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「先生。本当に、お世話になりました。この家と、私を救ってくださったご恩、生涯、忘れません」

「いえ。あなたの教育をきちんと完遂できず、申し訳ないです。しかし、もう少し時間をかければ、おそらくあなたは姉上に近いところまで行ける。春には後任が参りますから、自信を持って、これからも励んでください」

「……本当に、今夜が、最後ですのね」


 薄暗いサロンで向かい合い、モルジアナとフランツは、いつものようにバイオリンの調べに耳を傾けていた。

 明日には、この家に、フランツの主人であるギズワルド皇国第2皇子、レオンハルトが到着する。それはすなわち、フランツの任務が終わる日だった。

 

「先生。本当は、こんなことを申し上げてはいけないことは、分かっています。でも……私は、先生を、お慕いしています」


 あまりに不意打ちのモルジアナの言葉に、フランツの手元でカップががちゃりと音を立てた。


「いやその、……」

「よろしいのです。応えていただけるとは、思っておりません。先生が、都にお約束した方がいらっしゃることも、存じております。でも、今、お別れすれば、多分もう二度と、お会いすることはないでしょう。私が勝手に、どうしても先生に気持ちをお伝えしたかった、だけなのです」

「『お約束した人』……」


 何か、誤解があるようにも思うが、そのままにしておいた方が良いのか、フランツは悩む。とにかく動悸があり得ないほど高まっていて、まともにものを考えられない。


「……先生。これを受け取っていただけますか」


 そのとき、ふ、と微笑んでモルジアナが静かに差し出したのは、小指の先ほどの青い石だった。


「これは」


 澄み切った湧き水の深淵のような深い青に、星のような斑が散った艶めく石。


「……ラピスラズリ」

「ええ」

 モルジアナの翡翠色の瞳が細まる。

 

「とても、いただけません。私には、過分です」


 この石ひとつで、どれだけの価値があるか。想像もつかないが、王宮文官の年収数十年分はくだらないであろうことは、想像がつく。


「ただの、石ですわ。きれいですけれど、それだけのもの。野に転がっていたとしても、何者を生かす力もない。そこに1000人の命を贖える麦の価値を見出すのは、人間の勝手な、都合です」


 モルジアナの声は、不自然なほど淡々としていた。


「先生、私は、その石と同じですわ。……それでも、私は、……『ザイダーンの姫』は、ここで、生きて行かねばならない。だからせめて、私が、ひとときでも先生と共に在ったという証を、先生に、お持ちいただきたいのです」

「……それは、違います」


 フランツの言葉に宿る常にない響きに、モルジアナの目が上がる。


「あなたは、何にも代えがたい、得難い人だ。そして俺にとって、この世の何よりも、大切な人です。あなたは俺を、血の通った人間にしてくれた。森の木々や鳥の声、移ろう季節、そんなものたちを愛しいと思う心を教えてくれた。ただ虚ろに生きていた俺に、人を愛する喜びも、痛みも、教えてくれた。俺も、セレンも、他の者達も、あなたと触れ合った人間はみな、あなたに救われているのです」


 そっと、いつかのように、フランツの手がモルジアナのそれに重なる。


「愛しています、モルジアナ。今も、これからも。……どこにいようとも」


 そっと、モルジアナの唇に、フランツのそれが重なった。


 永遠にも思える一瞬の後、静かに離れたフランツは、切れるような瞳で微笑む。


「俺は、俺のいるべき場所に、……俺の主人の下に、戻ります。あなたは、どうか、……俺を忘れて、幸せに、なってください」


 青い石をそっと握りしめ、フランツは静かに立ち上がる。

 サロンの扉が音もなく閉まり、バイオリンの調べの続く部屋には、肩を震わせるモルジアナだけが、残された。




 窓の外には深い闇が広がっている。フランツはジンのグラスを片手に、ろうそくの明かりに浮かび上がる、窓に映った自分の顔を眺める。


(ひどい顔だな)


 ため息をつき、暖炉に目を移した。

 踊る炎。



『寒くないかい』


 あの日の、レオンハルトの声が蘇る。



『少しでも、食べるんだ。そうしないと、君はもうすぐ、死んでしまう』


 ぼんやりと横たわる自分に、スプーンですくったスープを差し出しながら、天使のように美しい少年は言った。


『……このまま、死にたいのかい』


 フランツはただぼんやりと、焦点の合わない目で、差し出されたスプーンを眺めていた。


 自分は、孤児だった。ある日、薪を取りに森の中を歩いていて、突然目の前で、たった一人の妹が野獣に襲われた。自分は無我夢中で、妹にのしかかる野獣に掴みかかった。気がついた時には、野獣は血だらけになり、息絶えていた。あちこちに、嫌なにおいのするそいつの内臓が散らばっていた。


 駆け付けて来た大人たちは、ぼんやりと立ち尽くすフランツを、有無を言わさず縛り上げた。そして、フランツは冷たく重い鎖でぐるぐる巻きにされ、石の塔に閉じ込められた。どれだけ叫んでも、誰も助けには来なかった。外から、まじない婆のつぶやく低い呪文だけが響き続ける。冷たい石の床に横たわり、その低く続く声を聞き続けながら、フランツは、自分がこの世の全てから拒絶され死んで行くことを、骨の髄から理解した。


 次に目が覚めた時、目の前には、暖炉の炎が踊っていた。

 ベッドと暖炉の間に座る美しい少年は、辛抱強く、フランツの前にスプーンを差し出し続ける。


 反応のないフランツを見つめ、少年の瞳がもの思わし気に伏せられる。そして、彼はおもむろに上着を寛げた。

 少年の胸の上には、鈍く光る細い鎖があった。彼は、青い輪を通して首から下げているその銀色の鎖を静かに外すと、かちゃりとベッドの上に置いた。

 そして、じっとフランツの顔をのぞき込む。その美しいアイスブルーの瞳が輝きを帯び、フランツの視線を吸い寄せる。やがて彼が瞬くと、フランツと少年の間に、美しい薄青色の水の球が浮かんだ。


『フランツ。僕も、魔力持ちだ。父や兄に知られたら、おそらく、君と同じように繋がれて、くびり殺されるだろう』


 少年が微笑むと、水球はすう、と立ち消えた。

 かしゃり、と、銀の鎖を首からかけなおし、少年は、フランツの頭をくしゃりと撫でた。

 

『フランツ、お前には、僕の何十倍、いやそれ以上の力がある。多くの人が、望んでも得られない力だ。この国ではそれを悪いことのように扱うが、力そのものには善も悪もない。善悪を決めるのは、力を使う者だ。お前のその力を、この国の、僕のために使っておくれ。その方法をお前が得るために、僕は何でもする。……フランツ。僕のために、生きては、くれないか』


 フランツの目尻から一筋、涙が伝い落ちた。それは後からあとから、とめどなくあふれ続けて、柔らかい枕を濡らしていく。

 少年、レオンハルト皇子は微笑んで、か細い嗚咽をもらすフランツの頭を、いつまでも優しく撫で続ける。


 暖かな部屋の暖炉では、絶えることのない炎が、ちろちろと楽し気に、踊り続けていた。


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