00 奄美剣星 著 オープニング 『春は獅子の如く』
各作品著作権は執筆者にあり、編集者(奄美剣星)が、執筆者同意のもとに編集しました。無断複製転載を固くお断りいたします。
Ⓒ挿図/奄美剣星 「C57-180」
春が訪れた。
潤んだ瞳をした流し髪の恋太郎こと・恋川遼太郎と、長い髪を背中まで伸ばし途中で束ねた和泉愛矢の二人連れが、自転車に乗って、「シーサイドカフェ」を訪れた。
路面電車の停車場から海にむかって数百メートルのところにある、取り壊し寸前みたいなくすんだ二階建てビルで、外付け階段からアールデコのパブに入ってゆく。
若いマダムが厨房からでてきた。
「お久しぶりね、恋太郎君、愛矢君。そこの窓枠が見晴しいいわ。はい、これメニュー」
すっかり名前まで憶えられてしまった。
二人は勧められた窓際の席に座った。
大きな窓からは砂浜がみえる。
恋太郎はスケッチブックを開いた。
若いマダムが注文をとりにきたとき、愛矢がいった。
「あれ、マスターは?」
「あそこ――」
若いマダムが指さした先に、ウェットスーツ姿をした逆三角形の男が、サーフボードを小脇に抱えて歩いていた。
「今日は波が割れていない。沖から風が吹いている」
「沖から吹くといい波なのですか?」
「そうよ。海岸沿いに吹く波が一番よくないの。やたらに白っぽくて砕けたように泡立った波。あれが駄目。堤防をみて、サーフボードを積んだ車がどんどん、海岸駐車場に集まってきたでしょ」
波は海岸に押し寄せる潮が、浅瀬の凹凸にぶつかって、跳ね上がるものだ。波が立ち上がる地点は波間から数十メートルといったところだろうか。
サーファーたちは群れをなし、人気のない海岸に、いつの間にか五十人くらいが飛び込んでいった。皆、長板に腹ばいとなり、両手で掻いて、沖合に漕ぎだした。
「まさか、サーファーって、いい波を追いかけて、海岸から海岸を車で渡り歩いている?」
愛矢が驚いた顔をした。
すると、若いマダムが、「もちろん」といって笑った。それから彼女は、「ご注文は?」と、愛矢をむいてつけ加えた。
「ミルクティーを――」
「恋太郎君は?」
恋太郎は、スケッチブックに思いつくままに絵を描き、至福の世界に浸っている。
愛矢は苦笑した。
「面倒だから、一緒でいいです」
伝票にボールペンで書きこむ若いマダムの指先は長く優雅にみえた。
ジーンズにエプロン姿、それにソバージュの髪だったのだが、恋太郎には、だんだんと、金髪碧眼の若い貴婦人にみえてきた。その人が笑みを浮かべて語りかけてきた。
*
なだらかな丘陵に、大きな牧場があって、牛や羊が往来している。
オークの森があり、そこに、ぽつりと、荘園屋敷がたたずんでいる。
部屋はヴィクトリア様式だ。赤絨毯に暖炉、テーブルの上には、銀ポットとティーカップ二つが置かれている。
マダムが、銀ポットから紅茶を注いだ。
“One, for you.”
“One, for me.”
“And one, for the pot.”
一杯はあなたのために。
一杯は私のために。
そしてもう一杯はポットのために。
懐かし特集・紅茶メーカーのキャッチコピーみたいだ。
するとだ。
恋太郎は横から頭を何度も叩かれているのに気づく。
「恋太郎、おい、恋太郎、戻ってこーい!」
恋太郎が正気に戻ると、いつも店内に流れているロックではなくて、フォークギターが演奏されていた。
楽器を抱えていたのは、灰色のジャケットにシャツ姿の痩せた老紳士だった。どこかでみたことがある。
恋太郎と愛矢が不思議そうにみていると、マダムが微笑んだ。
「紹介するわ、常連さんの教授よ。近くで遺跡調査をなさっているんだて。ポモリ教授ってみんなが呼んでいるわ」
「ああ、やっぱり――」
愛矢が両手を打った。
教授は東京にある私立大学で教鞭をとっている人だった。
ポモリ教授と呼ばれた紳士が微笑んで、
「どうだい、唄ってみないかい?」
と恋太郎たちに提案した。
教授はくわえ煙草をしていた。霜を混じえた頭はナチュラルヘア。細面、口髭。いつもスーツを着こなして、蓋のない懐中時計をズボンのポケットにしのばせていた。そしていつも煙草をくわえている。
ポモリ教授はむかしの音楽家、ポール・モーリアそっくりだ。恐らくは、その名を縮めて教授の仇名にしたのだろう。
レコードのアルバムが終わったので、マダムが針をはずした。教授が奏でだす。
On a wagon bound for market
There's a calf with a mournful eye.
High above him there's a swallow
Winging swiftly through the sky.
How the winds are laughing
They laugh with all their might
Laugh and laugh the whole day through
And half the summer's night.
Dona dona dona dona
Dona dona dona down
Dona dona dona dona
Dona dona dona don
「『ドナドナ』はね、楽しげに唱ってバランスをとるんだ。音楽というのはそういうふうにやるんだよ」
──なるほど。
ポモリ教授と過ごす時間はとても愉快だった。教授は恋太郎たちにいったものだった。「恋太郎君はもう大人になる。もう少ししたら愛する人とアパートの軒先に洗濯物を並べてもいいんだよ」
「困りました。相手がいません」
「残念だねえ」
「はい、残念です」
「恋人ができるといいねえ」
「はい、できたら嬉しいです」
二人のやりとりをきいていた、カウンターのむこうの若いマダムと、一緒にいる愛矢が、目を合わせると一緒に噴きだした。
教授はマンドリンをケースにしまいながら、珈琲とナポリタンを三人分注文し、恋太郎と愛矢にご馳走してくれた。
――春は獅子のように現れて、羊のように去ってゆく。
花を満開にした桜木の枝が揺れていた。
羊のように去りゆく、ゆるい季節の夕暮れ。
やがて恩師となる教授との出会いが、そんな風景のなかであったのを、恋太郎と愛矢は記憶している。
ノート20140218、校正20170110