もう疲れたと呟いた君は
君はとても不思議な子だ。
あまり人と話さないし、周りの人間も君のその独特の雰囲気に気圧されて、遠巻きに見ているだけだ。
君はいつもその凛とした美しさの中に今にも壊れてしまいそうな緊張感を孕んでいた。だからある日ののんびりした昼下がり、君の部屋で僕と過ごしていた時に、急に糸が切れてしまったとしても、なんら可笑しくはないのだろう。
「もう、疲れたわ」
君は開いていた本をパタンと閉じて、鈴の音のような声で言った。そしてスッと立ち上がると、不意に着ていた黒いワンピースを脱ぎだす。君の白い陶器のような肌が剥き出しになっていく様子を僕はぼんやりと眺める。黒色の下着姿になった君はそのままスタスタと部屋から出て行く。君の艶やかな長い黒髪に遮られたつるっとした背中が歩く度ちらちらと見えて悩ましい。どこに行ったのだろうと考えていたら、シャワーの音がしてきた。
シャワーの熱で肌を僅かに紅色に染めた君が再び僕の前に現れたのは、かなり時間がたってからだった。君のシャワーはいつも平均より長めだけど、それにしても今回は長すぎる。
君は下着姿のままでワードローブの前に立つ。そして服を一つ一つ吟味するように引っ張り出し始めた。君は衣装持ちだから、下着姿でそんな選び方をしていては風邪をひいてしまう。僕は自分の上着を彼女の肩にそっと掛ける。君は何も言わなかったけれど、上着の合わせをぎゅっと握ったから、ありがた迷惑ではなかったようだ。
いつもなら君はこんなコーディネートの決め方はしない。頭の中ですぐに着たい服を決めてから、ワードローブから服を取り出す。いつもと様子の違う君の行動に僕は先の君の言葉の意味をようやく理解した。
悩みに悩んだ末、君が選んだのはワンピースだった。君に似合うシックなデザインのワンピースはウエストの部分がコルセットのようになっていて、そこで細くなっている分、スカートがふんわりして見える。色は黒一色だが、細かい刺繍やレースがあしらわれていて、手が込んでいる。そういえばこのワンピースはここぞ、という日には君が必ず着ているものだった。
「化粧をしてあげるよ」
「あら、気が利くのね」
君はうれしそうにドレッサーの椅子に座る。僕は君が着替えている間に出しておいたメイクボックスを開く。
「どんな風にしたら良い?」
「貴方に任せるわ」
これはつまり最高に美しくしろ、という事だろう。腕が鳴る。
僕はメイクボックスの中の道具をざっと確認すると、早速取りかかり始めた。君に似合うのは黒と赤。素材の美しさを潰さず、上手く引き出せるように細心の注意を払いながら化粧を施していく。アイラインは綺麗に跳ね上げて、マスカラで丁寧に睫を伸ばし。リップには赤を。チークとアイシャドーは控え目に。薄化粧だが、満足いく出来になる頃には、僕の額はうっすら汗ばんでいた。
「素晴らしい出来だわ」
「お褒めにあずかり光栄です」
わざと気取った口調でそう言うと、君はふふっ、と小さく笑った。そんな反応が面白くて、僕は君の髪を一筋掬って更に言葉を重ねる。
「御髪は如何なさいますか?」
「そうね……このままでいいわ。もう出掛けなくちゃ」
「お供致します」
「あら嬉しい。私の騎士様はどこまでご一緒してくれるのかしら?」
「姫がお望みとあれば、どこまでも」
姫呼びが気に入ったのか、僕の差し出した手を取り、君は立ち上がる。
君の足下に跪いてヒールのついた黒い靴を履かせると、手を繋いで外に出る。町中に入ると、沢山の人間の視線が君に注がれる。でも慣れている君は全く意に介さずに歩いていく。
「ここが良いかしら」
君が立ち止まったのは、町中から外れた位置に立っている廃ビルだった。こういう場所は普通、鍵がかけられているものだが、どこかの乱暴者が無理矢理壊しでもしたのか、入り口の扉は開いていた。
ビルの中は埃っぽくて、長い間誰も立ち入っていなかった事が窺える。君は足場の悪さも気にせずに奥の方にある階段に向かってどんどん歩いていく。
君の後ろについてコンクリートの灰色の階段を上っていく。灰色。中途半端な色だ。君には似合わない。僕にはとても似合うけれど。
「あら」
どうでも良いことをつらつらと考えていた僕は君の声で我に返る。
「どうしたの?」
「鍵がかかっているのよ。これじゃあ屋上に出られないわ」
どうやら屋上に繋がる扉の鍵は壊されていなかったらしい。ガチャガチャとドアノブを回しても開きそうな気配はない。
「少し離れて」
僕は君を下がらせると扉を蹴りつける。一回で蹴破れたら格好良かっただろうけど、僕はあまり力がある方じゃないし体重も上手く乗せられなかったから、それは無理だった。二度三度と蹴りつけてようやく扉を蹴破る事が出来た。
「貴方も意外と男らしいのね」
「知らなかったのかい?」
壊した扉から屋上に出ると外は日が沈みかけていて、空は美しいグラデーションを作っていた。廃ビルの屋上、昼と夜の狭間に立つ黒い美少女。うん、とても絵になる構図だ。
「綺麗ね」
「うん」
「赤い花と迷っていたけれど、天使にする事にしたわ」
「……どうしても行ってしまうのかい?」
「あら、貴方にしたら愚問ね」
君の目は真っ直ぐに僕を見つめている。その瞳は澄み渡っていて、君の決意は揺らぐ事はないのだろう。
君がとうの昔に限界を感じていた事は僕も知っていた。ぴん、と張り詰めた糸はいつ切れるか分からなくて。それでも凛とする君は美しくて――痛々しかった。
君は言葉通り、疲れてしまったんだろう。もう一歩だって踏み出せないくらい。呼吸もしたくなくなるくらい。未来なんて捨てたくなるくらい。
そんな君を引き留めるなんて不粋な事、僕はもう二度と口には出せなかった。でもせめて、君が許してくれるなら、
「僕も一緒に行って良いかい?」
「駄目よ」
君は僕の言葉をバッサリ切り捨てる。でも一見冷たそうな君の言葉には優しさが溢れていた。
「夜になってしまったわね」
気がついたら太陽は沈みきって、空に残っていたピンク色は消えて、黒が空を塗りつぶしていた。夜空を背負う君は夜の女王という言葉が相応しかった。
「もう行くわ」
君が屋上の柵を乗り越える。僕も続きたかったが、それは君が許さないだろう。
「さようならは言っても良いかい?」
「構わないわ」
「それじゃあ遠慮なく」
僕は君の右手を取る。
「ありがとうばいばいお疲れ様」
僕はそう言い切ると君の右手に唇を落とした。一番伝えたい言葉は言わない。今言ってしまったら、その言葉は君を縛る鎖になってしまう。
君は驚いたように目を見開いた後、花が咲くような笑みを浮かべた。
「さようなら」
そして君はスキップでもしそうな軽い足取りでビルの屋上の端から消えていった。