5
目を開けた時、そこはほとんど真の闇だった。
しかし背中や掌に触れる柔らかな感触が、自分がいる場所が地獄ではないことを教えている。
ここはおそらくいつもの部屋で、いつものベッドの中だった。
何度かまばたきをして、セレンは静かに息を吐く。
「気がついたか」
声と同時に、部屋の中がほの明るくなった。
ちらとも揺らがないその淡い光に、セレンは思わず顔をしかめる。
指先にともした光球をふわりと空中に浮かべ、痩躯の魔術師が彼女をのぞき込んだ。
「フランツ」
自分とは思えない掠れた声が出て、セレンは軽く咳き込んだ。
そっと背中に添えられた手が、セレンの上体を軽く起こし、口元にグラスが当てられる。セレンは夢中でその水を飲み干した。
それからほうっと息を吐き、一息に言う。
「……言い訳のしようもないけど、ごめん」
「何も言うな、分かってる」
優しく彼女を抱き込んだフランツの胸から、いつもの柔らかな声が響いてくる。
「大丈夫そうだな」
やがて身を離しセレンを座らせたフランツは、静かに微笑んだ。いつの間にかランプに火が入り、部屋は自然なゆらめく光で満たされていた。
セレンは自分の両手を眺め、握ったり、開いたりを繰り返す。それからばっと顔を上げた。
「姉さんは」
「大丈夫、大した怪我じゃない。すぐに治療魔法を入れたから、もう全快している」
「……そう」
セレンはほっと息をつき、目を落とした。
「あんた、ほんとにびっくりするぐらいの腕だね。相手が自分より強すぎると、相手の強さが分からないって聞いたことはあったけど、実感したのは、初めてだ」
「……いや、それは俺の属性のせいさ。土の属性は、秘匿が得意技だから……」
笑みを含んだフランツの声。
「土の属性、か。防御、探索、解毒……」
「そして平凡な容姿。……俺はギズワルド皇国第2皇子、レオンハルト殿下の子飼いの隠密だ」
フランツの声は淡々としていた。
「しかし今回の任務は、着任時には本当に単なる教育係のつもりだった。そんなつもりはなかったが、騙すような形になったことは、悪かった」
「……いつから、気付いてたの。あたしが、悪霊に幻惑されていたこと」
「んー……、はじめから、かな……」
気まずそうなフランツの言葉に、思わずセレンは彼を振り向く。
「いや、今回の任務の目的は、ザイダーン家の、アイラ・ローゼンバーグ依存からの脱却だったから。それが果たせたら、君たちには深入りしないで帰ろうと思っていた。そんな生易しい話じゃないと途中で気づいたが……」
どこからか私情が入って、判断が鈍った。フランツは苦笑いする。
「……しかしザイダーンの秘術ってのはほんとにヤバいな。毒関係は相当自信のある俺でも、あの酒を口に入れても何も気づかなかった。久しぶりに、マジで死んだかと思ったよ。あの二人が時間稼ぎをしてくれなければ、間違いなく君に仕留められてたな」
俺がこの家を去ると言えば、君と奴が何かしら動くだろうと踏んでのフェイクだったが、まさかいきなりあんな隠し道具が出てくるとは。フランツはつぶやく。
「……あの時、あんたに息があると分かったとして、手にかけたかは、分からない。あたしは、意識を完全に乗っ取られてたわけじゃなかった。あんたに無理矢理近づいたのは、あんたなら助けてくれるって、一番深いところに残ってたまともなあたしが、無意識に感じたからだと思う」
セレンはため息をつき、膝を抱えた。
「結局、ザイダーンの血の力だよね。あいつは私を、私の恐れを利用して動かすことはできても、最後まで、自分じゃザイダーンの人間に傷ひとつつけることはできなかった。ゆっくりゆっくりこの家を破滅に導く力を、実際に使っていたのは、全部、あたしだった……」
そこでセレンはふいに息をつめた。
「ねえ、モルジアナは、……大丈夫?」
「……どうだろうな」
フランツの声は苦い。
「封印が解けたことで開いた知覚や、高まった知能、魔力には、時間をかければ彼女は適応できるだろう。ただ、精神面に関しては、予想ができない」
「あんたにも、分からないの」
「いや、正直に言うと、……冷静に見極められない」
ふ、と彼の口から漏れたのは、自嘲の笑みだった。
「こんなのは生まれて、初めてだよ。……私情ってのは、つくづく、恐ろしいな」
*
「この曲、好きだわ」
モルジアナのつぶやきに、フランツは落としていた視線を上げた。
魔石から流れ出すバイオリンの調べが、薄暗いサロンに響いている。モルジアナとフランツは、向かい合ってソファに座り薬草茶を飲んでいた。
「さる国の皇子が、妻となる女性のために宮廷音楽家に書かせたソナタですね。彼女が愛していたという、庭の噴水のきらめきを、表現しているといいます」
窓の外には、とろりとした重みのある夏の宵が広がっている。
フランツは、日中はセレンや他の青少年の教育に時間を使い、夕食後をモルジアナと過ごすことが多くなっていた。
封印が解け、突然に上がった認知力、思考力をいきなり勉学に振り向けるのは、危険がある、と言うのがフランツの見立てだった。モルジアナが新しい刺激に慣れるまで、書物をもとにした勉学ではなく、音楽や美術をゆっくりと鑑賞しながら、少しずつそれに関する知識を与える。このやり方は、彼女に合っていたようで、モルジアナはスポンジのように、芸術に関する教養知識を吸収していた。
ピアノとバイオリンの旋律が絡み合い、キラキラとした水しぶきが跳ねまわる様子が目に浮かび、モルジアナは知らずに微笑みを浮かべる。
その瞳を、フランツの明るい茶色の瞳がのぞき込む。
そっと、フランツの手がモルジアナのそれに重なった。
キラキラとした水しぶきは伏せた視界の中でさらに激しく跳ね回り、モルジアナの頬を熱くする。
フランツは真剣な瞳で彼女に問いかける。
「怖くは、ないですか。苦しいところは」
「ふふ、……いいえ」
モルジアナは思わず笑い声を漏らした。
モルジアナの心が動いたと見てとる度に、彼は何度も何度も、同じ問いを繰り返す。まるで壊れかけの機械をメンテナンスする技術者みたい。モルジアナの胸は甘い疼きで満たされる。
「先生。そんなに、ご心配いただかなくても、大丈夫ですわ。それは、封印の解けた直後は、当時の嫌な気持ちを思い出しましたけれど、私はあの出来事のあと、姉たちや家の者達から、十分すぎるほど愛情を与えられてきました。多少のことでは揺らがない程度には、自分を愛することも、できていますわ。……多分」
フランツはまばたきをし、微笑んだ。それから心中でこっそりと唇を噛む。
(おそらく彼女ではなく、不安なのは、俺の方だな)
部屋には、きらめくバイオリンの旋律が響き続ける。