04 葉月 匠 著 鬼 『月下の鬼』
煌々と照らす青白い月が見ている。
宵闇に息を切らし走る女の姿を照らしだしている。
灯りも持たず夜陰に紛れひた走る女の為にせめてもの灯となりたいのか。
いや、女の行く末を嗤う為か。
眠りについた町は静かだ。
どこかで痩せ衰えた野良犬の遠吠えだけが虚しく響く。
宵引きの蕎麦屋の屋台にも寒さの増した今夜は客の姿も見られない。
蕎麦屋の親父はちらりとだけ女に視線を送りはしたが、知らん顔を決め込んだ。
女の顔に浮かぶものを見たからか、親父は小さく「桑原桑原」と呟いて店仕舞いをしようかと考えている。
堀沿いの道をひた駆ける女の目には屋台の灯りも写りはしないだろう。
今走らねば二度とは逢えぬ、それを女は知っている。
恋しい愛しい彼の人は今宵の闇に紛れここを去るのだ。
二度と逢えぬ場所へと赴こうとしている。
春の暖かで麗らかな日差しの中でも彼の人はとても静かに佇んでいた。
神社へと続く道沿いに植わった桜が咲き始めると競うように多くの屋台が建ち並び縁日のような賑わいになる。冬の侘しい寒さから解き放たれた人々は楽し気に思い思いに桜を愛でに集っていた。
人込みに出向く愛娘を案じる親を説得し初めてお付きの女中と二人だけでこの場所を訪れたあの日。
小娘の浮き立つ心のままに桜詣でを楽しんでいたのに、どうしてあの時見てしまったのか。
舞い散る桜の花びらを手のひらで受け微笑んだ彼の人を見てしまったのか。
思いに耽るような微笑み。
すべての色が艶を増した瞬間だった。
十七の春、お駒は恋に落ちていた。
小間物問屋の一人娘のお駒は商家の娘の嗜みにと三味線の手習いに通っていた。自由に町中を歩ける身上ではないがお付の女中に言い含めあの時見かけた彼の人にもう一度逢えはしないかと時の許す限りの中であの日の場所へ出かけていた。神社へ続く門前通りに出張った屋台も今はなく桜の季節は過ぎ去って厳かなまでに静まり返った境内は人影もない。
あの時彼の人は神社の裏に広がる森へ入って行った。
人目を忍ぶように花見に浮かれる人波から離れ森の中へ姿を消した。
彼の人は何か秘め事を抱えた者、今のお駒にはわかる気がした。
親の目を偽りこんな大胆な行動に出るだなんてお駒自身驚きだった。
只一度見かけただけの男だというのに焦がれるような想いは小娘をも激しく女に変えていく。
何処の誰かも知らぬ男だ。只々あの日見かけただけの男だった。だがしかし、お駒の執念なのか忌まわしい縁なのか。
お駒は再びあの時の男を見つけてしまった。
そして、恋い焦がれたその男の腕にはお駒とは違う女が抱かれていた。
神社の境内の木立に隠れ秘密の恋の逢瀬、お駒はその場を見てしまった。
息を殺し二人と同じように木立に紛れその逢瀬を覗き見た。
主様、と甘く女は囁いた。愛おしげに抱きしめる腕に力が籠ってゆく。
激しい何かがお駒の身体を駆け巡る。焼けつくような痛みがお駒の心を捩じ上げる。
恋しい人は違う誰かを求めていた。
お駒の事など知りもしない。彼の人と結ばれた糸は違う女の手にあるのだ。
ここで逃げ出していれば若い娘が独り闇を駆ける事もなかったのであろう。
けれどお駒は己の眼を二人から外すことはできなかった。
男は武家の出、それも嫡男ではない。
女はその家の跡取りに嫁いだ。
同じ屋根の下で暮すうち、互いに惹かれ偲びあう仲になった。
お駒は足繁く神社に通いそれを知った。
二人を見ている者がいることなど知らぬ男と女は毎月一度、逢瀬を重ねていた。
そしてあの日。
正月も開け町に落ち着きが戻った頃にとうとう二人は出奔を選んだ。
夕暮れ時の境内で囁き合い誓い合う二人の姿をお駒は見ていた。
いなくなる、もう二度とその姿を見る事は出来ない。
その想いだけがお駒を支配した。
彼の方はあの女の手を取り遠くへ逃げようとしている……。
モウ、逢……。
あの春の日から一年近くが経ち冬を忍んだ桜が芽吹く前の頃。
お駒は駆ける。
あの境内へとひた駆ける。
胸に抱くは懐剣。守り刀として生まれた時に祝いに贈られた物。
父親が商家の娘には過ぎたものだと笑って生まれたばかりの娘の隣に並べた物だ。
そんなお駒を真冬の月は照らしだしていた。
翌朝早くそれを見つけたのはぼて売りの男だ。
今日も売り上げが上手くいくように神社で参るのがこの野菜売りの日課。
さぁ、今日も売って廻ろうと境内を出ようとした時にそれは光った。
折り重なるように倒れている若い男女。
女の手にあった刀が光り、ぼて売りの男を呼んだ。
見知らぬ娘に刺された男は驚きの表情を浮かべ絶命した。
娘は自らの首を切り付けてやっと望みを叶えたのだ。
愛おしい男の体を抱くように娘は死んでいた。
蕎麦屋の親父はのちに語った。
あの夜に見たのは夜叉だったと。
赤い眼を月の灯りに輝かせ駆ける夜叉を見たのだと。
出奔しようとまでに想い焦がれた恋しい男が見知らぬ娘に居殺された主家に嫁いだ女がどうなったのかは誰も知らない。
冷や飯食いの武家の次男坊が町娘と犯してしまった心中事として片づけられた出来事は愚かだと囁かれてもそれまでの話として終焉を迎えていく。
ただ。
命を懸けてもいいとさえ思った男が知らぬ娘と通じていたと。挙句二人で今世に別れを告げたことを知らされた女の心の奥底を計ることは誰にもできまい。
煌々と照らす青白い月が夜空に浮かぶとき。
月明りの下で闇を縫うように走る鬼女の姿をまた見る者が現れるのだろう。
了