日常が崩れ行く音
日常も全て溶けてなくなり、躰〈カラダ〉は地に縛りつく
やや薄く開かれた青いカーテン。
その向こう側には、いろんなマンションからの煌びやかな明かりが入り込む。
しかし部屋の中はどこまでもゴミで溢れ、玄関を開けた瞬間何とも言えない匂いが漂っていた。
そして部屋の中いっぱいに湧き上がる虫たち。
新鮮な空気が玄関から入り込んだせいか、虫たちは玄関目がけて飛んできた。
そして私の横をかすめ、外へと逃げ出す。
虫すらも逃げ出すような惨状。
そしてナマモノが腐敗したようなすえた匂い。
言葉は出てこなかった。
ただ目の前のものを信じられず、口に手を押さえながら靴のままゆっくりと中に入る。
部屋の一番奥。
小さなローテーブルに、見覚えのある後姿があった。
床には垂れ出したものがシミを作り、残っていた虫たちはそこにとどまっている。
どこまでも小さく、私にとって一番の宝物だったもの。
近づかなくとも、そこに突っ伏すように眠る彼女が、もう光を放っていないことなどすぐに頭は理解した。
だけどいくら頭が理解しても、心が体が、全てがそれを受け入れることを拒む。
どうしてこんなことになったのだろう。
最後に電話をしたのはいつだっけ。
どうして、どうして……。
言葉にならない叫びを上げると、ふいに玄関の戸が音を立てて閉まった――
◇ ◇ ◇
「こんばんわ」
開けた自宅の玄関のドアの向こう側。
お隣さんが声をかけてくる。
今はてっぺんを少し回ったくらい。
私もお隣さんの彼も、同じ終電帰宅組だったらしい。
「こんばんわ」
バタン バタン
鉄製の玄関のドアがほぼ同時に締まった。
私はお隣さんと顔を合わせることなく、ただドア越しにその言葉だけを返す。
たった、それだけ。でもほぼ毎日変わらない私の日常だ。
何にもない田舎から上京して、今年で五年目。
このマンションに引っ越してきたのも、ちょうど同じくらい。
お隣さんはその頃から変わっていない。
確か、私より少し上くらいの男性だった。
引っ越してきたばかりの頃に、一度だけちゃんと顔を合わせて挨拶したっけ。
今の私と同じくらい、疲れた顔をしていたことだけは覚えている。
「はぁ」
玄関のドアを閉め部屋の中に入ると、物が乱雑に置かれた自分の部屋に、ただため息がこぼれる。
「あー、掃除しなきゃなぁ……」
ギリギリ足の踏み場があるだけのワンルームの部屋は、とにかく物が多い。
特にその時の気分でネットショッピングしたモノたちなんて、開ける気力もないまま段ボールで転がり、部屋の大半を占拠していた。
「でも今日は……いっか」
私はため息交じりに、その溢れるモノたちから目を背ける。
そしてテーブルの上に無造作に置かれた昨日のコンビニ弁当の残骸たちを今日買ったビニール袋に入れ、私は辛うじてあいているローテーブルの前に座った。
ゴミも捨てなきゃなぁ。
どこまでもモノとゴミであふれる空間。
その中でたった一人、小さく生活する私。
どうにかしなくちゃとは思うのに、体は動こうとはしなかった。
「つーかーれーた」
そう声を上げても、言葉を返してくれる人など誰もいない。
むしろ最後に人とマトモな会話をしたのなんて、いつだっただろうか。
うちの会社、私が所属する部署には元から三人しかいなかった。
いろんな部署のお手伝いのような中間処理をするところで、人員は極端に少ない。
それなのに一人が現在産休で、もう一人がメンタルをやられてしまって時短リモートワークのみ。
あんな広い会社の部屋ですら、私は孤独だった。
「なんかなぁ……」
肩肘をテーブルにつき、スマホを確認する。
SNSには、近況などを知らせる充実した友だちたちの投稿たち。
みんなキラキラしてる。いいなぁ。
私だって頑張っているんだけどなぁ。
頑張っても頑張っても、何の変わり映えのしない日常。
私には、ココに載せれるようなナニカは何もない。
見るたびに惨めになるだけだからやめればいいのに、それでもそこでしか人と繋がれていない私は、いいねを押すことだけでその存在を維持していた。
「あ、うわ、ヤバ。電話しろって、めっちゃメール来てるじゃん」
忙しすぎて、社用以外のメールを確認するのは何日ぶりくらいだろう。
元より送ってくる人もいないから、気にも留めていなかったのだけど。
気づけば二桁ほどのメールを放置してしまっていた。
これは、あとで確実に怒られるパターンだな。
メールの送り主は母。
今年のお盆に帰宅しなかったせいか、ずっとご立腹なのだ。
もう秋も近くなったというのに、次の帰省予定を出さない私へ催促をしているのだろう。
「えー、めんどくさいなぁ」
人とは会話をしたいけど、母とはまた別なのよね。
そうはいっても……。
ここまで乗り込んでくることはないだろうけど、もしもってこともあるからなぁ。
私は目を背けてきた現実を眺める。
部屋の片隅には積み重なって今にも崩れそうな洗濯物。そしてシンクにはいつから放置されたのか分からない重なった食器たち。
挙句に足の踏み場を失くすほどあふれる段ボール群とコンビニの袋。
この部屋が汚いのも分かっているし、どうにかしなきゃいけないのも分かっている。だけどそんな気力も体力も、今の私には残ってはいないのだ。
虫が湧いたらさすがに考えるけど、まだね。まだ、大丈夫でしょ、たぶん。
「……とりあえず、明日電話するかな」
これを一気に全部片づけるくらいなら、母の小言に付き合った方がマシね。
だけど今はとにかく眠くて、体が重い。
せっかく温めてもらった弁当もそのままに、私はテーブルの片隅に小さく突っ伏す。
「あー、こんなハズじゃなかったんだけどな」
そう呟いたものの、現実以上に重くのしかかる瞼に抵抗できるわけもなく、私は意識の端を手放した。
◇ ◇ ◇
翌日、それもやや日が傾き始めた頃、ようやく私は気だるい体を起こした。
布団で寝れば良かったとは思ったものの、布団はすでに洗濯物たちで埋没してしまっている。
「ヤバ。もう休み終わっちゃうじゃん」
最悪だ。こんな時間まで寝るつもりはなかったのに。
最近たった一日しかない休みは、いつもこんな感じで終わってしまっている気がする。
「洗濯だけは回さなきゃ」
私は手近に散らばる下着やシャツだけかき集めると、それを洗濯機に放り込んだ。
「やっぱり乾燥機付き買えばよかったな」
上京してきたばかりの頃は、私だってキラキラした人間の一人だった。
休みの日はおしゃれなカフェに行ったり、ショッピングを楽しんだりした。
平日だってたまの贅沢だと言いながら、デパ地下でお惣菜とかを買う余裕だってあったのに。
お金だけあったって、行く余裕も時間も気力も、何もかも日を追うごとに消えてしまった。残ったのは華やかさなど微塵もない、過酷な日常とこの溜め込まれた部屋だけ。
「とりまアレ食べるか」
大きな音を上げながら震える洗濯機をこつんと叩くと、昨日買ってきたコンビニ弁当を食べるためにローテーブルへ歩き出した。
冷めて蓋に水滴がついた弁当は、食欲をそそるものではない。
だけど私は大きくため息をついたあと、それを割りばしでつつき出す。
食べ物を残すなんて~という母に育てられてきた。
だからこれがマズイと分かっていても、残すことには抵抗感があった。
「あー、鳴ってる」
テーブルに置かれたスマホが、着信を知らせるように震え点滅しだす。
画面を見れば、やはりというように母の名が。
「はぁ」
もう一度大きくため息を吐き捨てると、私はそれに出た。
「あんた! なんで出ないのよ! 死んでんのかと思ったやないのさ」
開口一番の母の声はいつもよりかなり大きな声量で、思わず私はスマホを耳から離す。
ほんの数日メールを返さなかっただけで、こんなに怒ることもないのに。
忙しいって、いつも言ってるじゃないのよ。
「仕事忙しいって言ってあったでしょう。残業多くて、中々連絡出来んかったんよ」
「だとしてもさ。あんた連絡せんと、死んでる思うやないの!」
「もー、ごめんってば」
「まったく。生きてるんならええけど、連絡待ってるこっちの身にもなりな」
「はいはい。ごめん、ごめん」
「もう、気ぃつけてよ」
こんな風に私を心配してくれるような人なんて、もう母くらいしかいない。
だけど同時にその母の愛情が、私にはどこまでも重かった。
「仕事仕事もええけど、過労死でもしたらどーするんよ、あんた」
「あー。そうやなぁ」
「そうやなって、あんた。ちゃんと食べてるの?」
母の言葉に、私は食べかけの弁当を見た。
食べてはいる。
朝はほぼ食べないけど、会社でも片手でつまめるものから、カロリーなんとかも食べているし。
夕飯だって野菜ジュースとお弁当は食べている。それに栄養が偏らないようにサプリだって飲んでいる。
貧血で一度倒れたことはあるけど、それ以外は健康診断だって引っかかったことはない。若さと健康だけが取柄だもの、そこは全く心配は無用だ。
「食べてるし、野菜ジュースやって飲んでるよ。母さん、心配しすぎやわ」
「そうは言ったって、そっちに一度も見に行ってあげれてもないんやし」
「ええよ、そんなん。遠いし、交通費もったいないわ」
「あんたねぇ」
だいたいこんな部屋を見られたら、怒鳴られるだけじゃすまないのは分かっている。母は元から私が就職とはいえ、上京するのに反対だったから。
「今度いつこっちに帰って来んの?」
「あー、たぶん正月くらいには?」
「なんでそこ疑問形なんよ。そうじゃなくって、もうこっちに帰ってきたらええやないの」
「はぁ? 帰ってどーするんよ。そっち仕事ないやないの」
上京する時もそう言って、やっとの思いでココに逃げてきた。
別に実家のある、あの何にもない田舎が嫌いなわけではない。
だけどあの田舎で一生を終わらせることに、ゾッとしたのは事実だ。
「でもさぁ、あんたさぁ――」
母はそのあと、安定にいつもの話をし始めた。
私の同級生の誰々が結婚したとか、どこどこの家には孫が生まれたとか。
そして最後はそっちでの生活なんてもう諦めて、田舎でゆっくり暮らせばいいのにと締めくくる。
何日かぶりの人との会話なのに、そんなことを聞きたかったわけではない。
通話を終えると、いつも以上にぐったりとした自分がいた。
◇ ◇ ◇
パサパサとした味気ない栄養バーをかじりながら、送られてきたメールに返信し、添付されてきた仕事を処理する。
会社での平日お昼過ぎ。
デスクの上は、自分の部屋のように汚い。
それでも横に並べられた三人分のデスクを、私一人で占領しているだけあって、まだ若干の隙間はある。
「もー、全然終わんないし。ホントに人員増やしてよ」
そう嘆いたところで、私の言葉に反応する人などここにはいない。
会社への何度目かの人員要求も、もれなくスルーされてしまった。
あまり重要ではない中継ぎ部署。
しかももし私が倒れてしまったとしても、その時考えればいいのだろうという上の考えが開け透けて見える。
「はぁ」
パソコンを打ち込む手を止め、私はブラインドの隙間越しに外を見た。
薄日が柔らかく、部屋の中に差し込んでいる。
目の前がボーっとする。
寝不足かな。
昨日、ちゃんと寝たはずなのに。
あー、疲れたなぁ。
もう本当にヤダ。
母の言うように、もう諦めて帰った方がいいのかな。
そう思ううちに、私の体はふわりと浮いたような感覚を覚えた。
そしてカクンと体が前に傾く感じで、再び目を開ける。
「ん? うえ⁉」
先ほどまで見ていた昼下がりの景色は、夜景へと一瞬で変わっていた。
「ヤダ、嘘でしょう? 私、寝落ちしていたの?」
慌てて立ち上がり、窓に近づく。
外はいつも帰宅するような時間と変わらない景色が広がっている。
たくさんのネオンに、人通りも車もやや少なくなった道路。
向かいのオフィスの電気も、半分以上が消えていた。
嘘。
寝落ちするにしたって、何時間寝てたのよ。
自分の席に戻り、スマホで時間を確認すると確かに終電ギリギリの時間。
あれから私は七時間以上、眠っていたことになる。
「やだやだやだやだ、終電間に合わなくなる!」
私は仕事もそのままに、鞄をひったくるように肩からかけると、会社を出た。
そして急いで電車に飛び乗り、家の近くにあるコンビニに寄る。
寝すぎたせいかお腹は空いていないが、家に帰っても何もない。
もし、ということはあるもんね。
私は適当にお菓子や栄養バーを手に取り、最後に小さなお弁当を持ってレジへ。
店員さんは、いつもとは違う人だった。
「温めますか?」
「あ、はい」
「レジ袋どうされます?」
「あ、お願い……します」
いつもの店員さんは毎日ほぼ同じ時間に来る私に慣れてしまったせいか、こんな他愛のない会話すらない。
言わなくてもお弁当を温めてくれて、言わなくてもレジ袋を付けてくれた。
だからこそ、会話というものはほぼなかった。
それが今日は、新人さんなのだろうか。
マニュアル通りに、私に接客してくれている。
いつもの人がダメなわけじゃないけど、私はこんな些細な他人とのやりとりにすら飢えていた。
あー、何日ぶりにマトモに人と会話したかな。
会話っていっても、向こうは仕事上のことなんだろうけど。
今の私には、こんな会話すらどこか心が落ち着いていく。
「ありがとうございました」
「……ありがとぅ」
そう言って、レジ袋に入った商品たちを受け取った。
今の私、挙動不審じゃなかったよね。
大丈夫だよね。
会話が久しぶり過ぎて、ちょっとテンションおかしかったかも。
そんな反省をしつつ、私は足早にマンションへ入った。
そして玄関の鍵を開け、ドアを開く。
「こんばんワ」
またいつものタイミングで、お隣さんの声がする。
「こんばんわ」
私もただ同じように挨拶を返した。
バタン
鉄製の玄関を閉める音。
「あれ?」
私は自分の玄関を閉め、鍵をした瞬間、ふとあることに気付き顔を上げた。
今、玄関が閉まる音って一つしかしなくなかった?
しかもお隣さんの声も、なんだかいつもと違っていた気がする。
言いようのない何かが、胸をざわりとさせる。
だけどそれがナニか、というような形容は出来ない。
そう、ほんの少しの違和感。
「気のせいだよね……」
そう言いながら、私は『ははは』と無理やり笑った。
◇ ◇ ◇
深夜にふと、バタンと何かが倒れるような大きな音を部屋の中で聞いた気がした。しかしそれが今日だったのか、それとも少し前だったのか。はたまた夢だったのか。
それすら分からないまま、私はまた朝を迎えた。
ローテーブルの前に座りながら手鏡に写る顔は、いつも以上に疲れている気がする。あれだけ寝たのに、化粧をしてもクマが目立つし。
美容院にすら行けていないボサボサの髪を後ろで一つにまとめ、私はそそくさと部屋を出た。
しかしなぜか今出社したはずの私は、また玄関で家に入ろうとそのドアノブを握っていた。
あれ?
確か今、出勤したんじゃなかったっけ?
しかし玄関から真っすぐ奥に見える、ベランダの外の景色は夜だ。
私、一体どうなちゃったんだろう。
電車に乗った覚えも、今日やったはずの仕事も、何もかもが思い出せない。
今日どうしていたのか、記憶が曖昧だ。
頭の中にモヤがかかったようで、どうにも上手く整理がつかなかった。
だけどそれは昨日だってそう。
気づいたら、デスクの前で眠ってしまって夜になっていたし。
急に、何かが変になってしまった。
なんでだっけ。
なんでだっけ。
なぜこんなことになったんだっけ。
なんで どうして
今はいつで、今は何時なの。
でも、それすら思い出せない。
しかもドアノブを握ったまま体も動かない。
玄関のドアから半分体を入れた状態で、部屋の中で光るスマホを見た。
おかしいな。私、大事なスマホも鞄も忘れて仕事に行ったの?
そんなことって、あるのかな……。
何も持たずに外に出るなんて。
ぐるぐるぐるぐると、ただ思考だけが回る。
考えなきゃいけないのに、なぜかキチンと考えることができない。
どうしてこんなことになったのか。
そもそも私は何をしていたのか。
いや、その前に私って……なんだっけ。
「こんバンワ」
いつものようにお隣さんの声がする。
前とは明らかに違う声。
でもなぜか、今日はそれも気にならない。
「こんばんワ」
私もいつものように言葉を返す。
お隣さんが『こんばんわ』と言ったから、やっぱり今は夜なのね。
なんだ。ああ、安心した。
毎日同じことの繰り返しで、なんか分からなくなっちゃったみたい。
きっと疲れすぎたんだわ。
そして日が昇り、いつの間にか日が沈む。
気づけば私はまた、いつもの時間にいつもの玄関外で半分体を家の中に入れたままドアノブを握っていた。
「コンバンワ」
「コンバンワ」
玄関が閉まる金属音はもうしない。
充電のなくなったスマホももう光らない。
ただぼんやりとする意識と視界の中で、玄関の開く音と共に母の叫ぶ声を聞いた気がした――




