月劫
月明かりに照らされた俺。桜は柳かと見違う程に、恐ろしさを極め。凪ぐ。
鼓動と、張りつめた心の行き詰まりを、瞬く都度に繰り返せば。痛みにあえぐ唇から、掠れた笑いが零れた。月夜に咲く桃色は俺の胸に塵を積もらせ、冷たい殺傷の名残に尚も響くのは嘲笑だろう。硬い地面に銀色の剣を突き立てれば、想い残したあの人から愛を授かる俺が跪いていた…。
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「炎に焼かれたんだろう?」
「ええ…。」
頬を撫でる、薄汚れた街角。古びた小屋で、ただ大切な物を愛する毎に冷たくなる心が叫び出す。獲物を捕らえたがために血濡れた剣を握る手が、彼女の瞼に触れた瞬間の罪悪感に、俺は目を伏せた。
「誰かに私を捨て去ろうというの?」
「ふざけた事を…。」
薄い唇に微笑をたたえて、彼女の言葉をいなせば。冷たい視線は土埃の中を駆け抜けていく、幌馬車へと向けられた。昼間からビールを飲み盛る、戦士達が屯する傍を馬の蹄が霞めて。思わず彼女に口付けようと身を乗り出せば、優しい仕草で止められた。
「緋色の指輪を誓ったでしょう?」
「焚火が遮った星空で、伴った仲だろう?」
震える指先で一筋の髪に触れる。いずれ向かう戦場で、お前だけが俺の証であり。俺自身であるのだと、諭すように強く抱き締めれば。背中に回された手が、そっと暖かさを宿していた。
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桜の花びらに、色を失った唇で口付けを落とす。震える身体を錆びた剣で支えながら、見上げた闇色に浮かぶ月。血液を拭えば、虚ろだった視界がはっきりとした輪郭を持つ。孤独に苛まれて呪いの様に呟く名前が、恐らく俺の中での貴女だった。
誰より、俺が愛した薄紅に咲き誇る…幼い頃からの貴女であった…。
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「私が貴方を知らないというの?」
「さあ…。」
青色の朝が床に横たわったまま、砂漠の男に成り切った俺を晒す。ふっと笑った口元を隠す様に、左手で彼女の瞳に触れようと手を伸ばせば。冷たい硝子が俺を阻んだ。
「いつだって、お前に殺される用意は出来てるんだぜ?」
「私は貴方に愛される支度を、夜の内に整えて来たのに?」
「…。」
砂嵐で互いの姿が見えなくなってしまえば良い。彼女は涙を流し、俺は愛する人の為に命を犠牲に出来るだろうから。祀り捧げる僧侶が、宗派を違えたと気づくその日が終わる迄。戦いで築いた勝利だけが、俺を英雄にするだろうから…。
「俺に愛されるために、此処に居るんだろ?」
「そうだったら。良かったのにね…。」
独り言を溢すよう、呟いた言葉を掻き消すように。苦痛を与える為だけの口付けをする。冷たい涙が、凍える朝を更に肌へと浸み込ませ、微かな悲鳴は心の闇に溶けていった…。
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「はは…。」
目を覆い、震える笑い声が暗闇に咲き誇る桜色へと消えていく。想い馳せる言葉の数々が、小説の様にリフレインを引き起こし。錯覚は、愛されたという事実を塗り替えて…抹消してしまう。
「死なせてくれ…いっその事。」
月夜に囁いた言葉が、誰よりも貴女を想う言葉で。それでも、もう一度だけ俺の本当を名付けてくれるあの月を。最初に産まれた星と近付けたいと願ってしまう。誰よりも、俺が俺だけが愛されたいのだと祈ってしまう。燃やし尽くされた世界でも、唯一にして永遠に輝き続ける満月と桜木が…。
「俺が最初から貴女だった…。」
もう、この世界の何処にもいない俺を蔑むように。
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瓦礫が燃え盛り、小さな糸屑さえ戦士達の血に染まっていく。疲れた足を引きずるように、前へ前へと進んで行けば、其処には炎に囲まれた貴女が居た。
「そのままで良いのか…。」
「貴方こそ…。」
業火と言うには弱く、彼女の瞳が色彩を変貌させるには強すぎる炎が建物を壊し、倒れ伏した男達を一瞬にして灰にする。身体中に傷を負い、立つのがやっとの俺は彼女を引き寄せようと、互いを塞ぐ炎へ手を伸ばした。
「私は大丈夫。いつか貴方の元へ、また…。」
「そんな事どうでも良い!今すぐこっちへ来い!早く…。」
震える脚が崩れ落ち、限界だった俺は小さく呻いた。それでも、白銀の色素を焔の中に輝かせる彼女を引き戻そうと、もう一度彼女に触れるギリギリまで手を伸ばす。
「お前だけなんだ、お前だけが。」
「この戦場に蔓延る敵兵が言うの。私は要らないのだと。」
「っ…。」
喉奥が引き攣れ、涙は止めどなく流れ落ちた。
「また、会うべき時が訪れるまで…。」
「やめろ!!」
壮絶なまでの光炎は彼女を燃やし、俺は火の粉が散った先の三日月へ。悲惨なまでの慟哭を告げたのであった。
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「The person I love is my moon.」
柔い声が耳の奥に残ったまま、感じた事が在る筈もない温もりは恋しさを欲して。あえぐ喉は、流した涙では潤せない。
共に生きてきた事がこれほどまで辛く。己が頼りない存在であると知らしめられる…果てもなく続く絶望。桜が溢す仄かさと、切なさに唇の震えを感じ。貴女を愛せたという、その幸福だけを探し求めて俺は、小さく細い言葉を呟いていた…。
「生まれ変わったら、俺は貴女になれるだろうか。」
それとも、姿を変えた彼女を探し続ける人生を辿るのか。俺は、愛した人を忘れるのか…。
「分かんねえよ。」
問い掛けたのは月と鈍い光を放つ桜だったように思う。炎を朽ちた高尚と知り、冴えた氷嚢をオアシスに汲んで...。しかしながら、実際に俺を見つめていたのは白銀の毛皮を持つ狼であった。
「…ああ。」
触れようとしても、遮るように体を逸らす。優しい虹彩を讃えた瞳は、孤独なこの場所から抜け出そうと言うかのように、俺を見つめていた。何よりも美しい狼であった。
「遅いぜ…。」
百年の時を経て、数ヵ月ほどの人生における一瞬を、愛する彼女に捧げられていたら。俺は、俺だけに愛される貴女を守れていたのだろうか。俺の足元で寝そべる銀色オオカミは、何も答えてはくれない。
ただ、月明りだけが俺と彼女を繋ぎ止めるように。冷たい文字を綴り始めていた…。
(完)
月劫