第3話 砂糖事件
雨の夜、鉄砲玉として震える藤沢の脳裏に浮かぶのは――
一年前の、忘れたくても忘れられない“事件”。
湿った畳、チカチカする蛍光灯、
そして、金髪のバカが引き起こした“砂糖事件”。
この日、藤沢の胃痛は本格的に悪化し、
ヤスのバカは本格的に開花する。
組長のコーヒーに入った“白い粉”。
それが、藤沢とヤスの運命を大きく狂わせるとは、
この時の二人はまだ知らない。
事務所の蛍光灯は、今日もチカチカと点滅していた。
黄ばんだ光が、古いソファと焦げ跡だらけの灰皿を照らす。
湿った畳の匂いと、冷めたカップ麺の残り香が混ざり合い、
“底辺のヤクザ事務所”らしい空気を作っていた。
藤沢は雑巾を絞りながら、深いため息をつく。
(……今日も雑用三昧か。まあ、いつものことだが。
頼むから今日は何も起きないでくれ……俺の人生、もうこれ以上悪い方に転がらなくていいだろ……)
そんな時――。
「兄貴、砂糖ないっすか?」
金髪ツンツン頭のヤスが、キッチンでキョロキョロしていた。
ジャージ姿で、なぜか片足だけ靴下が脱げている。
「バカ! 砂糖は切らすなって教えただろ!」
「そうでしたっけ?」
「そうでしたっけ?じゃねぇよ! どうすんだよ!」
藤沢はヤスの頭を小突いた。
ヤスは「いてっ」と言いながらも、どこか嬉しそうだ。
組長は大の甘党。
砂糖がないと機嫌が最悪になる。
(買いに行く?……いやダメだ。組長は待つのが嫌いだ!
甘くないコーヒー出してゴルフクラブで殴られた時の痛み……まだ頭に残ってるんだよ……)
藤沢の背中に冷たい汗が流れる。
(どうするどうするどうする……)
「はっ!」
藤沢は閃いた。
「ヤス! 組長の部屋に角砂糖があるはずだ! 取ってこい!」
「了解っす!」
ヤスは全力疾走で組長の部屋へ向かった。
途中でスリッパが片方飛んでいったが、本人は気づいていない。
■組長の部屋
ヤスは部屋に忍び込み、テーブルの上の小瓶を見つけた。
「これっスね!」
蓋を開けると、角砂糖が一つ。
「うん、甘い。無いよりマシだな」
(なんで舐めるんだ)
ヤスは角砂糖をポケットに入れた。
だが、すぐに眉をひそめる。
「……絶対足りないっスよね」
部屋を漁り始めるヤス。
戸棚、机、引き出し――どれも空振り。
「ん?」
机の下に置かれたアタッシュケースが目に入る。
ヤスはドアノブを回すように取っ手をガチャガチャした。
(いや、アタッシュケースにドアノブはねぇ)
ガチャッ。
普通に開いた。
「ほらあった! ジジィ、どんだけ砂糖好きなんだよ!」
中には、小袋に入った白い粉が大量に。
ヤスは迷いなく、それを“砂糖”だと信じた。
「外出先でも舐める気とは、どんだけっす……チンパンジーかよ」
小袋を一掴みしてポケットにねじ込み、
ヤスはキッチンへと走った。
・
・
・
ヤスはインスタントコーヒーを雑にカップへ入れ、
お湯をドバッと注ぐ。
「甘くなーれ!」
角砂糖を投入し、
さらにアタッシュケースの白い粉を砂糖入れに移し替える。
(この時点で地獄の扉は開いていた)
ヤスは満足げに頷いた。
「兄貴、チンパンジー……じゃなくて組長、喜ぶっすよ!」
「よし、急いで持っていくぞ」
・
・
・
藤沢は組長の機嫌を伺いながら、
コーヒーと砂糖入れをお盆に乗せて運んだ。
「遅ぇぞ!」
組長は不機嫌だったが、コーヒーを飲んだ瞬間――。
「……豆を変えたのか?」
藤沢は真っ青になった。
(ヤス、なんで高級豆使わねぇんだよ!)
(すいやせん、でも、任しといてください)
「いやチ、組長、豆は一緒ですが今日はたっぷり愛情込めて淹れたっス」
藤沢は更に真っ青になった。
(嘘つけ……)
「フフ、言うじゃねぇか若造」
組長は砂糖入れを掴み、
白い粉を大量投入し始めた。
一杯。
二杯。
三杯。
四杯。
五杯。
「フフフ……覚えとけ、コーヒーは甘くなくちゃいけねぇ!」
飲む。
「……あれ? 甘くなんねぇ……」
首をかしげる組長。
「たりりねぇのかあ」
投入。
投入。
投入。
飲む。
「……も、もう少しか?甘ぐないけど、なんらか……」
組長の目がトロンとし、涎が垂れ始めた。
「さろう、が、まら、たりらいのか……ウヒ……ウヒヒ……」
藤沢とヤスは固まる。
(兄貴、チンパンの様子……)
(お、おう、どうしたんだろうな)
組長はカップを見つめ、突然――
「ウキッ……?」
藤沢とヤスが息を呑む。
「キーーッキキィーー……」
「ウホ……ウホホ……」
「ウホオホホホキィーーー!!!」
完全に壊れた。
(お、おい)
(兄貴、これって?)
ガチャ。
扉が開いた瞬間、
部屋の空気が一気に冷えた。
若頭が入ってきたのだ。
「組長!!」
若頭は組長に駆け寄り、肩を掴む。
「く、組長!」
「ウキキィ……」
完全に目がイってる組長。
若頭はテーブルを見る。
砂糖入れから散乱している白い粉。
若頭は無言で指につけ、舐めた。
「……」
藤沢の背中を冷たい汗が伝う。
若頭の目が細くなる。
「これ……薬だぞ!!」
藤沢とヤスは同時に青ざめた。
「……お前ら……」
次の瞬間――
地獄のような殴打が始まった。
・
・
・
殴られ腫れあがった顔で、藤沢は床に膝をつく。
若頭はテーブルに二本のドスを置いた。
「藤沢、使えないお前を今日まで飼ってくれてた組に対して、
随分な仕打ちしてくれたよな?」
藤沢は唇を噛む。
「……あの、チャカとかって……」
その瞬間、若頭の拳が飛んだ。
「てめぇ舐めてんのか!
そんなもん渡して足がついて組に迷惑かけたらどうすんだ?え?」
若頭の声は低く、冷たかった。
「得物用意してくれた組に感謝して、黙ってやりゃぁ良いんだよ。
やらないなら、埋められるだけだぞ」
藤沢は震える手でドスを掴んだ。
「……わかりました。
俺がやりますから、ヤスだけは……」
「ダメだ」
若頭の声が部屋を凍らせる。
「これ以上ゴチャゴチャ言うようなら……
お前ら二人、今ここでぶっ殺しても良いんだぞ」
「兄貴、大丈夫ですから!!
若頭、俺と兄貴でやるっすから、すんません、すんません!」
ヤスが頭を下げる。
若頭は鼻で笑った。
「そうか。しっかりやれや。
……情けねぇ兄貴分だな、藤沢」
藤沢は何も言えなかった。
若頭は最後に言い放つ。
「それと、二人とも破門しといたからな。
組は関係ない。お前らの自主的な行動だ」
雨の音だけが、遠くで聞こえた。
――俺達は破門され、鉄砲玉として使い捨てだ。
逃げても殺される。
死ぬのが少し先になっただけって奴だ……
藤沢は静かに目を閉じた。
読んでくれてありがとう。
砂糖を探しただけなのに、
組長はチンパン化し、
若頭は激怒し、
藤沢とヤスは破門&鉄砲玉コースへ一直線。
ヤスのバカは罪深く、
藤沢の人生は今日も下り坂だ。
次回、いよいよ“雨の夜の本番”が近づく。
引き続き、この不運な二人を見守ってほしい。




