嘘つきは泥棒のはじまり
嘘をついたので、泥棒が始まった。話せば長くなるような、そうでもないような、とりあえず始まってしまったものは仕方がない。終わるのかどうかも分からない。
さて、泥棒になった以上は、何かを盗まなくてはならない。昼過ぎの公園の木陰で、ちょうど時報に合わせて腹が鳴った俺は、それを合図に目の前のベンチで休んでいる老婆が落としかけたおむすびを引ったくって食った。
「あらぁ。」
呆気にとられる老婆を堂々と眺めながら、俺は「あの言葉」を待っていた。
「ドッ、どっ……」
来るぞ!
「どんだけお腹すいていたんだい?」
違った。泥棒ライフ早々、調子よく「ドロボー」と叫ばれながら一目散に逃げ出したかったのだが、そうは問屋が卸さないらしい。こうなったら、問屋のお宅にも盗みに入る他ない。意地でも言わせてやりたい。
「おばあさん、俺、ドロ……」
「ほら、もう一個お食べ。」
老婆は俺の言葉など聞こえない様子で、もうひとつのおむすびを差し出していた。
「そんな、別に。」
「こういうのは遠慮したらあかんのよ。」
躊躇いと少なからぬ罪悪感を抱きながらも、俺は差し出されるままに、もうひとつにもかぶりついた。さっきの梅とは違って、こちらはおかかだった。
「おいしいかい?」
「全然。」
俺は嘘つきだった。
「あははは!そうかいそうかい。」
失礼な俺の言葉に、老婆はなぜか笑った。
「あなた、本当にあの子みたい。あの子もずっと、『コンビニの方がおいしい、ばあちゃんのは好きじゃない』なんて言ってたからねぇ。」
おむすびを最後の一粒まで平らげた俺は、このまま去る気にもなれず、なにか他にも盗めるものはないかと老婆の身辺を眺めていた。
「みかんもあるけど、食べるかい?」
「飴ちゃんもあるよ。」
ああ、どうも調子が狂う。といっても人生初の盗み事なので、狂っているのかどうかさえよくわからないのであるが、少なくともこの老婆がせっかくの「はじまり」に全く似つかわしくないターゲットであることは、よくわかってきた気がする。
飴をポケットに入れ、蜜柑の皮を剥きながら、俺は堂々と正面突破を試みることにした。ある種の「予告状」みたいなものであろう。
「おばあさんさ、大事にしてるものとかって、ないの?俺、それ欲しいんだけど。」
老婆はしばらく上を向いていた。空には、先ほどまで照りつけていた陽射しをピンポイントで包み隠すような、小さく真っ白な雲がかかっていた。
「『あの子との思い出』かしらね。大切なもの。」
さて、概念である。こんなもの、どう盗めば良いのか。とりあえず、探りを入れる。
「おばあさん、その、『あの子』ってどんな子だったの?」
老婆は、その問いかけを心待ちにしていたかのように、微笑みながら語り始めた。
「あの子はね、私の自慢の孫なの。勉強熱心で、なんでもできて、ひいじいちゃん……私のお父さんに、よう似ててね。」
それで、それでと、まあ出るわ出るわの孫自慢。何分間聞かされたのだろうか。でも、不思議と不快ではなかった。それがこの老婆の真なる愛に感服したからなのか、次から次に出てくる蜜柑をなぜか俺が食い続けてしまっているせいなのかはわからない。
ただ、やはりこの老婆が言うように、「あの子」と俺にはいくつかの共通点があるようだった。少なくとも、年齢はほとんど変わらない。
老婆が何度も空を見上げる意味は、この鈍感な俺にですら分かるような気がしていた。日差しが戻り、俺と老婆を照らし始める。老婆の影がゆっくりとベンチに浮かぶ中、俺はひとつの決意めいた感情を徐らに抱きつつあった。嘘つきの泥棒にできることは、きっとこれしかなかった。
「じゃあ、おばあさん、その思い出、俺が盗むよ。それで、俺がその『あの子』になるからさ、そうしたら大泥棒だろ?大事な思い出を、盗んじまうんだからさ、な?だから……」
その時だった。
「ばあちゃん、またこんな所で人様の世話になって!ほら、行くよ。すみません、うちの婆さんちょっとボケはじめてて。僕が付きっきりで見てるんですけど、よくこうやって徘徊しちゃって。」
「あらあら。」
「あらあらじゃねぇよ、ばあちゃん。行くよ。」
青年に促されて立ち上がる老婆。青年が帰路の方に向き直ったその刹那、老婆はニヤリと笑って、俺だけに聞こえるくらいの小さな声で言った。
「ごめんなさいね。私も、嘘つきなの。泥棒仲間ね。」
そう言い残して、「あの子」と帰路に着く老婆に、俺はとんでもないものを盗まれてしまったような気分になって、笑った。上には上がいるものだ。
こんなの作り話だろって?だから言ったじゃないか。嘘つきは泥棒のはじまり。信じれば随想、疑えば空想。どちらにせよ、あなたのお時間、ちょいとばかし頂戴しただけだよ。