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 都の春は、強い風と、砂埃と共にやって来る。

 どこまでも纏わりつく砂埃を、フランツは眉をひそめて何度も払い落とす。


 あの森での春は、萌黄色と薄桃色と、そして白と空色のどこまでも優しい色合いで、空気はあくまで静かに澄んでいた。

 またしても湧き上がる黄金色の巻き毛の幻影を、フランツは目を閉じてやり過ごす。


 咳払いをして扉をノックすると、部屋の内の主人が応えるのが聞こえた。


「やあ、フランツ、呼び出して悪いね。ちょっと相談があるんだ」


 この機嫌のよい声色。間違いなく、次の任務も厄介だ。

 ひざまずいてこうべを垂れながら、フランツは低くため息を漏らす。それからおもむろに上げた目は、微妙に眇められた主人のそれと真っ向からかち合った。

 面食らって瞬くフランツの顔を、レオンハルトは遠慮なくじろじろと眺め続ける。


「……フランツ、お前、ちゃんと、食べてるか」


 フランツは顔をしかめた。


「何ですか、藪から棒に」

「典医を呼べ」

「そのような」


 後ろに控える侍従に命じるレオンハルトに、フランツは抗議の声を上げる。


「いや、一度医者に診てもらえ。まあなに、それで大事なければ、それまでだ。……いや……?」


 そこで、レオンハルトの瞳が底光りした。


「典医はいらん。フランツ以外は皆、下がってくれ。半刻、人払いを」

「殿下、そのような」


 抗議の声を上げるのはフランツだけだ。いつもながらの気まぐれな主人の命令に、侍従たちは慣れた様子であっという間に退がっていく。春の明るい日差しのあふれる執務室には、レオンハルトとフランツだけが、残された。


「お前それ、体の問題じゃないな。それにしても、ほんとにひどい顔色してるぞ。……何だ、俺に言えない厄介事か。それとも、もしかして、俺の病気がうつったか。恋煩いか?」


 おそらく、主人なりに自分の心を和らげようとの配慮での、渾身の冗談だったのだろう。しかしフランツは思わず息をつめてしまった。


「……」

「おいまさか、……マジか⁉ ……お前が⁉ おいおい、相手は誰だ。まさかアイラだとか言うなよ」


 そこで再び渾身の冗談をかました後、フランツの顔色を見たレオンハルトの瞳が細まった。


「……『ザイダーンの姫』か」


 結局この人には、敵わないのだ。フランツは唇を噛む。


「何なんだ、一体。お前が彼女を袖にしたんだろ」


 さすがの情報網をお持ちです。フランツは何も言えずうつむく。

 しばらく黙った後、レオンハルトは、つかつかとフランツの前へ歩み寄り、跪いたままの彼の前にしゃがみこんだ。


「フランツ。まさかお前……」

「俺が殿下のお役に立つうちは、俺をおそばに、置いて下さい」


 顔を伏せたまま絞り出されたフランツの言葉に、レオンハルトは深く息をついた。


「……フランツ。俺たちの、はじめの日のこと、覚えてるか」


 忘れる、はずがない。あの日の記憶だけが、自分を生かしてきたのだから。フランツは唇をかむ。


「あの時のお前、ひどかったなあ。捨てられた子犬みたいな、目をしてた。……いや、逆だな。自分がこの世界を捨ててやる、そんな目だった。鎖を切った俺が、罪悪感を覚えるくらい、ただただ、この世からいなくなることを切望してる、そんな目だったな」


 レオンハルトの声は、あの日と同じく柔らく、フランツの胸に沁み込んでくる。


「あの時、俺はお前を、救いたかった。それは多分、お前じゃなくて、自分のためだった。自分が生きることを許すために、俺はお前の居場所になった。でもそれが、お前をずっと縛っても、来たんだな……」

「殿下は俺の全てです。俺は殿下に命を与えられ、人生を与えられました」

「……ある意味では、そうだな。でも、そうだとしてももう十分、恩は返してもらったよ」


 レオンハルトの手がのび、くしゃりと、あの日のように、フランツの髪をかき混ぜた。


「フランツ。今度は違うやり方で、俺を救ってくれないか。お前はもう、自分のために、自分がしたいように生きていいんだよ。いや、生きてくれ。……それが、俺の最後の、命令だ」


 あの日のように、レオンハルトの手が、ゆっくりとフランツの頭を撫でる。


 自分のしたいように、生きる。できるだろうか、それが自分に。

 フランツの心を見透かすように、レオンハルトはつぶやく。


「できるさ。お前、十分、煩悩だらけだろ。恋煩いでやせ細れるくらいには」


 二人はこらえきれず、噴き出した。

 春の強風が、執務室のガラスをがたりと揺らす。

 その音は何かの福音のように、二人の耳に届いた。




 芽吹きの季節の森は、いつでも美しい。お父様とお母様が突然いなくなって、お姉さまたちが涙をこらえて抱きしめてくれた、あの春も。どうして私だけがばかなんだろうと、何度も何度も考えたあの春も。先生と眺めた、夢のように幸せだった、去年の春も。そして、一人ぼっちで眺める、今年の春も。


 すん、と鼻を鳴らして、モルジアナは柔らかい色合いの春の青空を見上げる。


 そうなのだ。私が哀しかろうと嬉しかろうと、例えば死んでしまっても、森は変わらずそこにあり、春は必ず巡って来て、この美しい景色は変わらず、生まれては、消えていく。


 うん、とうなずくと、モルジアナは微笑む。


 今日は、都から新しい先生が、いらっしゃる日だ。素敵なひとだと、良いけれど。

 そろそろ屋敷に、戻らなければ。そう思うけれど、森の一角のベンチから、モルジアナはなかなか立ち上がれないでいた。


 サクサクと、雪を踏む足音が聞こえてくる。

 家の者が、待ちきれず迎えに来てくれたらしい。

 ぎゅうっと一度目をつぶり、口を引き結ぶ。そのまま両方の口角を上げて、笑顔の作り方を思い出す。


「……お館様」

 

 振り向く前にかけられた声は、でもモルジアナの必死に作った笑顔を簡単に崩す破壊力を持っていた。

 ぶわりと浮かぶ涙を、止められない。


「……モルジアナ?」


 懐かしいその声は、少し気づかわしげな響きを帯びる。

 長い冬の間、何度も何度も、何度も何度も思い出した、その響き。


「……先生」


 振り向いた、涙で歪んだ視界には、萌黄色と薄桃色の嵐と、そして、大好きな、薄茶色の、ふわふわの髪。

 モルジアナは、優しく広げられた両腕の中に飛び込んでいく。

 



***



 王宮文官フランツが、ひっそりとその職を辞した翌年の6月、ギズワルド皇国第2皇子レオンハルトは、盛大な結婚式を挙げた。彼の結婚相手が、ザイダーン家当主ではなくその筆頭侍女であったことは、皇国中に驚きを与えた。しかしやがて、その女性は皇国の政界や社交界の表裏でその辣腕を発揮し、影の女帝と畏れられることになる。


 『ザイダーンの姫』ことモルジアナ・ザイダーンは、結婚し第一子を出産したのち、表舞台に立つことは極端に少なくなった。しかし、ザイダーン家の固い経済基盤は揺るがず、その家はその後も長きにわたり、魔力と経済力を併せ持つ不可侵の一族として、皇国に名を轟かせ続けた。


 ザイダーン家が擁すると言われる、ラピスラズリの洞窟は、未だにその所在地も、到達方法も不明である。この世のどこかで、今でもその洞窟は、竜とその姫たちにより、守り続けられている。


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