03.目覚めは喧騒と共に
「……、…納!」
何も見えない暗黒の中、遠くから聞こえてくる声。
「お……て、お……よ雪納!」
どうやら声の主は俺を呼んでいるらしい。
だが、依然として視界は暗闇に包まれたままだ。
っと、目を閉じているのだからそれは当然か。
背中から伝わってくるぬくもりと身体を支える感触から察するに、ベッドで横になってるらしい。
小さく息を吸ってみると、整髪料のような香りと消毒液特有のにおいが鼻をつく。
学校でこんなにおいがする場所といったら、可能性があるのは保健室か理科室、そして理科準備室くらいだろう。
そんな中でもベッドがあるのは保健室だけだ。
つまりここは保健室ということになるが……はて、俺は校庭で判定試験を受けていたはずだ。
それがなぜ、いつの間にか保健室などという特別な部屋に来てしまったのか。
保健室にいるからには、怪我をしたか倒れでもしたと考えるのが自然だが……
身体を動かせないという訳でもないようなので、起きて状況を確認してみよう。
俺は、ゆっくりと目を開いた――
「……ぁ? うおっ!?」
「きゃっ!?」
いきなり、視界にギョロっとした二つの目が飛び込んできた!
「な、なん……!?」
心臓がこれでもかというほど早鐘を打つ。
目しか見えなかったということは、目の持ち主は超近距離で俺の顔を覗きこんでいたのか。
誰だ、そんな嬉しいような怖いようなことをしてくれたのは。
犯人を突き止めるべく、俺はものすごいスピードでベッドから離れていった人物に視線を送る。
ベッドのちょうど真向いには窓があり、そこからは二月の寒さの中頬を赤くしながらグラウンドで活動している運動部員が見えた。
だがそれだけではない。
そんな青春の風景を提供している窓の一枚にビッタリと背中をつけ、こちらも顔を赤くしながら肩で息をしている一人の女子生徒がいた。
水色のネクタイを締めこちらを凝視しているその女子は――
「……なんだ瑞穂かよ」
俺の顔を覗きこんでくれていたのが、男子のあいだでもファンの多い養護の飯島奈津子先生でないことは制服姿ですでに分かっていたけど、よりによってコイツとは……
「な、なんだとは何よ! 人が心配してわざわざ保健室まで様子見に来てあげたっていうのに!」
そう言いながらこちらに近づいてくるのは、夕霧美穂――俺の幼なじみだ。
「ああ悪かった悪かった。それより、一ついいか?」
「本当に悪かったと思ってるのかしら……? まぁいいわ。それで?」
「ここはどう見ても保健室で、俺はそのベッドの一つに横になっている。それはいい。問題なのは、どうして俺が保健室にいるかってことなんだが……」
その俺の言葉に、美穂は目を丸くしてこちらを見つめてきた。
「雪納、自分が倒れたこと覚えてないの!?」
どうやら俺は倒れたらしい。
「ああ。いや、もしかしたら記憶が混乱しているのかもしれん。後ろから見てて俺がどういう風になったか教えてくれるか?」
「う、うん。炎の渦を氷の中に閉じ込めて、驚いてた滝本君に俺もビビってる的なことを言ってたのは覚えてる?」
「ああ、それは記憶にある」
「その後、雪納急に黙っちゃって……そしたら、急に光が雪納を包み込んだの!」
「光?」
確かにその記憶もある。
その後は春日野綾と名乗る同級生が目の前に現れて……
「そう、光。でもね、眩しすぎてその時雪納がどうしてたのかは見えなかった。次に雪納が見えた時はもう地面に倒れてた」
「なるほど……」
俺は起こしていた上半身を寝かせると、天井を睨みつける。
と言っても、意識はもっぱら記憶の掘り起こし作業に傾けているのだが。
「何だったんだ……?」
俺の記憶と瑞穂の証言が一致しているのは、俺が光に包まれた部分までだ。
ということは、瑞穂は俺と春日野さんとのやり取りを見ていないし聞いてもいないということになる。
そして、春日野さんがクラスメートが俺につけたダークマターの申し子なんてあだ名で俺のことを呼んで姿を消した後、俺は意識を失って倒れた。
……なるほど、分からん。
「どう? 何か思い出した?」
心配そうな表情を浮かべて、瑞穂が今度は遠目に俺の顔を覗きこんでくる。
「いや……」
思い出すも何も、俺は何も忘れていないということがこれでハッキリした。
俺は光に包まれて、瑞穂を含めたクラスメートたちからは見えない光球の中で春日野さんと会話をした、これが真相だ。
問題なのは、これをどうやって瑞穂に説明するかということだ。
そういえば、そもそも春日野綾さんとは一体誰なのか?
ネクタイの色からすると俺たちと同学年のようだけど……ひょっとして、瑞穂なら知ってるかもしれないな。
「なぁ瑞穂」
「何? 何か思い出した!?」
「そういう訳じゃないんだが……瑞穂、俺たちの学年に春日野綾って名前の人いるか?」
「……女の人?」
そう尋ねてきた瑞穂の声は普段より少し低かった。
「あぁ。どうだ、心当たりあるか?」
「……クラスにはそんな人いないし、私が知ってる限りの名前にもそんな人はいない」
「そうか……」
大和旭大学とその附属中学校・高等学校は都心からはかなり離れていて、敷地から出て少しすると田園風景も見ることができる。
だが、世界の中でも最先端のダークマター研究が行われているということもあって生徒数はとても多い。
俺たち高等部一年は一クラス40人でAからLまで12クラスあり、とてもではないが全員を把握するなんてことはできない。
そんなことをしようとすれば、『友達百人できるかな』では済まされない。
……のだが、今俺の目の前にいる幼なじみは風のうわさではすでに一年生の半数、240人近くの人の顔と名前を覚えているというではないか。
そのバケモノじみた記憶力とこれまでの努力に期待して聞いてみたのだが、どうやら春日野さんはまだ瑞穂が知り得ていない半数の中にいるらしい。
「ねぇ、その春日野って人がどうかしたの?」
「ん? いや、特には何も……」
「……ホント?」
そうしつこく聞いてきた瑞穂の声はやはり普段より低く、どこか不機嫌さを感じさせるものだった。
……なぜにして不機嫌なのだろうか?
記憶には無いが俺は倒れたらしいので、心配されこそすれ機嫌を悪くさせるようなことは何もしていないと思うが……
とにかく、春日野さんのことはこれ以上は話さない方が良いかもな。
瑞穂には春日野さんのことは見えなかったみたいだし、そんな見えなかった人間のことを話しても会話の収拾がつかなくなるだけだろう。
「ああ、本当だ。まだ頭がグチャグチャしていてな」
「……ふーん」
瑞穂はそう言うと、それっきり黙り込んでこっちをジッと見つめてきた。
……まだ何かあるのだろうか?
それとも、実は春日野さんの名前を知ってはいるが、その名前は瑞穂にとって触れてはいけないパンドラの箱か何かだったのだろうか?
瑞穂が他人のことを嫌ったりするということは、これまでの長年の経験からしてないはずだが……
「……」
流石にこの沈黙が怖くなってきた。
誰でもいい、頼むからここにやってきてこの正体不明の沈黙を破ってくれ。
「おーっす! 奈津子先生、ダークマターの申し子を引き取りにきまし……た?」
保健室でのルールを無視して大声で入ってきた人間の顔を見て、俺は直前までの祈りを後悔した。
誰でもいいとは言ったが、よりによって俺が知る中で一番やかましい奴が来てしまうとはな。
「あれ、ダークマターの申し子と……その奥さん?」
「おい、いい加減その中二病臭さしかないあだ名で呼ぶの止めろ」
「おおお、奥さんなんかじゃないわよ!」
俺と瑞穂はツッコむところこそ完全に違ったが、同時に沈黙ブレイカーこと滝本に反論した。
「おや雪納くん、奥さんのくだりにツッコまなかったということは、その部分は認めるということだね?」
「んなわけねーだろ。そのくだりがしつこすぎて言い返す気力も失せてきただけだ。大体、幼なじみってだけで夫婦呼ばわりとか古典的すぎんだよ」
「そうかね? でも、君が今古典的と評した部分で感傷に浸っている人もいるみたいだけど?」
そう言いつつ滝本が指さした先には、ポーッと天井近くを見つめながら何やら難しそうな表情を浮かべている瑞穂の姿。
まさか瑞穂のやつ、滝本の戯言を真に受けたんじゃないだろうな?
「おい、瑞穂」
「はふぇ!?」
俺の呼びかけに奇妙極まりない日本語で返事をよこす瑞穂。
「コイツの言葉で何を想像していたのかは知らんが、付き合うだけ無駄だからやめとけ。第一、俺たちがまっとうな夫婦になれると思うか?」
「そそ、そうよね! いやね、私も雪納との生活をちょっとだけ想像してみたんだけど絶対上手くいかないわよ!」
「そうだそうだ」
「雪納ってば部屋は全然片づけないし服は脱ぎっぱなしにするし食器はそのままにするし大人の本はカバーをかけて他の本に紛れさせるし……」
「って早口でまくし立てると思ったら何言ってんだおい! それは小中学校時代の話じゃねーか! 今の部屋は綺麗だし服もちゃんと自分で洗濯してるぞ! そして最後にサラッとそういう情報紛れ込ませるの止めろ!」
「へぇー、雪納はカバーでカモフラージュさせてるのかー」
「そこにピンポイントでツッコミ入れてくんじゃねーよ滝本!」
「いやいやー、これは今度雪納の部屋に遊びに行ったときに行う家宅捜索の貴重な情報だよ」
そんなことまで画策してやがったのか滝本のやつは。
だが、事前に来ることが分かっているのなら厳重に警戒しておけば何とか……
「あ、でも今ので雪納にも情報が伝わっちゃったね。こうなったら数の暴力を行使して、クラスの男子全員で押しかけよう」
「おいやめろ」
「冗談だって。それにしても、雪納の本の隠し方まで知ってるなんて、やっぱり君たち二人は夫婦……」
「「違う!(違うわよ!)」」
気付けば、喧騒と共に入室してきた滝本につられて俺と瑞穂も大声で騒いでいた。
そして、保健室の入り口にはいつの間にか養護の飯島先生が立っていて、満面の笑みでこちらを見つめていた。
あー、飯島先生、今日も一段とお美しいですね。