引き金.II
(へぁっ!? な、なになになになんやこれなんやこれ!)
走りだしたバスの中で、石川はぐるぐると目を回しそうなほど混乱していた。
「テメェら、動くんじゃねえぞ! 下手な真似してみろ。ぶっ殺してやる!」
突然のバスジャック、である。理由は明白だ。
唐突な異常事態に遭遇した石川の脳内は、突発性の竜巻にでも襲われたかのように為す術もなく状況に飲み込まれている。
時刻は七時五十四分。ちょっとラッキーなことを除けば何の変哲もない一日の始まりでしかなかった朝だった。天気予報は一日を通して快晴で、テレビの占いコーナーでは蟹座の運勢は絶好調と出た。だからこそ、鳴り響く銃声に頭を金槌でガツンと殴られたような衝撃を受けたのだ。
本来ならここでキャーと悲鳴の一つでも上げて、事件に巻き込まれた被害者として相応しい振る舞いをするべきなのだろうが、生憎とTPOをわきまえる余裕などはない。そもそも、そんなことをすれば運転席の方に立って目を血走らせているあの犯人に、ものの弾みで撃たれてしまう可能性すらある。
故に、石川はドサリと崩れ落ちるように腰を降ろした座席の上で、頭の中で「えっえっえっ」とループ再生し続ける他なかった。
(ああ、神様、おれ何か悪いことしましたか!? 遅刻以外で!)
こんなことなら今日も寝坊すればよかったんだ、と見当違いな後悔で胸が軋る。
どうして寄りにも寄って、珍しく早起きした日にこんなことが起こるのか。
断っておくが、石川は主人公なんかではない。決してない。特殊な超能力も魔法めいた力もトンデモ超人スポーツの経験もなく、幼馴染みや義理の姉妹どころか親しい関係の女の子一人いやしない。精々が、一風変わった街にあるやや風変わりな学校に通っている、普通とはちょっとだけズレた高校生、といった程度のはずだ。
学校にテロリストが、なんて非日常には縁遠いし、異世界に転生する望みも限りなく薄い。つまるところ、平凡と評して差し障りないくらいには、どこにでもありふれたモブの一人である。自分で認めちゃうのは悲しいが、事実なのでしょうがない。
(そのはずやろ! 何やこれ? おっさんは求めてないやぞ!)
バスは走り続けている。朝と言うには周囲の景色がハッキリしない程に暗いが、『ジオシティ』では不思議なことではない。むしろ、これでも明るいほうだと思う。晴れようと曇ろうと、実のところ天気はこの街には関係ないのだ。さらに付け加えるなら、昼であろうと夜であろうと、ここに太陽や月の明かりが降り注ぐことはありえない。
何せ、バスがひた走るジオシティの直上にはどんな暗雲よりも分厚く立ち込め、しかも風で流されることもない厚さ二十メートルにも及ぶ巨大な"天井"が存在するのだから。
ここは、『アトラス』と呼ばれる全六基の馬鹿みたいにデカいビル状の脚部モジュールによって、空中に持ち上げられた人工の浮上大地。
周辺十キロメートルをほぼ円状に覆い尽くす、カーボンナノシャフトと超硬度鋼管で編まれた鉄骨の複合骨子によって支えられた"超大型自立大地"。
――その真下に位置する、地下に沈んだ街だ。
一日を通して直接日の光が差し込むことはなく、ジオフロート外域に設置された採光用鏡面パネルが送り込む反射光が、辛うじて夜が明ける前の、薄明時のような薄明かりを届けている。
だから、とても暗い。脚と脚の間を通すように設置されている鏡面パネルだけでは、地下街に十分な光量を送り込めないからだ。
それに横からの光では建ち並ぶビル群に遮られてしまい、中心に近づけば近づくほど効果がなくなる。
今バスが通行してる南区はまだ外縁部に近いが、それでも夜に飲み込まれそうな薄闇の中に横たわっていた。
(まるでこのまま地獄に連れて行かれるみたい……ぎゃあああ、嫌やー!)
バスの車窓に映る自分の情けない表情を見つめて、さらに気分が沈む。臆病に震える羊みたいに、今にも泣き出しそうな顔をした奴が、この状況から生きて帰れるとは想像しづらい。
バスに乗り合わせていた誰もが、石川と似たり寄ったりな状態のようだった。
誰も声を上げず、無闇に逃げ出そうとしたり、自棄になって暴れるような様子もない。時折こちらを威嚇するように向けられる銃口から、少しでも身を守ろうと前の座席の陰に体を押し込んでいる。
無理もなかった。全員が学生なのだ。
ズボンやスカート、靴の違いはあれど、男女関わらず石川が着ているものと同じ制服を身につけ、同じく不安そうな表情で視線を彷徨わせて――
…………ない?
「クソッ。ガードの連中……取引の日時まで抑えてやがったのか。クソ、クソ、畜生が! ――こうなったらテメェらは道連れだ。俺がジオフロントを抜けるまで付き合ってもらうぜ」
銃をチラつかせながらバスジャック犯が喚き散らす。
その怒号に紛れて、すぐ近くからコソコソと声が聴こえてきた。
「ハロハロー、こちら交渉科二年生の亜子ちゃんでーす。凄いよ、バスジャックに遭っちゃった。ねえ、助けて?」
ナイショ話でもするみたいに、手のひらに収まるサイズの無線機に向かって話しかける少女の存在に、石川は今更ながらに気付いた。
途端に、隣から漂ってくる蜂蜜めいた甘い匂いに鼻腔がくすぐられる。どうして女の子はこんなイイ匂いがするのだろう?
どうにも、最初から隣の席にいたみたいだった。
可愛い子だった。ゆるいパーマのかかった髪は、脱色しているのか地毛なのかは分からないが日本人にしては色素の薄い亜麻色で、その一部をワンサイドアップに結っている。石川の脳内ランキングで上位に食い込む髪型だ。ネコ科を思わせるパッチリとした目元には薄く化粧を施しているようだが、それが少女の今風の可愛らしさを上手く引き立てていた。
座席に座っていると、足が床から軽く浮かぶくらいには小柄なようで、ブラウスの上に着込んだピンク色のカーディガンの袖口から覗く指先がなんだか可愛らしい。
「あー、やっぱり捕まえ損ねた犯人なんだ。うん、本人がそれっぽいこと言ってたし」
バスジャック犯の目を盗み、声を潜めてなおも少女は無線機を相手に髪質にも負けないふわふわとした口調で話しかけている。
というか、石川が知る少女だった。
名前は亜子。先ほど自ら言っていたように交渉科の二年生、つまり石川と同学年だ。クラスこそ違うが、学内ではかなり人気の高い子で、話したことのない石川でも彼女の人となりはよく知っている。いわゆる、おバカな愛されキャラというやつだった。
そんな少女――亜子と、目が合った。
石川の視線に気がついたらしい亜子が顔を上げてパチクリ。その大きな目を瞬かせて、小首を傾げる。
ああ……可愛い……などと、場違いにも心が弾む。叶うなら友達とかもっと進んだ関係で、今よりずっと平和なシチュエーションで眺めたいものである。
「どしたの? あっ、キミも誰か呼ぶ? 一応学校には通報しておいたけど……はい、亜子の無線機貸したげるね」
「あっ。えっ。あっと、あ、ありがとう……ございます」
「くふっ、どーいたしまして」
不覚にもどもってしまった。穴があったら入りたいとはこのことだろう。ドギマギしながら機器を受け取った石川は、そこに残る微妙な温かさに感極まりながら周囲を見回す。
車内のあちこちで、無数の目が光っていた。
誰ひとりとして怯えてなどいない。むしろ、どうやって獲物を仕留めようかと考えを巡らせる猟師のように静かに、しかしギラギラとバスジャック犯を見据えている。中には、亜子と同じくどこかに隠し持っていたらしい無線機を使って小声で外部と連絡を取っているらしい姿も見えた。
どうやら、不安から右往左往していたのは石川だけだったらしい。
(見習いと言ってもさすがはガードやなぁ。俺も……なんやけど)
チラリと、ジャケットに隠れた自分の腰を見下ろす。
革製のホルスターに収まっているのは、自動拳銃。9x19mmパラベラム弾を最大で十六発装弾可能な、ドイツの傑作拳銃の九ミリモデル。
おおよそ普通を自称する高校生には似つかわしくない、無骨な輝きだった。