表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

手を振る女

作者: 雉白書屋

 ある日の午後、男は駅のホームを歩いていた。用事を終え、会社に戻る途中だった。ここなら人も並んでいないし、座れるだろう。そう思って立ち止まったその瞬間だった。


 ――なんだ、あの女の人……。


 向かい側のホームに、こちらに向かって手を振っている女がいた。


 ――妙だな……。


 彼は周りを見渡したが、女の方を向いているのは自分だけ。他には、反対側の電車を待つ人が二人いるだけだった。

 まさか後ろ姿だけで友人だと気づいたのだろうか?

 そう思いながら、彼は女を見つめた。やはり、自分に手を振っているようにしか見えない。しかし、まったく知らない女だ。まさか、こちらに一目惚れして手を振っているわけもあるまい。


 ――でも、万が一ってことも……いや、ないとは思うけど、念のために……。


 彼は、自分を指差して「俺?」と口の動きだけで伝えてみた。

 すると、驚いた。女はうんうんと頷き、さらに大きく手を振ってきたのだ。

 はて、どこかで会ったかな? 遠目からでも美人だ。会えば忘れないと思うが、営業先の人だろうか。それとも、コンビニなど、いつも行く店の店員だろうか。いや、それでも俺に向かって手を振る理由がない。俺の顔が良かったならまだわかるが、残念ながら女性とは縁が薄い人生だ。じゃあ、いったいなぜ……。


 考えてもわからず、居心地が悪くなった彼は、軽く頭を下げ、別の場所に向かって歩き出した。ふと振り返ると、女はまだその場に立ち、彼に向かって手を振り続けていた。


 ――やはり、俺に手を振っていたのか。ちょっと、もったいなかったかな……。


 そんな思いが心に残った。そして、また別の日。前と同じ時刻、用事を済ませた彼は駅のホームを歩いていた。未練に引かれるように、無意識のうちに足はあの日と同じ場所に向かっていた。


 ――あっ。


 すると、いた。またあの女が向かい側のホームから、彼に向かって手を振ったのだ。

 彼は小さく手を振り返した。すると女は嬉しそうに踵を浮かせ、さらに大きく手を振った。彼は照れくさそうに微笑んだ。


 その後も、このようなことが二度繰り返されると、彼は女に直接会って声を聞きたくてたまらなくなった。

 だからある日、彼はついに決心し、女がいつもいるホームへ向かうことにした。

 時間帯は合っている。きっと会えるはずだ。彼女は俺が好きなんだ。ああ、運命だ。近づくにつれて、息が荒くなり、彼はそう確信めいたものを抱いた。しかし……


「いない……か。まあ、そうだよな……はぁ……あっ」


 彼は驚いた。いないと思っていたあの女が、向かい側のホームに立っていたのだ。

 きっと彼女も同じことを考えたのだろう。俺に会いたくて、たまらなかったのだ。そう思った彼は笑みを浮かべ、大きく手を振った。

 すると、女が歩き出した。

 前へ、前へと進んでいき、そして――


「ひっ!」


 電車が風を切り、女の姿を視界から消した。

 駅のホームにはいつものメロディーと、乗り降りする人々の足音だけが響いていた。

 電車のドアが閉まると、彼は踵を返して走り、駅を飛び出し、タクシーで会社に戻った。それ以降、彼はあの駅には近づかなくなった。

 あの日、彼は見た。ホームと電車の隙間に浮かぶ手を。それは、まるで風に揺れる花のように、ゆっくりと動いていた。

 女は今も手を振り続けている。彼の住むマンションの向かい側のアパートの窓、彼の会社の向かい側のビルの窓際から……。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ