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赤い糸

作者: 悠月

女が立っている。

ずっと。

ずっと。

千次の目の前の女は身じろぎ一つしない。

日に焼かれ、雨に打たれ、月光を浴びながら一言も発せずに隣の松乃助の家の前に立っている。

松の助がこの長屋に越してきたのは、彼の親父殿が生きていたころだから、もう十年近く前のことだ。

千次もまだやんちゃ盛りの若造でよく一緒に悪さをして怒られたものだ。

長年の友人である松の助に、あんな知り合いがいるという話は聞いたことが無い。

女が現れたのは五日ほど前の事だろうか。

一週間近く松の助が留守にした後に女は現れた。

多少髪や着物が崩れていたが、それが女に妖艶さを与えている。

赤い牡丹の咲き乱れる着物。

開かれぬ赤い唇。

なぜか小指から赤い糸が垂れている。

こんな貧乏長屋に似合わぬなぁ。それが千次の最初の印象だった。

おかしなことに気づいたのは女の姿を見つけた次の日のことだ。

女はまだそこにいた。

仕事に出かける前にも帰ってきたときにも。

小雨が降る夜も下を向いて同じ姿勢で其処にいるのだ。

長屋の人間は誰一人として女の話題に触れぬ。

それが少し恐ろしい。


「千―」


松の助の声が千次を呼ぶ。

やっと帰ってきたのかと外に出るのが少々恐ろしく思いながら千次は戸を開けた。


「いっぱい野菜があるんだ。鍋でもしようじゃないか」


松の助は溢れんばかりに野菜をつめた籠を振って見せた。

「ああ」と声を出そうとした千次の呼吸が止まる。


「ん? どうしたんだ?」


女が此方を見ていた。

正確には松の助をだが、千次は初めて正面から女の顔を見た。


「……なぁ松。あの人は……」


「どいつだい?」


目の前までやってきた松の助はきょろりと視線を方々に向けたが、女の姿が見えぬのか視線を千次に戻し、首を傾げた。


―見えないのか……では、あのお人は


千次はもしかしたら人ではないのかもしれないと思っていた。

牡丹柄の着物は人の目を惹く。

けれど誰も女について触れぬなどおかしなことだ。

見えているのは己にだけかと。



「早く来いよ」


松の助は女の目の前を通り、自分の家の中に入っていた。

もう女の視線は松の助に戻っている。

女の横を通り過ぎる際に千次の耳を固い声が打った


『お前さんには見えるんだね』


思わず振り向いてしまった千次は間近で女の顔を見てしまった。

血の気の無い顔の上で唇が赤く色を持ち、目には古血の色が浮いていた。


「早く入れよ」


入り口で止まってしまった千次に声をかけ、松の助は火を熾しはじめた。

その言葉に千次よりも先に女が動いた。

するりと家の中に入ったのだ。

座り込んだ松の助の背後から覆いかぶさるように首に腕を回して女は愛おしそうに恨めしいように頬を寄せた。


『どうしてあんたには見えないのかねぇ』


何も感じないのか松の助は作業を続けている。


『ひどいねぇ。ひどいねぇ』


恐る恐る部屋に入った千次は尋ねた。


「松……お前なんにも気づかないのかい?」


「何にだよ?」


あんなにもはっきりと見えるのに。

あんなにもしっかりと抱き込んでいるのに。

松の助は千次の言葉に眉を上げただけだった。


「最近姿が見えないようだったけど、何してたんだい?」


千次は女を視界に入れないように目を伏せたまま汁をすすった。

味など分かるはずもない。

松の助は決まった職業を持っていない。

時に短期の仕事を見つけては金を稼ぐのだ。


「良い稼ぎの仕事があってね」


松の助は嬉しそうに笑い、空になった椀に中身を継ぎ足した。


『嘘吐き。信じたのに……一緒に逝こうと言ったのに』


「ふぅん」


『お池のほとりで殺された。後で来ると言ったのに』


どうやっても女の声は耳に入ってくる。おかしいのは自分のほうだろうか。


「松、女の人を知らないかい? 牡丹の柄の着物の」


「何なんだ。お前さっきからおかしい奴だな」


「……知らないならいいんだよ」


この辺りでお池とは戻らずの池しかない。

最近では心中の名所になっている。

馬鹿だと思いつつ明日言ってみようと千次は決心していた。








千次は女の言葉が気にかかりお池に足を向けた。


―どうか、違っていておくれよ……


お池の近くはうっそうと木々が茂り、昼間でも暗い。

曇天ならばなお更人を寄せ付けぬようにひっそりとしていた。

虫の鳴き声さえしない其処に木の根に足をとられながら千次は進む。

鏡のように凪いだ湖面が見えるころにはびしょりと汗をかいていた。

女の遺体などありませんように。祈るような気持ちは叶わぬ事を知っていたのか千次の口は「南無阿弥陀仏……」と繰り返えしていた。


「ああ……」


そして見つけてしまったのだ。

眠るようにして水面に沈む女の姿を。

血の気の無い顔は真白で解けた髪は扇状に広がり揺れ、小指に結ばれた赤い糸だけが白い指に食らいつくように強く色を残していた。

途中で切れた糸は行き場を失って、虚しく漂っていた。

着物の柄は牡丹だった。










お池で女の遺体が見つかったことはすぐに知れ渡ったが、さほど話題にされることも無かった。

心中の名所で遺体があがるのには誰もが慣れっこになっていた。

人々の口に上るのは、新しい芝居小屋のことや、大店の息子の結婚の話ばかりだ。


「お池で女の遺体が浮いたってよ」


千次は松の助に告げた。

あの女はやはり松の助の背中に張り付いていた。


「そうらしいな」


猪口に残った安酒を煽りながら興味のなさそうに松の助は返した。


「相手はまだ上がってないそうだよ」


「もう浮んでこないかもしれねぇな。あそこは戻らずの池だもんなぁ」


お池では心中と思われる遺体が見つかっても片方だけの場合が多々あった。

見つからないのが男のほうばかりなので、池の主が女で連れて行ってしまうのだと噂されるようになったのだ。

池の主が骨まで喰らってしまう。骨まで帰ってこぬ、戻らずの池と。


『嘘吐き。嘘吐き。なんであんたに見えないんだい』


「稼ぎの良い仕事って何だったんだい?」


長年の友人を疑りたくはない。

それにあまりに軽い松の助の物言いは千次に当事者ではないだろうと思わせた。

女の勘違いで松の助に憑いているのではないかと。

だから女が現れる前の松の助の行動をハッキリさせようとしたのだ。


「ああ〜あれは楽で、その上稼ぎもよくって最高だった」


程よく酒が回ってきたのか松の助の頬は赤くなり、口のすべりも良くなった。


「ほら、一ノ屋の若旦那が居るだろう〜……」


最近祝儀を上げたばかりの大店の息子だ。

それはそれは派手な披露宴だったらしい。

貧乏人の千次には関係のないことだが。


「若旦那にはな、付き合ってた女がいたんだがね〜ははっそいつが邪魔になっちまったんだよ」


千次の背筋がぞっと粟立った。もしや、本当に……


「だから、別れさすのに手を貸してやったわけさ」


『殺された。殺された。愛していると言ったのに』


「どうやって……」


聞いてはいけない。

心の臓は早鐘のように鳴り警告を発しているが聞かずにはいれなかった。


「俺に惚れさせたんだよ。あの女すぐに若旦那から切り替えやがった」


『口惜しい……』


銚子を振りながらソレが空だと知ると松の助は舌打ちと共に放り出した。


『どうしてあんたには見えないんだい』


ほどけた女の髪がぞろりと松の助の体の上を這う。



「千次さん!」


向かいの家のはるの声がした。

長屋一元気なおばさんだ。

早くに母親を亡くした千次も松の助も随分と世話になった人だ。

切羽詰った声がして、勢いよく戸が開けられた。

今の今まで走っていたのか、はるは肩で息をし、零れ落ちると思うほど目を見開いていた。

腰を上げて近づくと痛いほど肩を握られ白くなるほど力を入れられた手は小刻みに揺れている。


「どうしたんだい? おはるさん」


尋常じゃない。はるの背を摩りながら千次は尋ねた。


「松が……松の助が……」


「松がどうしたんだい?」


背後であくびをかみ殺す松の助に視線を向ける。

女を背負っている異常な状態ではあるがはるには見えないはずだ。

現に彼女は家の前に立っていた女に目もくれなかったのだから。


「松がお池で見つかったんだよう」


「えっ?」


そう言ってはるは崩れ落ちた。


―何を言っているんだ……松は其処に……


『殺してやったのに』


―え?




『若旦那の女を奪うなど誰も許してくれないと……心中しかないと言ったのに。愛していると言ったのに。嘘だったんだ。他の女と同じように私を殺して逃げる気だったろう。だから殺してやったのに……道連れにするはずだったのに』


「……松」



『どうしてあんたには私が見えないんだ。どうして気づかないんだい。』


女の小指から垂れる赤い糸は松の助の小指にしっかりと巻きついていた。

同じほど濃い赤が松の助の背中を染めていた。


「どうしたんだい? 千」


『私たち死んだんだよう』


松の助の顔の前で女は悲しげに苦しげに呟いた。




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― 新着の感想 ―
[一言] あ〜やられたっ! 上手いです。上手すぎるっ。 時代物を書かれる方って、その世界観にどっぷり浸かり過ぎてしまうきらいがあるように思います。思いいれたっぷりな文章がくどく感じてしまうこともしばし…
2007/11/18 15:17 退会済み
管理
[一言] あ〜やられたっ! 上手いです。上手すぎるっ。 時代物を書かれる方って、その世界観にどっぷり浸かり過ぎてしまうきらいがあるように思います。思いいれたっぷりな文章がくどく感じてしまうこともしばし…
2007/11/18 15:15 退会済み
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