第3章「反響の壁」
振り返った時には、影は消えていた。
錯覚だったのか。それとも...
背筋の冷たさを無視して、私は西御殿の窓から内部を覗き込んだ。
薄暗い室内には、埃を被った家具が無言で佇んでいた。そして壁一面を覆う巨大な書架。
「何をしているんですか、日高さん」
突然の声に飛び上がる。振り向くと、町の古老・北村健三郎が立っていた。
曲がった背、しわだらけの顔。しかし、その目は鋭く光っていた。
「北村さん...私は...」
「ここは危険だ。立ち入り禁止だろう」
老人は穏やかな口調で言ったが、その声には固い警告が含まれていた。
「調査のために来たんです。この建物の歴史について」と私は半分だけ本当のことを告げた。
北村の表情が微妙に変化した。「歴史か...お前は椿の孫だったな」
祖母の名が出て、私は息を呑んだ。北村は続けた。
「彼女も同じことを言っていた。調査だと」
「祖母をご存知だったんですか?」
「ああ、知っていた。賢い女性だった。だが、あまりに深入りしすぎた」
北村は西御殿を見上げ、ため息をついた。
「この建物は昔、情報統制の拠点だった。戦時中、人々の声を集め、選別し、『正しい声』だけを残す場所だ」
「声を...集める?」
「そう、この町から外に漏れる情報、中に入る情報、すべてがここで管理された。今でいう『エコーチェンバー』の原型だな」
北村は私に近づき、低い声で言った。「椿は真実を見つけた。そして消された」
私の心臓が早鐘を打つ。「消された?誰に?」
「町を守るために」老人はそれだけ言うと、去っていった。
その夜、私は決意した。西御殿に忍び込むことを。
真夜中、懐中電灯だけを頼りに、私は裏口から中に入った。
かつての声の収集所。今は誰もいない静寂の中で、私は書架に向かった。
そこには数えきれないほどの文書やノートが並んでいた。すべて町の人々の「声」。
一つのノートを開くと、そこには私の祖母・椿の名前があった。
「危険人物—監視対象」と赤いインクで記されている。その下には続きがあった。
「1950年、処分済み」
凍りつく血。祖母は失踪したのではない。「処分」されたのだ。
しかし、なぜ?何を知ったから?
答えを探すように次のページをめくった時、背後で床板が軋んだ。
「やはりここにいましたか、日高さん」
振り向くと、西園寺がいた。手には何かを握っている。彼の目は冷たく光っていた。
「あなたは祖母の時と同じ過ちを犯そうとしている。このエコーチェンバーの真実に触れようとして」