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「言っておくが、俺だって聞いてなかったんだぞ!?」
翌朝、執務室のドアを開けるなりの一言。
よほど不本意だったらしく、いつも余裕な笑みを浮かべている彼が、眉間に皺を寄せています。
「わかっていますよ。貴方が私との婚約を言い出すわけがないじゃないですか。天と地がひっくり返ってもあり得ません」
「……いや、そこまでは言わないが……」
「一瞬たりとも考えませんでしたよ。そんな馬鹿な妄想、絶対にしませんからご安心ください」
「ここまで断言されるのも複雑だ」
ちゃんと正しく理解しているというのに、何が不満なのでしょう。
「とにかく心配しないでください。ちゃんと断っておきましたから」
「そうみたいだな。朝っぱらから王妃陛下に叩き起こされたよ、『お前の甲斐性がない所為だ!』ってさ」
ああ、だから今日は午前中から起きてらっしゃるのですね。いつもは完璧な美術品のような目元に、よく見ればうっすら隈がういています。
「殿下の甲斐性の問題ではありませんよ。貴方が決して望んでないことを、私がするわけないじゃないですか」
「望んでないのは君の方だろ。俺だって嫌がる君を強引に婚約者に据える気はないさ」
「あら、私はお受けしたかったんですよ?」
「そーだろ……って……
え゛゛っ!?!?」
殿下は椅子からずり落ちそうになりました。
あらあら、そんなに驚くことでしょうか?
いつも傲慢不遜な彼が、これほどまでに動揺しているのは初めて見るかもしれません。
「殿下の婚約者となれば、未来の王子妃として受ける恩恵は計り知れないのですよ。いちいち許可証が必要な場所もノーチェックになりますし、肩書のある方のサインを貰いに行かなくてもよくなります」
「…………。それって単に」
「さぞかし仕事がはかどるでしょうね。やはり王族の一員として扱われると、それだけで省略できる雑事がたくさんありますから」
権力って素晴らしい。
魅力的な誘惑を断るのは、本当に大変なことでした。
「そんな……。君にとっての結婚は、そんな損得勘定で決められるものなのか!?」
貴族の結婚が損得勘定以外のなにで決まるというのでしょう。
……とはいえ、たしかに相手次第では惨めな生活になるということは実体験で勉強済みです。しかしそういう観点で考えても、殿下が元婚約者のようなひどい態度をとることはないと思います。腹の立つことが多い方ですが、この数年のお付き合いで本当に嫌だと思うような目にあったことはありません。もしかして、密かに私を気づかってくれているのでは……というのはさすがに考えすぎですね。だけど一瞬だけ本気で、相手が殿下なら案外悪くないと思ったのは事実です。
まあどうしたってありえない絵空事なのですから、わざわざ伝えたりはしませんが。
「とにかく、終わった話ですから」
「ああそうかい。君は徹底した仕事人間だからな、わかってたよ!」
半ばやけくそのように言い捨てた殿下にクスリと笑みをもらしました。
もしも婚約の話を受けていたら、殿下との関係もなにか変わっていたかもしれません。今の距離感が心地よいと思っている私にとって、やはりお断りするのが正解だったのでしょう。
なんといっても平和な日常が一番です。
そんな風に感慨深く思っていると、殿下が鍵付きの引き出しを開け、中からばさりと紙の束を取り出しました。
「……殿下、その書類は……」
「仕事大好きアデリーちゃんに、心ばかりのプレゼントだ」
ニカーッと笑った殿下の手の中にあるのは、いずれも『至急』の赤字が入ったものばかり……。
「殿下……まさかとは思いますが。書類は溜めないで下さいとあれほど」
「すまん、うっかりしてた。今日中に頼む」
「………………………………」
平和な日常まで、あと一息。
殿下、その前にひっぱたいてもいいですか。