白銀の兆し
その夜は結局、ルアナは眠れなかった。
胸の奥の脈動は徐々に収まったものの、まだ淡い熱が体の奥に残っている。
ベッドの上に横になっても、瞼を閉じればそこにはあの月と母親の声が浮かぶ。
(あれは、夢ではない…。そう思えてしまう体験だった……。)
そっと手を開く。
あれほど計画に胸元を打っていた光は跡形もない。
だけど確かに——感じていた。
やがて、夜が明けた。
——そのころ。
屋敷から少し離れた森の奥。
薄明の中に黒い外套の人物が静かに跪いていた。
周囲にはいくつもの魔方陣のような紋が地面に刻まれ、黒い霧がゆっくりと渦を巻いている。
「…間違いない……兆しが出た。」
炊かれた香の煙が風に溶け、月の光を吸い込むように揺れる。
黒衣の人物は指先で空気を払うと、蜷局を巻くような霧が応えた。
「目覚めまでは、あと少し。……急ぐな、まだ動くときではない。」
低い声には余裕と慢心が混ざり合っていた。
まるで獲物が罠に入る瞬間を楽しみにしているようだ。
黒衣の人物の手元に、銀糸のような光が収束する。
それはまるで、遠く離れた屋敷の中をのぞく視線のようだった。
(ルアナ・エル=フィオナ……母の血が間違いなく揺らいだ。やはり、間違いなく、目覚めの前兆だ。)
「王家が隠しおおせるとでも思ったか…!」
霧が濃くなり、地面の紋章が脈打つ。
まるでルアナなに呼応するように。
——白銀の娘はまだ気づいていない。
その意がいくつもの勢力の鍵であるということを。
そして、屋敷の上の空には雲が広がり、月が薄く隠れていく…。
嵐の前の静けさはすぐそこまで来ていた。
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翌朝、ルアナが静かに朝食をとっていたころ—
城の中にある会議室では、重苦しい会議がひっそりと行われていた。
部屋に集まっていたのはイアンと国王、そして王家直属の影と言われている数名の近衛、そして王国の「秘史」を継ぐ老学士オルド。
「昨夜、謎の光がイアンの連れてきた少女から放たれていたとの報告がある。それも、あの伝説の月の乙女のような輝きがあったと。」
国王はイアンの方を向きながら口を開く。
「はい、父上。
私が連れてきた少女はあの伝説上の月の乙女様で間違いないかと。既にダラム神聖国からやってきたアイリスという猫獣人のメイドが証言しております。」
会議室内がざわめきだす。
それもそうだ、月の乙女とは伝説上の存在であると皆が思ってきたのだから。
今になって、その伝説上である人物が現実にいるのだ、驚くのも無理はない。
近衛の一人が口を開く。
「でも、なぜ今になって月の乙女様がこの世に出てきたのでしょうか?」
それもそうだ、なぜ今になって月の乙女の一族が姿を現したのか。
近衛の長がオルドに声をかける。
「オルド殿、確認だが、月の乙女様とは伝説上の存在ではないという事なのか?」
室内の視線がオルドに集中する
「伝説上の存在、というわけではなかったんじゃ。そもそもじゃ、月の乙女様の一族はこの大陸全土で大切にされてきた存在なんじゃよ。」
「では、一体どうして?」
「意図的に隠されてしまったんじゃよ。それも、大昔に。」
オルドは水を口に含み、もう一度口を開く。
「最初に月の乙女様があらわれたのはどこか知っておるか?」
近衛の1人が口を開き答える。
「それは皆も知っている通り神聖国であるダラムでは…?」
「そうじゃ、その通りじゃ。ではなぜ月の乙女様を意図的に隠されてしまったのか、ここから受け継がれた話とわしが見たことの話をしていこうかのぉ…。」
オルドは乾いた口を潤すように水を口に含む。
「まず、昔々初代月の乙女様が現れ、その後この大陸全土を救ってめでたしめでたし、という大陸全土に伝わる話があるじゃろ?その話には続きがあるんじゃ。
…このジアライト大陸では、その後月の乙女様の取り合いが始まろうとしていたんじゃ。その月の乙女様の力を我が国の力にしたいと私利私欲で動こうとした結果、月の乙女様は自身の生まれ故郷でもあるダラム神聖に身を潜め、静かに暮らしていたんじゃ。しかし、時が流れ、ダラム神聖国の実権を私利私欲にまみれた蛇獣人が握ってしまったことで、月の乙女様の一族がこちらへ亡命してきたのじゃよ…。
イアン殿下のところにいるアイリスも蛇獣人から逃げるため、こちらへ逃げてきたダラムの猫獣人でもあるんじゃ。
他にも、我が国では月の乙女様と共鳴する物があるんじゃよ。」
オルドは国王に合図を出すと、出されたのは大きなダイアモンドがはめ込まれたティアラの入った重厚な箱が机の上に置かれる。
「父上、こちらは?」
「これは、我が王家に伝わる月の乙女様のティアラだ。
月の乙女様のもとに戻った時、これのダイアモンドが光り輝くと言われている。」
確かに、ダイヤモンドは本来の輝きを忘れ、色はくすんでしまっている。
「父上、これをルアナに渡せと言う事でしょうか?」
イアンはこのくすんだティアラをまじまじと見つめている。
「いや、まだルアナ嬢は月の乙女として覚醒前だと言っていた、覚醒後にこのティアラを渡すべきだろう。
そのころにはイアン、お前が婚約者として迎えたいと申し出ておったし、ルアナ嬢ものころには婚約者としても様々なことを学びさらに良い女性へとなっていることだろう。
覚醒後機会を見てティアラを覚醒した月の乙女に返還し婚約式にて着用するのということが良いと思う。
王太子として、お前にも婚約者は必要だが、ルアナ嬢本人の気持ちも大事だからなイアンよ。
それに、この件は特にダラムには情報を流さないほうが良いだろう。それこそルアナ嬢の身が危険に晒されてしまう。
この国の姫と同等の扱いをルアナ嬢にすることを命令する。また、近衛たちはルアナ嬢の護衛も頼むぞ。」
国王の命令により近衛たちは、一斉に敬礼をしルアナの護衛を行う事となった。
「それがとても良い考えかと思われますじゃ。ルアナ嬢を守ることはこの国の根幹にも関わりますからのう……。」
国王は深刻そうな面持ちでそうであるな、と一言声に出す。
「我ら、グラナディオン王国の名に懸けて皆でルアナ嬢を保護するぞ、よいな。」
近衛は一斉にはっ!と声を出し、会議はこれにて終了となった。
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ルアナが自室でゆっくりしている頃、突然ドアをコンコンとノックする音が響いた。
「ルアナ様失礼ます。」
落ち着いた男の声とともに扉が開かれる。
本日付でルアナ様の護衛を努めさせていただくことになりました、ロイドと申します。それとこちらが…」
「レヴィっす。よろしくお願いしますねお嬢様!」
ロイドは背筋を伸ばし、礼儀正しく頭を下げた。
整った鎧の上に深い紺色のマントをまとい、いかにも歴戦の戦死といった雰囲気だった。
対照的にレヴィは軽装の護衛服で、髪の毛は少し跳ね、笑顔が子犬のように人懐っこい。
「レヴィ、ルアナ様に対してなんという口の利き方なんだ…。
ルアナ様、大変申し訳ございません…。」
慌てふためくロイドに、ルアナは首を横に振る。
「私は大丈夫よ。それに…どうして私に護衛が…?」
突然の事で戸惑いが隠せない。
胸の奥がそわそわと落ち着かない。
ロイドが深く息を吸い、真面目な顔で説明をする。
「それがですね、国王陛下よりご命令がありまして…。
私たちがルアナ様がどこかに行かれる際も、王城であっても、必ず我々がお傍につくようにと…。」
「国王陛下が…?」
昨日まで、普通の生活をしていたのに、急に「特別扱いされる自分」が現実だと実感していく。
「そう、なのね……。」
小さく漏れた声にレヴィが気まずそうに頭をかく。
「お嬢様、あんま気負わなくっても平気っすよ!
俺たちはお嬢様の邪魔はしないようにしますんで!」
「レヴィ……!お前は少し口を慎め!」
やり取りにルアナは思わず柔らかく笑った。
少し緊張がゆるむ。
「じゃぁ…外に出るときは声をかけるわね。」
「「承知しました!」」
2人の声が重なり、ルアナは思わず目を丸くした。
扉が閉まると同時に、護衛の2人は静かにドアの前へ立ち、彼女の日常はゆっくりと、しかし確実に変化していた。
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ロイドとレヴィが廊下に立ってしばらく。
ルアナはまだ落ち着かぬ気持ちで、窓辺に腰かけて外を眺めていた。
(護衛がつくだなんて……。一体何がおころうとしているの?
それとも、私が何も知らないだけなのかしら…?)
胸の奥がざわつき始めたその時、またノック音が響く。
「ルアナ、入ってもいいか?」
聞き慣れた声。
イアンだった。
扉の前ではロイドとレヴィが同時に直立し、イアンに深く頭を下げる。
「殿下お気を付けてお入りください。」
「………本当にもうついているのか。仕事が早いな…。」
軽く息をつきながら、イアンは部屋に入っていった。
「イアン…。」
ルアナが立ち上がると、イアンは少し困ったような笑顔を見せた。
「驚いたよな、急に護衛がついて。」
「そう、ね。正直に言うと少し落ち着かないわ…。」
「だろうな。でも心配はしないでくれ。
現状、ルアナの身が安全であることが、何よりも大事だ」
イアンは柔らかな声で言いながら、ルアナの目線に合わせるように腰を下ろす。
まるで彼女が緊張しないように配慮しているかのように。
「それに…王城の中でのルアナの扱いが今日からより丁寧なものになる。
戸惑うかもしれないが、何かあったら俺に相談してくれ。」
その言葉の意味を確かめる間も無く、再びノック音が響く。
「ルアナ様、失礼いたします。お食事のご用意が整いましたので…」
侍女のミリーが部屋に入ってきた。
いつもは明るく気さくに話しかけてくれる侍女なのだが——
今日は違った。
背筋は伸び、声のトーンはどこか硬い。
ルアナを見る目にもどこか「距離」がある。
「ミリー…?」
「はい、ルアナ様。
本日より、国王陛下より特別なお取り扱いをするようにと指示を受けております。
何かございましたら、すぐにお申し付けくださいませ。」
(え…?いつもはもっと気さくに話をしてくれてたのに…)
「ミリー、私が気恥ずかしいから、いつも通りで大丈夫よ。」
「いえ、ルアナ様はこれより、”城の姫として同等の御身分”にございますので……。私どもも相応の態度を取らねばなりません。」
ミリーは深く頭を下げ、食事のワゴンを押し入室する。
いつもの笑顔はない。
イアンがそっと耳打ちをしてくれる。
「…国王陛下、俺の父上からの命ならば仕方ない事だ…。王の命は重たいからな…。」
ルアナは言葉を失ったまま、ミリーの動きを見つめるしかできなかった。
食器の置き方ひとつ、身のこなしひとつが、まるで「誰か重要人物の前」に立つときのようだ。
距離が離れてしまったようで、胸にチクチクと刺さる。
(あれだけ普通に話をしてくれていたのに…姫として扱われるってこういう事なの……?)
イアンは彼女の戸惑いのような不安な匂いに気付き、静かに言う。
「無理はしなくていい、何かあれば俺にいつでも相談してくれ。」
イアンは少しでも彼女の不安を取り除けるよう、優しく囁く。
「ありがとう、イアン…。」
ルアナは自分の運命がゆっくりと変化していくのを感じとっていた。
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同じころ———
かつては、神への祈りを捧げられていた聖堂。
今では黒い粘液のような魔力で満たされ、壁という壁には歪んだ魔法陣が刻まれていた。
中央の玉座に座しているのは、蛇の鱗を持つ蛇獣人——
この国の実権を握る大司祭ヴォルクス。
その足元で、黒衣の物が深く頭を垂れていた。
「報告を。」
「はっ!
月属性の大規模反応を確認いたしました。場所はグラナディオン王国であります。」
ヴォルクスの口元がゆっくりと吊り上がる。
「ついに見つかったか、あの女の子どもが。」
「覚醒の時は近いかと。」
「かまわん。
完全覚醒の瞬間など待つ必要はない。」
ヴォルクスは指先で空をなぞる。
すると水面のような映像が浮かび上がる。
そこには王城の一室に立つルアナの姿が映し出されていた。
「この少女こそ、我らが捜し求めた月の乙女の血…!」
黒衣が息をのむ。
「回収の準備を進めますか?」
「いいや、まずは試す。
グラナディオンの防備、王太子、近衛、獣人の実力……すべてをな…!」
玉座の背後から、無数の蛇の影が蠢いた。
「犠牲が出ても構わん。
月の乙女は——必ず我らのもとへ戻る運命なのだからな。」
地価神殿にぬめるような笑い声が響き渡るのだった。




