【短編小説】エターナル共通試験ダダ先生
階段を降りて来る足音が聞こえた。
そろそろだ。
おれたちの一年契約が更新される。
時計に目をやる。
針はまもなく開始時刻を指そうとしていた。
机に着席したのを確認して用紙を出す。
「まだ名前は書くなよ」
私は秒針と机を交互に睨みながら言う。
針で続けば大音量のあふれ出そうな静寂。
そして忙しない針が頂点を叩くその瞬間に「始め」と声をかけた。
用紙をめくる。
鉛筆で名前を書いているのを眺める。
──いつからだろうか。
こうしてもう何年になるだろう。
遠い昔の事を思い出しながら用紙の上を滑る鉛筆を眺めていた。
あれは珍しく仕事を終えた日の夕方だった。
上機嫌で駅からの道を歩いていると電話がかかってきたのだ。
画面には息子の名前が表示されていた。
反抗期とは言え、共通テストの手応えくらいは連絡してくれるようになったのだろうか。
成長、か。
男子三日会わざれば、と呟て自分の口元が緩んでいる事に気づく。
「どうした」
「いま大丈夫」
酷く沈んだ声が聞こえた。
「あぁ、大丈夫だよ」
ふざけている様に聞こえない範囲で、努めて明るく返事をした。
「うん」
「今日は共通テストだったんだろ、手応えはどうだ」
「うん、その事なんだけど」
電話の向こうで長いため息が聞こえた。
ここで叱っても仕方ないのは、なんとなくわかっている。
できるだけ穏やかな声で
「なんだ、上手く行かなかったのか?まぁそんなものだよ、お父さんの時もセンター試験では同じ気持ちだった。周囲の話を聞いていると全問不正解な気もしてな、やきもきしたものだよ」
そう言うと、しかし息子は相変わらず真っ青な声で
「うん」
とだけ返事をした。
相当ダメだったのだろうか。
不安なのは分かるが、自信喪失と言った感じだ。
「そんな不安そうな声を出すな、今日は何が食べたい。好きなものを喰おう」
「あの、その事なんだけど」
「なんだ、寿司でも焼肉でもいいぞ」
「そうじゃなくて、実は」
「なんだ」
その後の事は覚えていない。
気付いたらわたしは家にいたし、気づいたらわたしはゴルフクラブを手に握っていた。
そして目の前には両足を骨折したわたしの息子が這いつくばっていた。
後悔先に立たず。
覆水盆に返らず。
飲んだ酒は瓶に戻らず。
寝坊した時は元に戻らず。
俺は寝坊した。調子に乗っていた。
普段は寝坊なんてしないのに、こういう大事な時に限って寝坊をする。
いつもそうだ。
空手の試合の日だとか昇段試験の日にもやらかしたし、デートの日もそうだし、とにかく大事な要件のある日に限って俺は寝坊をする。
そしてついに俺は共通試験を寝坊した。
取り返しがつかない。
とっさに飛ぼうと思ったがホテルの部屋は窓か開かず、飛び降りられなかった。
最寄り駅にはホームドアなんて言う塀があり飛び込み自殺も出来なかった。
俺は知らない街を彷徨い歩き、夕方頃になってどうにか父親に電話をした。
父親は絶句していた。
そりゃそうだろう、共通テストを寝坊するなんてマヌケを自分の子どもがやらかすとは思っていなかったはずだ。
インターネットで似たような話を見る事はあっても、まさか自分の子どもが……そう思っていただろう。
とにかく俺は家に帰る事になった。
覚悟を決めてドアを押す。
地獄でもあるまいに……いや、似たようなものだろう。
怒りを押し殺した疲労でひどく皺くちゃになった父親がリビングにいた。
「何で寝坊なんかしたんだ」
当たり前の質問だ。
だか俺には何もわからない。
「わからないよ、わからない」
酒も飲んでないし、アダルトチャンネルも見ていない。
メシを食って風呂に入って寝たんだ。
だがそんな事を説明したって納得されない。
重い石臼を回したみたいに唸る父親は、どうにか言葉を口にした。
「わからない事があるか、目覚ましはどうした」
自分の声が思ったより低く響いたことに驚いたが、顔に出すわけには行かなかった。
「かけたさ、最大音量で3分おきに」
気圧された息子は蚊の鳴くような声で言った。
「フロントにモーニングコールは頼んだのか」
「そんな事できるなんて知らなかったよ……」
社会勉強が足りないとは思ってもみなかった。
無駄にビジネスホテル泊くらいさせておくべきだった。
腕組みをした父親はそう言う岩か木の彫刻の様に見えた。
「どうするつもりだ」
「どうするって」
浪人させて欲しいが、答えはわかっている。
「浪人する余裕はないぞ、自衛隊に行くか、就職するのか」
ゴリゴリと響く父親の低い声。
「そんな事を言われたって」
自分の声はまるで父親と言う石臼に飲まれる細い麦のようだ。
そうだろう、そんな事を言われたって困るだろう。
「そういう覚悟が無いから寝坊なんてするんだ、早く決めろ」
私も私で打開策を決めねばなるまい。
だが息子も息子で必死だ。
「隣の桜井だって浪人じゃん」
たしか隣の桜井くんはもう三浪しているはずだ。
ウチの方が何となく世帯収入は上回っている気がしているし、桜井さん家はよく余裕があると思っていた。
しかしここで手を止められない。
無慈悲な石臼はゴリゴリと俺の願いと祈りを飲み込んで磨り潰す。
「桜井くんのは良い浪人だ、お前とは違う。あっちは国立医大だろ。お前は私立文系だって言うのに寝坊なんか。だから桜井くんのは良い浪人、お前のは悪い浪人だ」
「浪人に良い悪いもあるもんか」
「あるに決まっているだろう、世界一周をして休学するのは良い留年でゲームしてばっかで留年するのは悪い留年だ。この先いくらでもあるぞそんなこと」
ちょっと待て、親父は俺が留年する前提でいやがるのか?
……いや、やらかしたのは俺だからそうだけど納得がいかない。
追い詰め過ぎたか?と思った。
息子は蚊トンボの様なか細い声から、どうにか甲虫くらいの声に戻して
「ふざけるな」
とだけ言った。
「親に向かってなんだ」
そこから先は先ほど言った通りだ。
私はゴルフクラブを手にしていたし、息子は床に倒れていた。
酷い怪我を負った息子は私を警察に訴えない代わりに提案をした。
「毎年、翌日の新聞に出る共通テストを受ける。上位10%を取り続ける限り、引きこもりをさせて欲しい」
私はあの時の選択が正しかったのか間違っていたのかいまだに分からない。
今年で10回目になる共通テストを自宅で解き続ける息子を見ながら考えている。
私は良い親だろうか、悪い親だろうか。これは良い引きこもりで、悪い引きこもりとは違うんじゃないだろうか。
果たしてそんなものあるのだろうか。
秒針は忙しなく回り続けていた。




