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夜陰に紛れてザイダーン家の裏口の扉を開けたフランツの前に、人影が立った。
「セレン」
「こんな夜更けに、どこに行こうっていうの」
「……都へ帰る」
「何だって」
瞬間、フランツはセレンと共に、洞窟まで運ばれていた。
差し出された青いグラスを押し戻しかけて、セレンの表情に、フランツは軽くため息をつく。
二人は黙って地面に座り、注ぎ分けたワインを含んだ。
「どうしてそんな突然に」
「詳しいことは、俺も知らされていない。とにかく、呼び戻された。モルジアナ嬢の教育も、君たちに対しての訓練も完遂することができず、すまない。必ず、後任を寄越す。女性に頼むようにするから、どうか受け入れてやってくれ」
「……どうしても、行くの」
「ああ」
青の洞窟に、セレンの静かなため息が落ちた。
「……ねえ、餞別に、とっておきを飲ませてあげる」
しばらくすると、沈んだ空気を打ち破るように、セレンが陽気な声を上げた。
「ザイダーン家秘伝の酒だよ」
青いワイングラスに注がれたその酒は、深い飴色をしていた。とろりとしたそれを一口含むと、馥郁とした香りが鼻を抜ける。
「……うまいな。相当熟成されているように感じる」
「その通り。材料は、秘密だよ」
同じく一口含んで息をつき、セレンは悪戯っぽく笑う。
それから、静かに目を落とした。
「……ねえ、フランツ。モルジアナは、いずれ、この家の血を絶やさないために子をなさなけりゃならない。あたしがどれだけあの子に寄って来る虫を払ったところで、あの子は無垢のままではいられない運命なんだ」
フランツの瞼が閉じられる。彼の、微かに寄った眉間の皺に、セレンは静かに問いかける。
「あんたがこのままこの家を去ったら、あの子は、あんたの知らないどこかの男に抱かれることになる。その時あの子が、その男を愛せているのかは、今は誰にも、分からない。あんたは、それで、構わないの」
フランツは、静かにグラスに口を付ける。
「そうだな。……この家を去る俺には、関わりのないことだ」
言い終えた瞬間、フランツの喉が焼けるように熱くなった。
「ぐっ……」
「フランツ。嘘をついたね」
喉をつかみ咳き込むフランツに向かい、セレンは寂しそうにつぶやいた。
「これは、ラピスラズリのグラスで飲んだ時、嘘をついたら、毒になる酒だ。あんたが自分やあたしたちに嘘をついてでも、どうしてもこの家を出て行くのなら、あたしは、その前にあんたを、消すしかない。……ごめんね。あんたに、話しすぎてしまった。あたしたちは、きょうだい以外の人間を信じたりしたら、いけなかったのにね……」
フランツは喉をつかんだまま、ずるりと横倒しになった。ひゅうひゅうと必死に繰り返される彼の呼吸が、次第に途切れがちになり、やがて途絶えるのを、セレンは表情のない瞳で見つめていた。
ぱりん。
その瞬間、洞窟内に響いた音に、セレンは顔をしかめる。
「結界が、破られた」
つぶやき、立ち上がる。しかし、彼女が足を踏み出す前に、結界への侵入者は彼女の前に現れた。
「セレン姉さん」
セレンの前に立ったモルジアナの、ふっくらとした薄紅色の唇が、震える声を吐き出す。
「フランツ先生に、何を、したの」
モルジアナの双眸は、セレンが初めて見る激情に染まっていた。美しい黄金色の巻き毛が、足元から吹き上げる風に巻き上げられる。全身を、薄青い炎が包んでいた。
(怒りの力で、モルジアナの封印が、解けかかっている)
セレンは唇を噛む。
ごそりと、セレンの隣の大きな影が身じろぎをする。その生き物とセレンからは黒い影が立ち昇り、洞窟の青い壁は闇色に覆われていく。
「……モルジアナ。見てしまったの」
「どうして、こんな恐ろしいことを」
「仕方、なかったんだ。洞窟とお前を、守るためだよ。この男は知りすぎた。この家の、お前の役に立たないのなら、ただの時限爆弾でしかない」
「そんな。……先生は、先生はっ……」
「……大丈夫だよ、モルジアナ。辛い気持ちなんて、すぐにあたしが、忘れさせてあげる」
セレンの双眸が光を帯び、モルジアナは一歩、後ずさる。
「セレン、あなたは間違っている」
その時、凛とした声が響いた。モルジアナの後方からゆっくりと歩み出てきたのは、アイラだった。
「この子の心はこの子のものよ。どれほど深い傷でも、辛い感情でも、それを外の者が歪めることは、許されないのよ」
「黙れ」
突然、セレンの声色が変わる。禍々しく冷たいその声は、地を這うように低く響いた。
「この子は私が、何をしてでも、守るんだ。痛い思いも辛い思いも、二度とさせない。邪魔をするなら、たとえ姉さんでも、許さない」
セレンの右腕が、不自然に震えながら持ち上がり、アイラへと向けられた。次の瞬間、その右手から伸びた黒い靄が、アイラの首に巻つきぎりぎりと締め上げる。
「うぐっ」
「セレン姉さん、やめて!」
モルジアナの身体から、青い炎が放たれる。しかしそれは、黒い靄に易々と絡め取られた。
もがいていたアイラの頭が、がくりと項垂れる。
「お願い、やめて――‼」
瞬間。
洞窟内に閃光が走った。
黒い靄は瞬時に掻き消える。解放されたアイラがふらりと地面にくずおれる、その直前に、ふいに現れた男の腕が彼女を抱きとめた。
「先生……」
アイラを横たえるとモルジアナを背に回し、セレンの前に立ちはだかったフランツは、荒い息を吐き、顎から汗を滴らせながら、ニヤリと笑った。
「セレン。さっきの酒は、さすがに効いたぜ」
「……どうして、生きて……」
呆然とつぶやくセレンを、フランツの琥珀色に底光りする瞳が見据える。
「今はそれより大事なことがあるだろ」
「お前も邪魔をするのか。この子に、竜の加護を与えることを」
フランツの琥珀色の瞳がゆっくりと動き、セレンの隣の影を捉えた。
「セレン。そいつは、竜じゃない」
セレンの隣から、ぶわりと黒い靄が広がった。それは先ほどの比ではない濃度と質量で、フランツへと襲い掛かる。
ざしゅり。
フランツが右手を横に払うと、黒い霧は両断され、セレンの隣の影が呻く。
フランツの全身から、橙色の陽炎が立ち昇っていた。放たれる凄まじい闘気は、洞窟の中の他の者すべてのそれを凌駕し、圧倒していた。
「分かるか、セレン。そいつは、悪霊だ。君は、力が欲しいという心の隙を突かれて、悪霊に惑わされ契約を結んだんだ。君が、自分の命を削ってずっと縛り付け痛めつけ続けていたのは、モルジアナを傷つけた男じゃない。ザイダーン家を、モルジアナを守る、竜なんだよ」
「そん、な」
『小癪な。セレン、この者の言葉に耳を貸すな。この者こそ、ザイダーンを脅かす悪霊だ』
影の声が、洞窟内に響き、セレンの瞳が戸惑いに揺れる。
「セレン。俺を信じろ。君が作った檻から、竜を開放するんだ」
フランツの左手には、いつの間にか、ラピスラズリのグラスがあった。
その中の飴色の液体を、彼はためらいもなく飲み下す。
「……!!」
瞬間、セレンの瞳が見開いた。その瑠璃色の左目が光ると同時に、モルジアナの背後に、巨大な光の塊が現れる。
そしてそこに現れた竜は、――全開の笑顔だった。
ご機嫌に尻尾を振り、固まっている面々を見回す。そのまま静かに開かれた口に、瞬く間にセレンと彼女の隣の影が吸い込まれる。
「セレン姉さん!」
悲鳴を上げるモルジアナを、フランツは背後から抱き止めた。
「大丈夫、竜はあなたの家の者を傷つけたりしません。そうでなければ、セレンはとっくの昔に殺されている。おそらく、彼女に深く食い込んだ悪霊の残滓を洗い流して、あなたのもとに、返してくれるでしょう」
それからフランツは、腕の中で震えるモルジアナを向き直らせ、彼女の顔をのぞき込んだ。
フランツの全身から放たれていた闘気は跡形もなく消え、モルジアナの目の前には、いつもの、地味で平凡な顔立ちの、ひょろりとした青年がいた。
柔らかく微笑むとひとつ息をつき、そっと、彼女の額に口づける。
「怪我がなくて、よかった」
「……先生こそ……」
モルジアナの目からあふれ出る涙を、フランツの指が静かに拭う。
ふいに、モルジアナの膝から力が抜ける。崩れ落ちそうになる彼女の身体をふわりと抱き上げると、フランツはささやいた。
「いきなり不慣れな力を使って、お疲れでしょう。……少し、お休みなさい」
彼女の美しい翡翠色の瞳がゆっくりと閉じられていくのを、フランツは黙って見つめていた。
やがて規則正しい寝息が聞こえだすと、彼はモルジアナを抱きかかえたままゆっくりと座り込む。目の前の地面に横たわるアイラの呼吸も静かに安定していることを確認し、深い息を吐いた。
「こっそり片を付けるつもりが、あろうことか、助けられてしまったな」
青い洞窟に最後にぽつりと響いた彼の苦いつぶやきを、聞き取る者はいなかった。