期していなかった、海路からではなく、陸路ガリアを横断し、まさかのアルプス越えを断行、イタリア半島本土に攻め込んだ。そしてカンナエ会戦で二倍近いローマ迎撃軍を壊滅。南イタリアにあったローマ同盟諸市を寝返らせ、穀倉地帯と十五万の動員兵力を手中にした。カンナエ会戦後、敗れたローマの元老院は戦略方針を根本的から見直す。
道
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「円周率? 何だね、それは?」ローマの執政官マルケッルスが怪訝な顔でギリシャ人捕虜に尋ねた。図形と数式を地面に書いて説明した捕虜はアルキメデスの弟子たちの一人だった。弟子の師匠がアルキメデスだ。
ギリシャ植民都市から発展したシラクサ王国は、これまでローマの同盟国だったが、カルタゴのハンニバル将軍がアルプス山脈を越えて、連戦連勝したのをみて、カルタゴに寝返ってしまった。ローマ元老院は裏切り者シラクサに鉄槌を下すため、マルケッルスを派遣した。
籠城するシラクサの軍師こそ王族出自の科学者アルキメデスだ。
ローマ人は土木工事が得意だ。野営地すら土嚢を積み上げ、瞬く間に陣城をこしらえてしまう。そういう陣城の一つがシラクサ人捕虜収容所になっていて、マルケッルスは時間に余裕ができると、若いシラクサ人将校から数学を学んだ。マルケッルスは、いい年で禿げ頭だが、熱心な生徒だった。――そこで弾道計算なるものを知って括目した。
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よくイタリア半島はブーツのような形をしているというが、さらに付け足せば、地中海に浮かぶシチリア島は爪先にあたるところで、シラクサは足の親指の付け根あたりに相当する。その付け根のところにイボのような岬の高台があって町があり、岬の麓が港湾になっているわけだ。
町は内郭と外郭とからなる二重の堀切があって、外郭は庶民の市街地、内郭は神殿・王宮・政府機関・要人邸宅からなっていた。
ローマの執政官マルケッルスに与えられたのは、カンナエ会戦の際、奇跡的に生き残った約一万の兵を再編した二個軍団で構成されていた。第一軍を上陸させて市門正面にすえ、第二軍は艦隊に待機させシラクサ港を海上封鎖させた。
この時代の攻城戦は、大軍を擁する攻城側が鍵縄や縄梯子を方々から一斉に掛け、一気に城壁を乗り越えて市街地に乱入し占領する。対する籠城側は、城壁の上に陣取って、敵が少し離れていれば矢を射かけ、城壁にへばりついていて弓矢の死角ができる場合は、石を落としたり、熱湯を被せたりした。
シラクサが兵士として動員できる壮丁はけっして多くはない。ローマ側が数にものいわせて城壁をよじ登ってくる際、シラクサ側は、城壁の上から矢を放ったり、石を落としたりして対抗。ローマはそういう籠城兵を弓矢で落せばよい――と考えていた。しかし、籠城側は、カタパルトと呼ばれる機械兵器で応戦し、数の不足を補い互角以上に渡りあった。
カタパルトは歯車をつかった大型石弓だ。その歯車には距離計が設置されていた。この距離計は箱になっていて、等間隔ごとに小玉が落ちる仕掛けだ。発明者、アルキメデスは弟子たちを、各隊に配属して弾道計算をさせ、正確に敵を攻撃した。このカタパルトには用途別で四種類ほどあり、対艦用が石弾や火矢を飛ばし、対人用が多数の矢をいっぺんに放てるといった新兵器群だった。
さらには多数の凹面鏡によって、海上から岬に近づいてくる敵艦隊を焼いたりもした。
ローマ軍は、艦隊でシラクサを海上封鎖しているので、支援物資を満載したカルタゴ艦隊を寄せ付けない。しかしいかんせん攻めあぐんでいたので、士気が下がりっぱなしだった。麾下の軍団の百人隊長たちと話すと、話が沈みがちになった。
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三年後。
相変わらず、マルケッルス執政官は捕虜収容所に足げく通ってはシラクサの将校から数学を学んでいた。捕虜たちにはローマ兵と同じ分の食事を与えた。待遇は悪くない。
件のごとく、執政官が収容所を訪れると、捕虜のシラクサ兵がそわそわしているのに気づいた。
「捕虜たちが楽しげだ。何故かね?」老執政官が笑みを浮かべてシラクサの将校に尋ねた。
「女神アルテミスの祭りがあるのです。慈悲深い閣下から頂いた穀物を少し残しておき、皆はささやかな供物を贈ろうとしているのです」
「ほお、信心深いことだな。そういうことなら儂からも卿らに贈り物をしよう。女神の祭壇に葡萄酒一樽を供えるが良い。祈りの後に宴を開くことを許す」
捕虜収容所のシラクサ兵は大喜びだ。
アルテミスの祭りの夜、捕虜収容所では陽気な歌声が聞こえていた。
ローマ兵たちの大半は、「うちの執政官は捕虜たちに甘過ぎだ」と憤っていた。しかしマルケッルスは軍団から密かに精鋭千名を選び出し、シラクサの市壁前に集めた。
「諸君、トロイは何故滅びたか判るだろ? トロイ市民が宴をしている最中に、木馬内部に潜ませたアガメムノン麾下の精鋭が、市中を占拠したからに他ならない」
そいうわけで、ローマの精鋭たちは、祭りの日で見張りを残して手薄になった外郭市壁に、鉤のついた縄梯を飛ばしてよじ昇り、見張りの敵兵を粛々と短剣で刺殺。内部から市門を開け放った。そこから待機していた第一軍が突入。瞬く間に外郭を占拠してしまった。
「市民は捕えるな。そのまま内郭へ逃がせ」
市民を逃がしたのは温情からではない。王宮のある内郭にある糧秣には限りがあった。その限りある糧秣を兵士ばかりではなく、非戦闘員である市民たちが一緒になって食らうわけだから、瞬く間に穀倉の備蓄は底を尽いてしまった。
兵糧攻めで、へなへなになったシラクサ勢は、それでも抗戦したがもはやローマの敵ではなかった。降伏勧告を無視した城市は略奪が許可される。マルケッルスは麾下の将兵に、「二日間の略奪を許可する。しかし市民を傷つけるな。アルキメデスをみかけたら保護せよ」と命じた。
しかし略奪に狂ったローマ兵の一団が、軍師の邸宅に踏み込んだとき、その人は庭で地面に数式を書いていた。
「爺、身に着けている腕輪と指輪をよこせ」
「数式の上に立つな。消えてしまったではないか!」
「何だ、その言いぐさは。敗戦国民のくせに!」
数千年に一度現れるか否かという天才数学者の最後は、歴史の示す通り、無知な一兵士によって短剣で突き殺されるというものだった。
――なんということを!
アルキメデスの最後を伝え聞いたマルケッルス執政官は天を仰いだ。教養深い老将は、麾下の将兵たちとともに莫大な財宝を携えて、シラクサから本土に船で渡りアッピア街道を北上しローマに凱旋したものの、人類の至宝をみすみす失くしたことに、すこぶる落胆したということだ。
道(了)
【登場人物】
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《カルタゴ》
ハンニバル……カルタゴの名門バルカ家当主。新カルタゴ総督。若き天才将軍。
イミリケ……ハンニバルの妻。スペイン諸部族の一つから王女として嫁いできた。
マゴーネ……ハンニバルの末弟。
シレヌス……ギリシャ人副官。軍師。ハンニバルの元家庭教師。
ハンノ……一騎当千の猛将。ハンノ・ボミルカル。この将領はハンニバルの親族だが、カルタゴには、ほかに同名の人物が二人いる。カルタゴ将領に第一次ポエニ戦争でカルタゴの足を引っ張った同姓同名の人物と、第二次ポエニ戦争で足を引っ張った大ハンノがいる。いずれもバルカ家の政敵。紛らわしいので特に記しておくことにする。
ハスドルバル……ハンノと双璧をなすハンニバルの猛将。
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《ローマ》
コルネリウス(父スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ。ローマの名将。大スキピオの父。
スキピオ(大スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル。ローマの名将。大スキピオと呼ばれ、ハンニバルの宿敵に成長する。
グネウス……グネウス・コルネリウス・スキピオ。コルネリウスの弟で大スキピオの叔父にあたる将軍。
アシアティクス(兄スキピオ)……スキピオ・アシアティクス。スキピオの兄。
ロングス(ティベリウス・センプロニウス・ロングス)……カルタゴ本国上陸を睨んで元老院によりシチリアへ派遣された執政官。
ワロ(ウァロ)……ローマの執政官。カンナエの戦いでの総指揮官。
ヴァロス……ローマの執政官。スキピオの舅。小スキピオの実の祖父。
アエミリア・ヴァロス(パウッラ)……ヴァロス執政官の娘。スキピオの妻。
ファビウス……慎重なローマの執政官。
グラックス……前執政官。解放奴隷による軍団編成を行った。
クラウディス……〝ローマの剣〟と称賛される名将。マルクス・クラウディウス・マルケッルス。
アルキメデス……ギリシャ人植民都市の王族。軍師。