さよなら、僕の金玉
「本当に後悔はありませんね?」
「お願いします……」
メンズクリニックの院長が、手にしたメスを僕に向けてそう言った。麻酔は既に効いている。後は終わりを待つだけだった──
夜の営みを拒まれる様になったのは、娘が産まれてすぐの事だった。
──わたし、疲れてるから。
そう言って妻は私の手を払い、背中を向けて寝てしまった。
空き時間は全て家事育児に専念したし、浮気だのギャンブルだの酒だの煙草は一切やらなかった。ただ、女性は出産後に人が変わる事がある。その事を知らなかっただけだった。
──もう子どもも居るのに……あなたのそういう所が気持ち悪いの。
妻は私の性欲を嫌悪した。私は、ただ一言「ごめん……」と、頭を下げて、隣の部屋の自分のベッドへと静かに横になるしかなかった。
性欲を止めるには金玉を取るしか無い。私はすぐにメンズクリニックを予約した。
「貴方の様な方はたまに見受けられますが、皆様大抵は後悔なさっております。私としても、なるべくは切除せずに解決出来ればと思ってますが……」
「いえ、他の方法は全てダメでした」
メタボリックシンドロームに悩ましい院長が、諭すかの様に私の目を見た。何人もの男の金玉を闇に葬ってきたからこそ分かる悲しみの目が、そこにはあった。出来る事なら、私のその悲しみの一人となりたいものだ。
「手術まで時間があります。いつでもキャンセル出来ますし、キャンセル料もかかりません。しっかりと考えて下さい……」
「分かりました」
診察室を出て待合室へと戻る。受付に居た金髪の若い女と目が合った。不覚にも良いなと思ってしまい、すぐに自らの醜い性欲を嫌悪した。
妻に報告すべきか、相談すべきか、夕餉のカニ玉を口へ運びながらしばし考えた。
言うとするならば、何と報告すべきか。
持ち掛けるならば、何と相談すべきか。
『このカニ玉美味しい。あ、今度の休みに金玉取るから宜しくね』
……何が宜しくなのだろうか。何も宜しくはないし、そもそも金玉を取ることを報告しなければいけない義務は無い。そう、ただ私は金玉を取られるだけの機械となるべきだ。
「先生、お願いします……」
「分かりました」
手術室にて、私の金玉への運命のカウントダウンが始まった。心の中で一つ一つ、自らの金玉に込められた思い出が蘇る。
いっその事名前でも付けようかと、昨夜は徹夜で考えた。右の金玉がジョセフィーヌ、左の金玉がタマだ。
「──待って下さい!!」
と、荒々しく手術室の扉が開け放たれた。肩で息をした妻が、何故かそこには居た。
「勝手に入られては困ります!」
金髪の若い受付嬢が妻を止めに入った。不覚にも良いなと思ってしまったので、自らの性欲に嫌悪した。
「先生! どうか夫の金玉を取らないであげて下さい!!」
一体どういう事だろうか、妻が縋り付くように泣き出した。
「落ち着いて、どうしましたか?」
「先生! この人ったら最近様子が変で、きっとこれは金玉を取るに違いないと思いまして尾行してみたら、案の定……!!」
「お前……」
「あなた! 私が悪かったわ! まさか金玉を取るまでに悩んでいたなんて……!! きっとあなたの事だから金玉に名前でも付けてしみったれているかと思って……!!」
訳も分からず、ただ泣きじゃくる妻を見やった。
先生は少し嬉しそうな顔で、私の肩を叩いた。
「これで解決ですね。もう少し遅ければもう片方も取っているところでしたよ、ハハハ……!」
「先生、ありがとうございます、ありがとうございます……!」
被せ物の下に居るであろうステンレストレイ残されたジョセフィーヌに手を振り、妻と共にメンズクリニックを後にした。
三日後、私はメンズクリニックの先生に呼び出された。
「腫瘍が見付かりましてね、もう片方も切除です」
私は胸の前で十字を切って、タマに別れを告げた。