エッセー嫌いの寒がりが「情報とは何か」と深夜テンションで真面目に考えてみるだけの駄文
星新一先生のショートショートは大好きだ。しかし、先生には失礼だが、間違ってきまぐれなんとかというエッセーを小学校の図書館で借りてしまい、読んでみたものの面白さが分からなくてがっかりしたのを覚えている。
今読み返せば面白いのかもしれないが、やっぱり私はエッセーよりショートショートの方が好きだ。
私は薄情な人間で、人が何を考え何を思ったかにはあまり興味が無い。それよりも人が作り出した「モノ」の方に興味があるのだ。
だから、ショートショートは好きだがエッセーは嫌いだ。
そんな人間がエッセーなどを書くのはタダの自己満足に過ぎない。自己満足というより、禁断症状というべきかもしれない。
書きたいという衝動は頂点に達しているのに、書く内容が伴わない。けれども書きたい。そんな時に、まるで味のしないガムを噛んで空腹を紛らわすように、テキストを吐き出す。
こんなものを読まされる身にもなってみろとも思うのだが、無名の人間が今更ネットの海の駄文の海に一滴駄文を加えたところで、大勢に影響はなかろうと。それなら無責任に適当に気の赴くままに書いてしまうが吉と思った次第だ。
さて、唐突に情報とは何かを考える。唐突だなぁ。
なんか、浮かんできたのでしょうがない。
パソコンを観察する。
パソコンという器具をずっと抽象化するとその作用は、「情報を増やすこと」だ。今まさに私はキーボードをたたくことで文章を組んで情報を増産している。
そしてその際、特筆すべきことに(?)パソコンの重量は変化していない。
厳密には、手あかがついたりごくわずかにキーボードが削れたりしているかもしれないが、その辺りは度外視だ。
情報が増加し、質量は変化しない。
そう言えば同じようなものがいくつかあった。
人間の脳みそがまずそうだ。我々の脳も、情報を増加させ、質量としては(ほとんど)変化していない。
さらに言うなら宇宙もそうなのではないか?
科学に明るくない私は、質量保存の法則というものがあって密閉容器の中でろうそくを燃やそうとネズミが暴れようと、容器全体としての質量は変化しないのだと思っている。
宇宙は膨張しているそうだが、質量が保存されるというのなら、宇宙全体としての重量には変化が無いのではないか?
他方で、今この瞬間も少なくとも地球人類はせっせと情報を増やし続けているわけだ。
つまり、宇宙について抽象化しても、「情報が増加し、質量は変化しない」ということが成り立っているのではないか。
よくSFなんかで、この宇宙は実は精密なコンピュータによるシミュレーションだったと言うオチがあるが、計算機と宇宙との類似性をこじつけで括りだすことに成功するとなんとなく、ふむ。という感じだ。
ではでは。情報は本当に増加しているのだろうか?
一見自明のようである。
私がキーを叩くごとに宇宙創成以来存在したことのない文章が組みあがるのだから。
けれども、本当か?本当にこの文章は存在したことが無いのか?
そう言えば中学校の時の数学教師が面白い事を言っていた。
円周率は規則性が無く無限に続くという仮説があるというお話だ。だとすれば、すべての文章は既に存在するということになる。
例えば、日本語をア行→1、カ行→2、サ行→3・・・、ア段→1,イ段→2,ウ段→3,とあらわすとしよう。「なろう」であれば、「51 95 13」とあらわせるわけだ。
で、これを円周率の中から探す。
暇じゃないのに暇人という量子力学的状態にある私は、ネットで円周率100万桁のデータを入手し、WordにコピペしてCtrl + Fで「519513」と検索をかけてみた。
すると、少数第988,428位から、「519513」の文字列(=「なろう」)が存在することが明らかになった。作業ミスってたらごめんよ。
まあ、そういうことで、「なろう」という言葉、少なくとも文字列は有史以前から存在したことになる。
数字から文字列を作成する方法は星の数ほどあるから上手いようにやれば、濁音やら半濁音やら記号やらも数字で表せるわけで(円周率を2進数に変換してやればなんかいい感じに上手くいくんじゃないかな、知らんけど)、そうするとこの駄文もあの名著も、円周率少数第無量大数位くらいに存在したりするんじゃなかろうか。
そうすると、情報が増えるという表現は適切でないのかもしれない。
客観的な状態としては情報は、発見されているに過ぎないのかもしれない。
そうすると、情報は宇宙誕生の日から増えていないのかもしれない。
パソコンだってそうだ。
結局メモリの0と1の並び順が入れ替わるだけだ。
コロンブスはアメリカ大陸を作ったのではなく、発見したのだ。
発見という作用は、主体が客体を初めて認識するという作用であって、結局主体の存在を前提とする。
結局あらゆる情報が存在し、しかし主体によって発見された情報のみが「存在」する。
そうすると「主体」とは何かという疑問がわいてくる。
残念ながら私、哲学にも明るくないので賢い哲学者が主体とは何かという問題を解明しているのかもしれないか、私にはさっぱりわからない。
例えば私は殴られれば痛いだろう。
痛覚神経が刺激されるとその刺激が何処を通って脳へ伝わって、脳のこの部分が反応するから痛いのだという説明は、まあ、なんとなくわかる。
分からないのは、脳のこの部分が反応したらなぜ「私」が痛いと感じるかだ。
このこと、科学が答えを出しているならぜひ知りたい。
私の脳だって、今日食べた鶏肉と同じたんぱく質の塊で出来ているはずなのになぜ私の脳は私なのか。そもそも、「私」という認識・意識が脳によって作り出されるのだとして、その認識を認識するのも脳だとして…。そんなことを考えているとわけがわからなくなる。
プログラミングでマインクラフトの村人に自我を植え付けたとして、彼が彼を自分と思う根拠は何か。彼を彼と認識せよというプログラムである。
人間も人間で、身体の構造上、また、親による教育上自分を自分と認識せよというプログラムが施されることによって自我というか主体が形成されているにすぎず、現象として記述するなら数兆個の細胞が寄り集まった複雑な生態系、集合住宅に過ぎないのかもしれない。
結局主体などというものが「存在」するのかもわからず、その「主体」が「発見」した「情報」なるものが「存在」するかもわからなくなってきた。
星新一先生のショートショートに蛇が自分の尻尾を食べ始め、やがて自らの全てを呑み込んで消失してしまうというお話が合ったような気がする。結局情報というのは完結しており、畢竟、数万年後に人類が滅び、誰も我々の作った情報を再発見する者が居なくなったとしたら、もともとなかったことになるのだろうか。
そろそろ眠くなってきたのでこの駄文を終わらせるとしよう。
もしもここまでこの乱文を読んだ変人がいらっしゃったら貴重なお時間をありがとうございますと申し上げたい。
先述の通り味のしないガムなので、文章校正もしていない拙い分で恐縮である。
締めは適当に読後感を整えるために小説調の表現にでもしよう。
自らを丸呑みした蛇は、もともと本当に存在したと言えるのだろうか?