6
「先生。本当に、お世話になりました。この家と、私を救ってくださったご恩、生涯、忘れません」
「いえ。あなたの教育をきちんと完遂できず、申し訳ないです。しかし、もう少し時間をかければ、おそらくあなたは姉上に近いところまで行ける。春には後任が参りますから、自信を持って、これからも励んでください」
「……本当に、今夜が、最後ですのね」
薄暗いサロンで向かい合い、モルジアナとフランツは、いつものようにバイオリンの調べに耳を傾けていた。
明日には、この家に、フランツの主人であるギズワルド皇国第2皇子、レオンハルトが到着する。それはすなわち、フランツの任務が終わる日だった。
「先生。本当は、こんなことを申し上げてはいけないことは、分かっています。でも……私は、先生を、お慕いしています」
あまりに不意打ちのモルジアナの言葉に、フランツの手元でカップががちゃりと音を立てた。
「いやその、……」
「よろしいのです。応えていただけるとは、思っておりません。先生が、都にお約束した方がいらっしゃることも、存じております。でも、今、お別れすれば、多分もう二度と、お会いすることはないでしょう。私が勝手に、どうしても先生に気持ちをお伝えしたかった、だけなのです」
「『お約束した人』……」
何か、誤解があるようにも思うが、そのままにしておいた方が良いのか、フランツは悩む。とにかく動悸があり得ないほど高まっていて、まともにものを考えられない。
「……先生。これを受け取っていただけますか」
そのとき、ふ、と微笑んでモルジアナが静かに差し出したのは、小指の先ほどの青い石だった。
「これは」
澄み切った湧き水の深淵のような深い青に、星のような斑が散った艶めく石。
「……ラピスラズリ」
「ええ」
モルジアナの翡翠色の瞳が細まる。
「とても、いただけません。私には、過分です」
この石ひとつで、どれだけの価値があるか。想像もつかないが、王宮文官の年収数十年分はくだらないであろうことは、想像がつく。
「ただの、石ですわ。きれいですけれど、それだけのもの。野に転がっていたとしても、何者を生かす力もない。そこに1000人の命を贖える麦の価値を見出すのは、人間の勝手な、都合です」
モルジアナの声は、不自然なほど淡々としていた。
「先生、私は、その石と同じですわ。……それでも、私は、……『ザイダーンの姫』は、ここで、生きて行かねばならない。だからせめて、私が、ひとときでも先生と共に在ったという証を、先生に、お持ちいただきたいのです」
「……それは、違います」
フランツの言葉に宿る常にない響きに、モルジアナの目が上がる。
「あなたは、何にも代えがたい、得難い人だ。そして俺にとって、この世の何よりも、大切な人です。あなたは俺を、血の通った人間にしてくれた。森の木々や鳥の声、移ろう季節、そんなものたちを愛しいと思う心を教えてくれた。ただ虚ろに生きていた俺に、人を愛する喜びも、痛みも、教えてくれた。俺も、セレンも、他の者達も、あなたと触れ合った人間はみな、あなたに救われているのです」
そっと、いつかのように、フランツの手がモルジアナのそれに重なる。
「愛しています、モルジアナ。今も、これからも。……どこにいようとも」
そっと、モルジアナの唇に、フランツのそれが重なった。
永遠にも思える一瞬の後、静かに離れたフランツは、切れるような瞳で微笑む。
「俺は、俺のいるべき場所に、……俺の主人の下に、戻ります。あなたは、どうか、……俺を忘れて、幸せに、なってください」
青い石をそっと握りしめ、フランツは静かに立ち上がる。
サロンの扉が音もなく閉まり、バイオリンの調べの続く部屋には、肩を震わせるモルジアナだけが、残された。
*
窓の外には深い闇が広がっている。フランツはジンのグラスを片手に、ろうそくの明かりに浮かび上がる、窓に映った自分の顔を眺める。
(ひどい顔だな)
ため息をつき、暖炉に目を移した。
踊る炎。
『寒くないかい』
あの日の、レオンハルトの声が蘇る。
『少しでも、食べるんだ。そうしないと、君はもうすぐ、死んでしまう』
ぼんやりと横たわる自分に、スプーンですくったスープを差し出しながら、天使のように美しい少年は言った。
『……このまま、死にたいのかい』
フランツはただぼんやりと、焦点の合わない目で、差し出されたスプーンを眺めていた。
自分は、孤児だった。ある日、薪を取りに森の中を歩いていて、突然目の前で、たった一人の妹が野獣に襲われた。自分は無我夢中で、妹にのしかかる野獣に掴みかかった。気がついた時には、野獣は血だらけになり、息絶えていた。あちこちに、嫌なにおいのするそいつの内臓が散らばっていた。
駆け付けて来た大人たちは、ぼんやりと立ち尽くすフランツを、有無を言わさず縛り上げた。そして、フランツは冷たく重い鎖でぐるぐる巻きにされ、石の塔に閉じ込められた。どれだけ叫んでも、誰も助けには来なかった。外から、まじない婆のつぶやく低い呪文だけが響き続ける。冷たい石の床に横たわり、その低く続く声を聞き続けながら、フランツは、自分がこの世の全てから拒絶され死んで行くことを、骨の髄から理解した。
次に目が覚めた時、目の前には、暖炉の炎が踊っていた。
ベッドと暖炉の間に座る美しい少年は、辛抱強く、フランツの前にスプーンを差し出し続ける。
反応のないフランツを見つめ、少年の瞳がもの思わし気に伏せられる。そして、彼はおもむろに上着を寛げた。
少年の胸の上には、鈍く光る細い鎖があった。彼は、青い輪を通して首から下げているその銀色の鎖を静かに外すと、かちゃりとベッドの上に置いた。
そして、じっとフランツの顔をのぞき込む。その美しいアイスブルーの瞳が輝きを帯び、フランツの視線を吸い寄せる。やがて彼が瞬くと、フランツと少年の間に、美しい薄青色の水の球が浮かんだ。
『フランツ。僕も、魔力持ちだ。父や兄に知られたら、おそらく、君と同じように繋がれて、くびり殺されるだろう』
少年が微笑むと、水球はすう、と立ち消えた。
かしゃり、と、銀の鎖を首からかけなおし、少年は、フランツの頭をくしゃりと撫でた。
『フランツ、お前には、僕の何十倍、いやそれ以上の力がある。多くの人が、望んでも得られない力だ。この国ではそれを悪いことのように扱うが、力そのものには善も悪もない。善悪を決めるのは、力を使う者だ。お前のその力を、この国の、僕のために使っておくれ。その方法をお前が得るために、僕は何でもする。……フランツ。僕のために、生きては、くれないか』
フランツの目尻から一筋、涙が伝い落ちた。それは後からあとから、とめどなくあふれ続けて、柔らかい枕を濡らしていく。
少年、レオンハルト皇子は微笑んで、か細い嗚咽をもらすフランツの頭を、いつまでも優しく撫で続ける。
暖かな部屋の暖炉では、絶えることのない炎が、ちろちろと楽し気に、踊り続けていた。




