9章 深淵の澪標
自身がエニルクスであったこと―――。
埋もれた真実を理解した彼はバイクを走らせていた。
今度向かう先は―――紅き館。彼は聖櫃化されそうな彼女の為に―――。
「…待ってろよ…私が…今助けるからな…!」
彼の意思は固かった。それは何かで決して震え動くものでは無かった。
心の中の辛さは深淵へと消え伏せ、彼に残った心情―――全てはそうであった。
初対面の自分に、名前を付けてくれた彼女…。
―――産み落とされた孤児は必死に母親を捜す。彼の苦しみ抜いて、足掻き生きる運命を、彼女は手を差し伸べた―――。
バイクはビル街を抜け、元あった紅魔館へと疾走していた。
黒塗りの点は更地の上に掛かる橋を駆け抜け、音を切らす。
―――彼が抱く焦りが、バイクのスピードを更に加速させた。
◆◆◆
「り、リヒト…そういうことだったのね…」
「…そうだ。…私を使え。
そうすればエニルクス因子が採取出来て、無事に肆律が出来るはずだ」
「…でも…一体誰のエニルクスなのよ、リヒト。…トフェニ10神は全てエニルクスを持ってるわ…。
―――だけど貴方の捺印は本物よ。…気づかなかった私もあれだけど、一体何故…」
彼女は悩んだ。目の前で起こっている事象が、本来では考えられないからであった。
何故リヒトは捺印を持っているのか。彼は一体誰のトフェニの元のエニルクスなのか…。
彼女は考えたが、今はそんな深淵に浸っている場合では無い事を第一に悟った。
「…まあいいわ、有難う。貴方の因子を採取して、肆律を行うわ。
―――フラン、貴方は今から実験を行うから外の厳重管理をお願い」
「分かった!」
そう言うと、宝飾を下げた彼女は急いで外の結界を守る役に就いた。
実験を行っている最中に襲撃されたら、リヒトの機械的生命が揺らいでしまう。
―――彼女は大事な職に就いたのだ。
「…咲夜、貴方は補助を頼むわ」
「―――分かりました」
彼はそんなやり取りを前に、今から行われる事柄の実感が湧かなかったが、彼女の為ならば、と意を固めた。惆悵芥蔕裁判で彼女を通過させ、元の形に戻す為にも…。
◆◆◆
彼が目を覚ますと、まず最初に鮮やかな光が眼の中に入って来た。
寝ていた感覚を得て、彼は実験されていた事を察し、上半身を起き上がらせた。
その次に映ったのは、試験管を片手に満足そうな笑みを浮かべていたパチュリーであった。
「…やったわ、採取成功よ」
「―――初めてなのに成功したのか」
「貴方の身体を何度も貪ることなんてできないわ。…それに、私の腕も一応上よ?」
「…ならレミリアへの移植の際にも一発で成功出来るんだな」
「そう言われるとちょっと…アレだけど、私に任せなさい!」
彼女は補助を終え、外に出していた咲夜を呼ぼうと立ち上がった瞬間―――。
「…ぱ、パチュリー様!…お、OBEYの軍勢が襲撃に…!」
「…何としてもここは死守、頼むわよ!…私はレミィへの因子移植をするから準備するけど、決して中に入らせたりしないで!」
「…私が行こう」
彼は困った咲夜の前で、実験直後にも関わらず太刀を構え、戦う意思を見せる。
そこにあったのは彼なりの正義である。果たしてOBEYは悪なのか。それを問えば終わりが無いのも事実であった。
だが彼は摂理府に惑わされた存在であろうとも、襲撃を許すことは出来なかった。
「…り、リヒト、貴方…」
「実験後とか言う肩書なんて、襲撃時には関係ない。…行って来よう」
彼はすぐさま太刀を構え、咲夜が言う方向へと走っていった。
実験後とは思わせぬ軽快な走行に彼女は心配や不安を募ったが、言葉に甘えるしか無かった。
咲夜はそんな彼を援護するかのようにカードを構え、彼女に述べた。
「パチュリー様、リヒト様のお手伝いをして参ります!」
「分かったわ、咲夜!…いいから絶対に…ここには入れないでよ…!」
「…お嬢様とパチュリー様の命は、この私の全てを賭けてでも守って見せます」
◆◆◆
彼は太刀を構えて外へ出た時、甲冑を着た2人の男がOBEY兵を連れて進撃してきたと言う事実を読み取った。ノーヴァンセラス枢機卿を中心として襲撃した時のように、武装妖精メイドと兵士が結界前で衝突し、戦っている。
彼はそんな場に溶け込むように入り込み、奥の2人の枢機卿の元まで走った。
戦火が迸る。燃え行く世界で、彼は2人の男を見据えた。
「…また襲撃しに来たのか…物好きだな…」
「こりゃあ巷で評判の助っ人さんか?エニルクスである片翼の白鷺さんを撃退したとか何とか」
彼の脳裏に浮かんだ女性と"片翼の白鷺"と言う単語が一致し、既に情報が知れ渡っていることを悟った。
しかし今起こっているのは目の前で起きている事実…紅魔館を落とそうと試みるOBEYの刺客。
彼は憤怒した。行き場の無い怒りが、彼を付き纏う。
「そうみたいだなガイオステンペスト。…奴が幻象召喚出来ると噂だ」
「…めんどくさいなあ…。…トフェニ政権は確立されて、オズマ・トフェニ=エデンによる世界統治が始まったのにまーだ文句を言ってるなんてなあ」
溜息をついた、右側の甲冑の男はそんな彼を見据え、懐から折り畳み式の剣を取りだした。
全長1.3m弱の剣を右手に、剣先を彼に指し向けた。
「…時代遅れだよ?紅魔館組さんよ。…貴方たちが壊した咒式降誕炉の修理費、大変なんだから。…ニスト・ペグダムは完全にオーバーヒート起こして機能を停止してるし。
なーにやってるんだよ…」
「これは私たちの使命だ。元からあった本来の世界を取り戻し、何時かは希望抱きし世界を…作り上げる!」
リヒトの想いは変わらなかった。
OBEYを敵視し、彼は彼なりの信念を胸に、太刀を構えていた。
揺るぎないその思念は、彼が感じた情景でもあった。
「悲しいなあ…エデンの政策が悉く拒絶されてるなんてなあ…」
右側の甲冑は未だにエデンを受け入れぬ彼を批判した。
その時、彼に起こった感情―――それは決して許せるものでは無い、瞋恚―――。
「…オズマ・トフェニ=エデンが行うトフェニ政権なぞ、私が望むものでは無い!」
「なら無理やり飲みこませてやる!
―――こちらアロン・グレッダ=ガイオステンペストOBEY反逆者壊滅責任枢機卿とアロン・グレッダ=ホワイトボルトOBEY零刻次元監視責任枢機卿より連絡…間もなく対象者との戦闘に入ります」




