紅葉狩り
全50部からなる本編「月に咲く花」を元にした短編です。
最低限の説明はありますが、初めましての方には分かりにくい部分もあるかと思います。
ご了承ください。
くしゅんっ。
上着を羽織ってきたものの少し冷える両腕をさする。
朝方に目が覚めたとき、木の葉の揺れる音しかない静かな風に、微かに滝の落ちる音が聞こえた気がして、朝餉を終えてから源山の麓を歩きに来ていた。
だって、彼が来ているのではないかと思ったから。
彼は――空月は、初めて出会い別れた秋から、音沙汰なかった冬を過ぎ、春の訪れと共に再び私たちの前に姿を現した。秋に別れたときに交わした約束によって、春のその日から私たちは ”恋人”となった。とは言っても、こそばゆい響きのするその言葉を、私はほとんど口にしたことはないけれど。
そしてその春から、空月は月に一度この村を訪れて半月滞在しては帰っていく日々を送るようになった。頻繁に会えるのが嬉しいものの、人間ではない彼の、海にある故郷は遠いという。半月ずつで長旅をするその生活は忙しなく大変なのではないかと私は心配になるのだが、彼自身は特に負担に思ってはいないと口にしている。
空月や山の動物たちには何か不思議な力があるそうで、彼がやってくると、屋敷の傍にある源山の中に滝が現れる。
詳しい訳は知らないが、源山は動物たちの領域であり人はあまり立ち入ってはいけないというのが村での暗黙の了解で、その滝を実際に見たのはただの一度きりだった。それも雨の降る中双子の瓜坊たちに連れられて、倒れている空月を杏と発見したときだったので、しっかり見る余裕もなかった。
外から見ることはできない一方で、水の落ちる音は、川の流れる音に混じって時々聞こえるのだった。それは楽しみの始まる合図のように。
冷たい風に吹かれながら目を瞑り、隠れている滝の音に耳を澄ませる。何度音を聞いたって、山で役目を果たしてから来るらしい彼の来るのが早くなることはない。分かっている。
今日何十回目かになる確認を終え、ため息をついて少し笑う。
「……帰ろ」
屋敷で大人しく待っていたって空月は必ず来てくれる。
せっかく一緒にいられる半月を、風邪っ引きで過ごすなんて絶対に嫌だ。
そわそわと逸る気持ちをなんとか自分で宥めて長い散歩に区切りを付け、屋敷のほうへと引き返した。
「白百合!」
力強い足音と共に背後からそう呼びかけられたのは、それから少し歩いて屋敷のある丘に差し掛かった頃だった。
振り返り、自然と口元が緩む。
随分と慌てて来たのだろう。軽く息を切らせて立つ空月は、所々歪んだ着付けに、長い髪も束ねないまま垂らされている上に心なしか青みがかって見える。まばらになった前髪の間からは、やっと見慣れた黒と青の綺麗な瞳が細められているのがよく見えた。
「迎えに来て、くださったのですか?」
空月は気配とかそういうので、ある程度の距離にいるひとの動きがわかるとか。私がずっと山の麓をうろうろしていたのに気付いていたのかもしれない。
正直恥ずかしい。
「ん? そろそろかと思って、散歩に来てただけよ」
間違えた。恥ずかしい行動全然言い訳できてないじゃん。
結果的に素直になってしまった自分の返答に顔が熱くなる。
でも、対する空月はなんだか複雑な表情で微笑んだ。
どうしたんだろう。
そして、すっと目の前まで近付いたかと思うと、瞬きの後には私は彼の体と腕で包まれていた。体温が人より低いらしい彼だけど、ちゃんとほんのり温かい。
されるままになりながら顔だけは少し彼を見上げてその言葉を待つ。
「……長くお待たせしてしまって申し訳ありません。寒かったでしょう。これでも急いだのですが……」
苦しそうに言う姿に、私のほうが申し訳なくなる。
「ごめん、焦らせちゃったよね」
「いえ! その、本当に嬉しいのです。ただ同時に、私のせいで貴方が体調を崩されてしまったらと思うと、怖くて……」
大切にされてるんだな。私。
「……うん。次は屋敷で待ってるね」
「ありがとうございます」
空月がそっと私を離し、肩や背にすうっと冷たい風があたる。足元では赤や黄、茶になった葉が落ち着きなく揺れている。
一緒に季節を重ねているんだな。
「陸は、また色が変わりましたね」
空月も似たようなことを考えていたらしい。こういうとき、少し嬉しくなる。
「でしょ? また色々見せたいものあるんだ」
「是非」
手だけは温め合いながら、彩られた景色を眺めて屋敷への道を歩いた。
「ねえ明日、紅葉狩りに行かない?」
昼下がり、部屋の日の当たるところを選んで書物を漁っていると、隣にいた白百合がふいに此方を向いて微笑んだ。
しかし――、
「狩り……?」
この人に限って知っているような物騒な話ではないだろう。紅葉を狩る……集める……?
私が理解しようと考えているのを認めて白百合は少し笑う。
「まあ本当に狩りはしないんだけど……。山に、最高の紅葉を見に行こうってこと!」
そうして首を傾けて笑顔で見つめてくる仕草はいつも可愛らしい。
紅葉の葉は、昔から知っていた。
空が高く、風が冷たくなってくると山のほうから時々流されてくる色鮮やかな葉。「もみじ」と呼ばれているのだと、海辺まで山の使者を迎えに行ったとき、鹿殿に教えていただいた。
鈴虫らの音といい紅葉といい、秋はなんと華やかなのかと思ったものだった。
白百合がすっと滑らせた目線につられて窓の外に見える赤や橙、緑の混じった山を見上げる。
実際に自分の足で歩き見る秋は、想像以上に鮮やかだ。
「はい。行きたいです!」
翌朝、少し雲は出ているけれどしっかりと晴れた散策日和。
家族――主に空月と父に心配されて随分と厚着をして屋敷を出た。空月も普段より厚着をして大きめの水筒を持ち準備は万端。珍しく髪も少し時間を掛けてしっかりと束ねていて、張り切っているような姿に喜んでしまう。
「「いってきます」」
行き先は源山の隣の山。この日頃は様々な木々が色を付けていて、深緑の中を赤や橙が点々と彩り、山頂あたりには一際大きく温かそうな色が広がっている。
山頂には暫く行っていないが、溢れんばかりの紅葉に囲まれて夢心地だったのを覚えている。
あれを味わう空月が見てみたい。きっと可愛いに違いない。
そんな下心は悟られないよう、少しだけはしゃいで歩いた。
でも空月は、企みなんていらないくらい、山に入って間もないうちから熱のこもった目を忙しくあちらこちらに向けて進んだ。紅葉だけでなく、落ち葉の間から覗く萎れかけた茸も、渦を巻いた山菜も、名前もわからない木の実も、一つ一つ丁寧に出会っていくその世界はきっと私が見ているのとは段違いに鮮やかなんだろう。つられて私も面白くなってくるから不思議だ。
「やはり、陸は美しいですね」
眩しいくらいの笑みに、私の景色も彩られていく。
「うん、綺麗だね」
そんな彼だから、私が景色と彼とを半々くらいで見ていたことなんて、きっと気付く由もない。
山鳥の声と、風が木の葉に悪戯をする音に、落ち葉を踏む音、弾んだ声をのせて長い散歩は続く。
何度かの休憩を経て、やがて頂上が近付いてきた。
目の前を埋める老緑の向こうに燃える紅が覗いている。
「いよいよだね」
私も、前だけを見て歩いた。胸が高鳴る。
だんだん紅が押し寄せてきて、隣を歩いていた空月の歩幅が大きくなり、ついにぱっと視界が広がった。
彼の後ろ姿と共に紅葉が目の前を埋め尽くす。
思わず大きく吸った息をゆっくり吐きながら眺め回す。
一面が燃えている。紅葉とはいうが、朱や緋色、橙、時に黄をした繊細な光が私たちを包んでいた。
足を止めて立ち尽くしている彼の長い黒髪が、案外喧嘩することなく風で舞い踊る葉に混じって揺れる。
やっと彼の様子を伺いに目線を傍の斜め上にやると、案の定彼はその迫力さえ感じる自然の宝を、その目いっぱいに映して受け止め続けていた。
彼は今、いつかの記憶にある私のように、夢心地の中にいるのだろう。もちろん今の私も例外ではないけれど。
この最中、声を掛けるのも野暮な気がして、私も隣でまたじっと夢心地に浸った。
ああ、陸って綺麗なんだ。
「白百合、ありがとうございます」
少しして、優しい声がした。
「本来の姿は、こんなにも美しかったのですね……」
「本来の?」
「川を伝って流されてきた一枚ずつが、私の知る紅葉でした。それがこんなに賑やかだったなんて」
不思議と辺りには小鳥が少なく、さわさわと静かに風に揺らされた葉から細かい光が零れ落ちてくる。
「……うん、賑やかだね」
静かに会話をして、やっとお互いの顔を見て笑った。
こんな綺麗な場所で、不思議な出会いをした素敵な恋人と笑い合っているなんて、本当に夢だとしても文句がいえない。
人間ではない彼が隣にいる日々が重ねられていることだって、きっと奇跡みたいなものなんだから。
「健康体をがんばるとして、あと四十回くらいだったら来られるよ」
それでも希望を持って、寿命も人間と同じではないかもしれない空月に、冗談めかして言ってみる。
内心は迷いながら、笑顔で。
「四十回ですか……」
彼はその数を多いとも少ないとも言わず、穏やかな笑みでものを考える素振りをした。
ゆっくりと紅葉に見惚れながら話すうちに、滑らかに時が流れる。
やがて、いい加減空腹も気になり始め帰ろうかというとき、空月が名残惜しそう足を止めて後ろを振り返って言った。
「また来年も……来たいです」
自ら希望を言うことが少ない彼がそう言ってくれるのは嬉しい。
気に入ってくれたんだ。
それなのに――。
「うん、来ようよ」
意識して声を弾ませて返すと、空月は少しはにかんで遠慮がちに私に顔を寄せて覗き込んでくる。
「一緒に、来てくれますか?」
青と黒の普段は涼やかな綺麗な瞳が、目の前で緊張気味に揺れる。
真っすぐに向けられる思いに、あれこれと考えてしまう私はなんだか勿体なく思えた。
自然と頬が緩み、熱くなる。
「もちろん!」
足場がさほど悪くないあたりまでと二人で決めて、手を繋いで歩いた。
紅葉の多い辺りを抜け、景色がだんだん現実らしくなっていく。
ふいに隣を見上げて目が合う。
一呼吸おいて空月が微笑んだ。
「綺麗でしたね」
「うん、来てよかった」
少し斜面が付き始めているけれど、私たちのどちらも「そろそろ手を離そう」を言い出せずにいる。
大切な人が、共にいたいと言ってくれる幸せな今。
これが現実なんだから、文句はいえない。
(終わり)
本編「月に咲く花」より初めてのがっつり短編でした。
初めましての方、背景ありきの文章で申し訳ありませんでした。
少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
今年は紅葉狩りに行けませんでした。無念。
惚気を書いているようで楽しかったです。
お読みいただきありがとうございました。