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恋愛

ビター・ビターチョコレート・スイート

作者: 遥彼方

香月よう子さんに捧ぐ。

『バレンタインの恋物語』企画参加作品です。


挿絵(By みてみん)

バナー作成 楠結衣さま

 私は渡せなかった箱を、指先で軽く弾いた。


 あなたの好きなビターチョコレート。

 甘すぎなくて、香り高くて。


 今日の天気はみぞれ。雪でも、雨でもない、中途半端な空模様。

 音もなく花のように散る雪でも、優しく洗い流す雨でもなく。

 冷たく、微かな音を響かせて、まだ白さを残しながら降り、水となって地面を濡らしていた。


 再会したのは、偶然だった──。




 その日私は、お気に入りのカフェでカプチーノを頼み、大好きな小説を開いていた。


 コーヒーの香りと、控えめなクラシック音楽と、それをかき消さない程度の客の会話。寒気を通さないで、日差しの温もりだけを柔らかく通す窓。心地よく配置された観葉植物のグリーン。


 混みあう有名店ではないけれど、コーヒーとスイーツが美味しい。一人でそれなりに長居をしても、気が咎めない空気が好きだ。

 自宅から歩いて十分もかからない距離という、手軽さもよかった。


 微かな紙擦れの音をさせて、最後のページをめくり終え、ほう、というため息と共に本を閉じる。いつの間にか冷めてしまったカプチーノに口をつけた、その時だった。


香津(こうづ)さん?」


 柔らかなテノールに旧姓を呼ばれた。


白藤しらふじくん?」


 顔を上げた私は驚きに目を開いた。見上げた先には、遠い記憶にしまいこんだ、甘く切ない初恋の人がいた。


「やっぱり香津さんだ。久しぶり。変わってないね‥‥‥いや、昔よりずっと綺麗になったかな」

「白藤くんこそ。お世辞は上手くなったみたいだけどね」


 あなたこそもっと綺麗になったわ──という言葉は飲み込んだ。


 高校時代。透明で、どこか憂いを帯びた男の子は。二十年という月日を経て、澄んだ水面に落とした木陰のように、危うげに揺らめく美しさを湛えた男性になっていた。


「ここ、いいかな」

「どうぞ」


 向かいの椅子に長い指がかかり、私は首肯した。


「このカフェにはよく来るの?」

「うん。お気に入りなの。白藤くんは初めて?」


 お気に入りのカフェだから何度も訪れているけれど、白藤くんを見かけたことはない。


「そうだね。偶々、仕事の合間に寄ったんだけど。おかげで香津さんに会えた」


 仕事の合間‥‥‥ああ、それでこんな時間にカフェに寄ったのね。


 平日の昼下がりのカフェに、男性客はほぼいない。


 蒼衣が店員を呼び止め、ブレンドコーヒーを頼んだ。長い足をテーブルの下に収め、椅子に腰を下ろす。


「今は香津じゃないわ。坂下さかしたよ。坂下月子(つきこ)。慣れないだろうから、月子と呼んで」

「じゃあ僕のことも蒼衣あおいと。本当は、女みたいな名前であまり好きじゃないんだけれど」

「そう? 蒼って深くて綺麗で、あなたに似合う色だと思うわ」

「月子さんの前では霞むよ。白く仄かに輝く光には、蒼は暗く沈むだけだ」


 彼の視線が、私の薬指に向かう。彼と私の薬指には、結婚指輪がはまっていた。


「白‥‥‥蒼衣くんは相変わらず詩的ね。素敵だわ」

「妻には引かれるよ」


 妻という言葉に、胸の奥がつきん、と疼いた。


 ほのかに寄せていた想いは、遠い昔のことなのに。


 頼んでいたコーヒーが届き、蒼衣がカップを口元に運ぶ。湯気がすっと通った鼻梁の前で煙った。


「ご主人はどんな人?」

「あなたのように恰好よくはないけれど、優しい人よ。どこまでも優しく包み込んで、私を愛してくれる人」


 私は無意識に両手で自分を抱えた。


「そう。幸せなんだね」

「幸せ‥‥‥そうね」


 振り切るように両手をひざの上に置き、微笑んだ。


「蒼衣くんの奥様は?」

「強く孤高な人だよ。僕という存在がいるのかどうか分からないくらいに」


 切れ長の目が伏せられ、長いまつ毛が白い頬に影を落とした。黒髪が微かに揺れて、年相応の深みを与える小さな皺やくぼみに、青味のかかった翳りを帯びさせる。漂うコーヒーの香の隙間から、ムスクの香がふわりと届いた。


「妻は仕事一筋でね。誇りを持って働いている。同期の男より昇進したから、妬まれて色々言われるけど、それでも走り続けてる。そんな彼女が好きで支えたいと思って結婚した。でも時々‥‥‥いや、最近はずっとか。彼女は一人でも立って進み続ける人で、僕は必要ないんじゃないかと思ってしまう。君は愛されていて、いいね」


 奥様は忙しく、会話という会話もなく寝るだけに帰ってくる日々なのだと言う。


「蒼衣くんも幸せなだけの結婚生活じゃないのね」

「も?」


 蒼衣がカップを置く。


「月子さんも、幸せじゃないのか」

「‥‥‥幸せなはずなの。この上なく愛されて大事にしてくれて優しくて。でもなんて言ったらいいのかな。真綿で首を締められているように、優しさが苦しいの」


 自分の目の前のカップに視線を落とした。

 白いカップの内側には、カプチーノの泡の残骸が茶色くこびりついている。


「私、子供が出来にくい体なの。何年も授からなくて、やっと授かったのに流産しちゃって。夫は気にしないでいいと言ってくれているわ。でもあれから‥‥‥」


 店内音楽が、シャミナードのアラベスクを流した。ドビュッシーの美しくも繊細な調べではなく、激しく裂くような切ない音色が鼓膜を叩く。

 私はアラベスクに押し出されるまま、心に巣食った濁流を吐き出した。


「求められる度に、赤ちゃんのことが頭をよぎるの。夫婦の行為が、もう一度赤ちゃんを求められていることのように思えて、押しつぶされそうなの。そんなこと夫は考えてないって分かっているのに。またあんな思いをしたらと思うと、苦しくて、苦しくて。応えられなくなっちゃった。もう一年以上、レスなの」


 蒼衣はテーブルの上に長い指を組んで、じっと私を見ていた。彼の瞳に炎のような濁流が躍っている。この濁流は、今思いを吐き出している私のものなのか、彼のものなのか判断がつかなかった。


「レスなのも寂しいのも、同じだね‥‥‥ご主人はなんて?」

「仕方のないことだって待ってくれているわ。最近は気を遣って、触れないようにもしてくれているの。でも。それも寂しくて。応えられないのは私の問題なのにね」


 荒れ狂っていた激しい濁流は鳴りを潜め、罪悪感がずしりと私を縛った。同時に恥ずかしくなる。久しぶりに会った同級生に、どうしてこんな話をしてしまったのだろう。


「ごめんね。こんな話をされたって困るわよね。忘れて」

「いや。僕も変な話をしたのは同じだよ」


 少しの間、沈黙が落ちた。アラベスクは2章に入ることなく終わり、ショパンのノクターン2番が、優しく空気を鳴らしていた。

 蒼衣がすっかり湯気の立たなくなったカップを一気に傾ける。


「出ようか」


 私の分の代金を払おうとした蒼衣を止め、互いに会計を済ませて店を出る。午後になって吹く冷たい風に体を震わせると、急に首筋が温かいものに包まれた。

 蒼衣が自分のマフラーを私に巻いてくれたのだ。


「ねえ、月子さん。ご主人に気持ちを素直に打ち明けてはどうかな。僕は男だから、子供を産めない月子さんの気持ちは分からない。想像するしかない。妻が苦しんでいても、何もできない。せめて傷口に触れないように優しくするしか‥‥‥でもそれって、苦しくて寂しいと思う」

「そうね」


 そうよね。私が苦しかった分、きっと夫も苦しかった。それは私も分かっている。

 分かっているから、なおさら苦しい。


「蒼衣くん。私は女だけど、働いたことがないから奥様の気持ちは分からないわ。でも一人で大丈夫な人はいない。あなたが隣で支えてくれるから、立って進み続けていられるんだと思う。強さのレッテルを貼っちゃ駄目だよ」

「‥‥‥そうだね」


 蒼衣の綺麗なアーモンド形の瞳がわずかに細くなった。


 彼も分かっている。分かっているから、きっと苦しい。


 私たちは似ている。立場も性別も理由も違うけれど。行き場のない愛に溺れて、自由に息ができていない。

 苦しくて苦しくて、空気を求めてあえいでいる。そして、その空気は、目の前にあるのかもしれない、などと。薄っすら思ってしまっていた。


 首に巻かれたマフラーに触れながら、私はじっと蒼衣を見つめた。

 蒼衣もまた、私を瞳に映している。


 蒼衣は知的で年を取っても美しい男性だ。


 夫はクラシック音楽や小説にも興味がない。蒼衣のように背も高くない。顔立ちも整っていなくて、どこにでもいる普通のおじさんだ。お腹も出てきていて、私が買い替えない限り同じ服を着倒している。


 高校時代のバレンタインデー。

 あの日、告白していたなら。

 蒼衣との未来があったのだろうか──。



「蒼衣くん。気持ちは嬉しいけど」


 首に巻かれたマフラーを取り、彼の前に差し出した。

 自分のものでないマフラーを借りる──それも男性用をだなんて。あり得なかった。


「ごめん、寒そうだったから。でも、そうだね。他人の奥さんに貸すのは駄目だった」

「ううん。ありがとう。あの、私もう帰らなくちゃ」


 こういう優しさが好きだった。今も好ましいと思う。でも、お互いにあの頃とは違う。


「月子さん」


 マフラーを受け取る蒼衣の指が、私の指に触れた。ほんのり温かい。


「あなたは僕の初恋でした。あなたは初恋のあの時のまま‥‥‥あの時よりも綺麗で、純粋で、優しい」


 初恋。甘酸っぱい響きが、遠い日の心を優しく撫でた。


「私も」

「え?」

「私も初恋だったの。あなたはあの時より、綺麗で恰好よくて優しくて‥‥‥純粋よ」


 蒼衣も私を想っていてくれたことが、素直に嬉しい。

 互いに年を取った。知らずにお互いが初恋をしていたあの時は彼方に過ぎ、それぞれに愛しい伴侶がいる。だからこそ、伝えたかったし、伝えられること。


 ありがとう。

 好きでした。


 二十年ぶりな告白した私たちは、静かに見つめ合った。


 互いの目が、微笑みが、温度が物語っていた。


「私ね。幸せなだけの結婚生活じゃないけど、やっぱり幸せなの」

「うん。僕もだ」


 マフラーを巻き直した蒼衣が、穏やかに頷いた。


 私たちは似ていて、お互いに苦しんでいて、慰め合える唯一かもしれない。

 けれどお互いに、どうしようもなく、今が大切で愛しいのだ。


「妻を愛してる。幸せだから、余計に寂しくて苦しい。贅沢だね」

「ふふ。そうね」


 立ち話をする私たちを、アラベスクのような風が裂いてゆく。


「さようなら」

「さようなら」


 乾いた冷たい風が、心地よかった。



****


 あの時。

 私は渡せなかった箱を、指先で軽く弾いた。


 あなたの好きなビターチョコレート。

 甘すぎなくて、香り高くて。


 今日の天気はみぞれ。雪でも、雨でもない、中途半端な空模様。

 音もなく花のように散る雪でも、優しく洗い流す雨でもなく。

 冷たく、微かな音を響かせて、まだ白さを残しながら降り、水となって地面を濡らしていた。


 再会したのは、偶然だった──。


「香津さん?」


 初恋の白藤くんに、チョコレートを渡す勇気さえ出せず。

 一人いじけて、手の中のチョコレートに小さな八つ当たりをしながら、雨宿りならぬみぞれを避けて軒下にいた私の前から。一つ上の坂下先輩が走ってきた。


「坂下先輩」

「久しぶり」


 去年卒業して大学生になった先輩は、制服でなくなった以外は変わらなかった。素朴で温かい笑顔、威圧感のない物腰。


「急に降るから、参ったよね」


 困ったように笑った先輩は、一人分のスペースを開けて私の隣に立つと、上着についた水滴を手で払った。ぶるぶると頭を震わせて、太い指でがしがしと髪を払う。


 大型犬みたいな動きに、心がほっと緩んだ。


「ふふっ」


 つい吹き出すと、先輩がみぞれを払うのを止める。


「あ、えーと、その‥‥‥」


 気まずそうに頬をかきながら、ちらりと私の手元を流し見た。


「‥‥‥どんまい?」

「え?」


 どういうことかと先輩の目線を辿ると、ラッピングされたチョコレートの箱。落ち着いたダークブラウンの包装紙とゴールドのリボンが、ぱたぱたと濡れた。


 みぞれじゃない。涙?


「え、あれっ」


 はらはらと涙がこぼれる。一度流れ出すと、止まらなかった。


 この後、泣いてしまった私を先輩は不器用に、でも一生懸命に慰めてくれて。

 私は宙ぶらりんになったチョコレートを先輩に押し付けて。


 先輩は、白藤くんに渡す予定だったビターチョコレートを、全部食べて「美味しい」と笑った。



 ──これが、夫との馴れ初め。



 バッグには、甘いミルクチョコレートが入っている。

 付き合ってから知ったけれど、夫は超のつく甘党。あの日「美味しい」と言って食べたビターチョコレートは、本当は苦手だった。それを知った時、「苦手なことはちゃんと教えて」と私は怒った。

 言ってくれなければ分からない。本心を伝えて、と。


「勇気をくれて、ありがとう。蒼衣くん」


 あの時。勇気を出せず、渡せなかったから、夫との今があって。

 今、蒼衣と話すことで、夫と向き合う勇気をもらった。


 だから私も本心を伝えよう。

 

 伝えたところで、変われるかどうか分からない。過去は簡単に乗り越えられないかも。


 それでも。


 伝えて、乗り越えたい。



 あなたと二人で。

香月さん。

香月さんの好きを詰め込んでみたけれど、やっぱり香月さんの世界は再現できなかったです。

喜んでくれると嬉しいな。

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― 新着の感想 ―
企画から参りました。 カフェに本に音楽に、『ふたりのアラベスク』の世界を再現したようなしっとりとした雰囲気溢れるお話でした。 奏子さんと清志郎さんと旭良さんが思い浮かんできて、登場人物に重ね合わせまし…
企画から拝読しました。すごくよかったです。アラベスクのオマージュ作品だとすぐにわかりましたが、読み進むうちにどんどん要素が増えて……胸にぐっときてしまいました。 タイトル通り、ビタービターでありながら…
拝読させていただきました。 カフェでの大人の恋……のBGMはやはりショパンでしょうか。 過去に心惹かれながら、今を見つめ直して、また歩き出す。 それもまた大人ですね。
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