第1章「忘れられた箱」
埃は光の中で踊っていた。
私の指先が古い木箱に触れた瞬間、まるで時が止まったかのように、空気中の埃が静止した気がした。
閉架書庫の薄暗い隅。誰も訪れない棚の奥で、静かに眠っていたそれは、私を待っていたかのように存在感を放っていた。
「日高さん、閉館の準備を始めますよ」
館長の声が遠くから響く。返事をする余裕もなく、私は箱を手に取っていた。
私の名は日高栞。地方の小さな歴史資料館で働く、冴えない学芸員だ。
三十五歳。独身。髪は肩につくかつかないかの中途半端な長さで、色は明るすぎず暗すぎない、存在感のない茶色。
メイクは最小限。眼鏡の奥の瞳は、祖母譲りの灰色がかった青。いつも白のブラウスに紺のスカート。
人々の記憶に残らない、そんな姿で私は日々を過ごしている。
「もう少しだけ」
私は小声で呟いた。この場所で十二年。資料の整理や展示の準備、来館者の案内。
地味で単調な日々。しかし、私はこの仕事が好きだった。紙の匂い、インクの色、過去の痕跡。
それらに触れるとき、私は生きていると感じる。
祖母も同じだったのだろうか。
七歳の日、彼女は突然姿を消した。「土地の記憶を探しに行く」—そう言い残して。
警察は捜索したが、結果は出なかった。やがて人々は「認知症だったのだろう」とささやくようになった。
でも私は知っていた。祖母の目は、最期まで澄み切っていたことを。
木箱は思ったより軽かった。
中に何が入っているのだろう。鍵はなく、ただ紐で縛られているだけだった。
私は箱を持ち帰ることにした。何かに導かれるように。あるいは、祖母の導きか。
アパートに戻った私は、すぐに箱を開けた。中には色褪せた書簡や日記、写真が無造作に収められていた。
最初に手に取ったのは、薄い青色の便箋に書かれた手紙だった。
日付は昭和初期。宛名は「つばき殿」。差出人の名は記されていない。
内容は断片的で、何かを恐れているようだった。
「真実が失われる」「声が消される」「エコーだけが残る」—そんな言葉が並んでいた。
別の紙には、「エコーチェンバー現象」という言葉が何度も登場した。
「人々は同じ意見や情報だけを繰り返し受け取る密室に閉じ込められ、外部の声を遮断していく。
そして次第に、その反響する声だけが真実だと信じ込むようになる」
まるで、この町そのものを表しているような言葉だった。
私の町は山々に囲まれた小さな盆地にある。
外部との交流は少なく、同じ家系が代々続く閉鎖的な場所。みな同じ歴史観、同じ価値観を共有している。
そして、その歴史の中に祖母は存在していない。消されたように。
箱の底には一枚の古びた写真があった。
映っていたのは若い女性。私と同じ灰色がかった青い瞳。しかし表情は違う。
彼女は何かを訴えかけるような、燃えるような視線を向けていた。
写真の裏には「真実は反響の外にある—つばき」と走り書きされていた。
つばき—それは私の祖母の名前。椿。
手紙の宛名と同じだ。偶然ではない。この箱は祖母に関係している。
そして「反響の外」とは何を意味するのか。
頭の中で断片的な情報が渦巻いた。眠れなくなった私は、深夜の部屋でノートを広げた。
祖母の失踪。閉鎖的な町。語られない歴史。エコーチェンバー。
すべてが繋がっている気がした。だが、その全体像はまだ見えない。
私はペンを走らせた。「真実を知りたい」と。
窓の外の闇を見つめながら私は決意した。この箱の謎を、そして祖母の失踪の真相を解き明かすと。
体は地味で冴えない学芸員のままだが、内側では何かが燃え始めていた。
祖母の血を引く者として、この「歴史のエコーチェンバー」に風穴を開ける使命が、私にはあるのかもしれない。
明日から、私は調査を始める。
そう思った瞬間、遠くから誰かに見られているような不思議な感覚に襲われた。