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「で、どうしてこうなるわけ」


 セレンの前には、積み上げられた書物と綴りものが山を成している。


「モルジアナ嬢にはどうしても遂行不可能な課題があることが分かった。彼女を補佐するために、外部の識者を直接この家の運営に関わらせることは、君が拒否した。そうとなれば、足りない部分は君に補ってもらうより他はない」


 にっこり。セレンにとっては悪魔の微笑みを浮かべて、フランツは彼女の前に書物を広げる。


「一般教養については、モルジアナ嬢は抜きんでてはいないが、まあごまかしがきく程度だ。当主としての人格的素質は問題はない。しかし、この家を運営していくには、それに加えて地理、歴史学的な知見、国内外の時事、経済と政治への深い理解、およびそれに基づく迅速かつ正確な判断が不可欠だ。……大丈夫、君の力は、()()()だよ。数人、知識を補う間接的な補佐を付けて、これからOJTを続ければ、何とかアイラ嬢の劣化版ぐらいまでは、いけるだろう」


 これが、あの時優しく自分の背中を叩いてくれていたのと同じ男なのだろうか。彼女の罪悪感を容赦なく利用し、この男は自分に、大嫌いな勉強を押し付けて来る。


「鬼。悪魔。これがやりたくないから、あたしは武術を極めたのに……」

「感心、感心。さあ、知の分野も、極めよう」

 まったく動じないフランツの笑顔に、セレンは舌打ちし、書物に手を伸ばした。




「先生。……どこか、お加減が、よろしくないのでは」


 モルジアナが課題に取り組む間に、ふ、と意識を飛ばしたフランツの顔を、美しい双眸がのぞき込んでいた。


「ああ、いや。……これは、かたじけない」


 一瞬の居眠りから引き戻され、フランツは瞬く。

 昼間は今まで通りのモルジアナの家庭教師、その後、夕食後から深夜まで、セレンとその他数人の、今後補佐役を務める候補の青少年への教育。

 ここひと月、フランツは数時間の睡眠のほかは、組み替えた教育プランの実行に没頭していた。


「いえ、……先生、とても疲れてらっしゃる。本当は、昼間に新しいお仕事をなさって、私を教えるのは、おやめになられるのが、一番なのでしょう」


 セレン達を教え始めたことは、やはり、ばれていた。いずれは知られてしまうとは思ったが、フランツは自分の体力のなさがうらめしい。

 フランツの顔をじっと見つめていたモルジアナは、ふいに唇を噛んでうつむいた。


「おやかた様」


 いつも屈託のない女当主の苦しげな表情に、具合でも悪いのかと、フランツは思わず声をかける。

 彼女はうつむいたまま、絞り出すように言葉をつづけた。


「わがままだと、わかっているんです。でも、先生に、教えていただけなくなるのは、……こうして、お話できなくなるのは、どうしても、嫌なんです」

「いや、お館様の教育係は、契約の一年間は、辞めるつもりはありませんよ」


 若干戸惑いながらフランツが答えると、しばらく黙ったモルジアナは、やがてゆっくりと顔を上げた。


「……ごめんなさい。私、おかしなことを」


 ふふ、と、微笑む表情は、輝くばかりに美しく、完璧なほどにいつも通りだった。


「先生、休憩しましょう。今は、とっておきの季節ですわ」

「とっておき?」




 残雪の森は、萌黄色と薄赤に染まっていた。若葉と黒々としたブナの幹、そして薄赤く染まった地上の雪の織りなす光景は、生命の燃え上がるような輝きと静謐をたたえフランツに迫って来る。


「これは……美しいな」

「雪の上に散らばっているのは、冬の間、ブナの芽を覆っていた固い殻です。芽吹きの季節になると、はじけて、こうして雪の上に、積もるんです。『雪紅葉』なんて、呼ばれることもあるんですよ」


 目を細めて森を眺めるモルジアナの黄金の巻き毛が、風に軽く舞い上がった。


「真冬の森も、怖いくらいに綺麗ですけれど、このほんのひと時だけ見られる森の姿、私は本当に、好きなんです」

「……俺はあなたに、美しいものを教えられてばかりだな」


 思わずつぶやいたフランツを、モルジアナが振り返る。


「先生の方が、たくさんのことを私に、教えてくださいますわ」

「そりゃあ、それが、仕事ですからね」


 笑みを含んだフランツの言葉に、しかしモルジアナはちらとも笑みを見せず、まっすぐに彼を見つめる。その双眸は、フランツに視線を逸らすことを許さなかった。


「お勉強のことでは、ありませんわ」

 

 まばたきもせず向けられ続ける、澄み切った、翡翠色の瞳。

 フランツの脳裏に、警告音が響く。


「……そろそろ、戻りましょうか」


 ようやっと絞り出した自分の声が平静に聞こえたことに、フランツは知らず息をついた。

 途端にモルジアナは瞬き、微笑んだ。呪縛を解かれたように急いで視線を外し、フランツは彼女に背を向けて歩き出す。自分に向けられる彼女のまなざしを、これ以上目に入れずに済むように。




「思ったんだけどさ、あんたがこの家に入って、モルジアナを補佐してくれれば、万事解決なんじゃない?」


 ジンの入ったグラスを片手に、ろうそくの光が青い壁に織りなす陰影をぼんやりと見つめていたフランツは、セレンの声に我に返り、微かに顔をしかめた。


 想定外のことが起こっている。

 昼間の新緑の森の出来事。今のセレンの言葉。

 任務の障害の予兆を察知した時に感じる、特有の嫌な感覚が湧き上がってくる。

 一番想定外なのは、その根本原因が何なのか、自分が見極められていないことだ。


「……それは、できない」

「どうして」

「契約の任期が切れれば、俺は都へ帰る。これは予定ではなく、決定事項だ」

「……どういうこと」


 あまりにきっぱりとしたフランツの声音に、セレンは鼻白む。


「俺の命は、レオンハルト殿下のものだ。俺は8歳で殿下に命を救われ、人生を与えられた。それは、決して裏切ることのできない、恩なんだ。殿下が俺をいらないとおっしゃるまで、俺は、あの人の許を離れない」


 フランツの瞳に宿る光は、セレンをも黙らせるものだった。


「……どうしてこう、うまくいかないのかな」


 やがてセレンはぽつりとつぶやく。


「両親が死んで、モルジアナがひどい目に遭わされたとき、あたしは、姉と妹を守る力を得るために、竜と契約を結んだ。あたしの死にざまは、魔力を使い果たした時、竜に食い殺されると、決まってる。そのことに、後悔なんかは、ないけどさ。あたしに残っている時間は、もう、そう多くはない。あの子を生涯支えてやることは、あたしには、できないんだよ。だからせめて、自分の命を支払って得た力で、人並みの幸せを、あの子にあげたいだけなのに」


 さらりと明かされた驚愕の事実に、フランツは、目を見開いてセレンを見つめる。


「あんたなら、信頼できる。この家に迎えるに足る男だと、思ったんだけどね」


 二人の間には、沈黙が落ちる。洞窟の中は、ひたすらに青い静謐で、満たされていく。




「……そうですか。セレンから、モルジアナの事故を、お聞きに」


 静かな声でつぶやくと、アイラは美しい黒い瞳を窓の外に向けた。

 春の空は、うららかに晴れあがっている。柔らかな色調のその青空を、アイラはしばらく黙って眺めていた。


「事故と、おっしゃるのですね」

「ええ。あの時のことを、私は折に触れて何度も……それこそ数限りなく、思い返してきました。あの時の私たちは、幼く未熟だった。私とセレンの力不足が、あのことを招いてしまったことは、間違いありません。でもあのころ、私たちは日々、自分たちのできる全力を尽くしていた。自分も、他者も、誰も責めるべきではない。それが、考えつくして私の至った結論です」


 アイラの穏やかに輝く瞳が、フランツへと戻る。


「それでも、あの出来事が私たちを歪めてしまったのは、間違いありません。セレンがあのように、外部の人間、特に男性がモルジアナに接触することを拒むのも、私が、モルジアナに甘くなり、きちんと徹底した教育を施せなかったのも、あの事故ゆえです。……そして、ラピスラズリの洞窟が私たちを拒むのも、全てはそこから、始まっているのです」

「洞窟が、あなた方を拒む……」

「ええ。ここ10数年来、ザイダーン家は新しいラピスラズリの原石を採掘することはできていません。今は私以外の人間は、誰も知らないことです。しかし近い将来、この事実はこの家の衰退を持って、否応なく世に明らかになるでしょう。そして、……この家は、いずれそう遠くない未来、絶えることになるでしょう」


「……どうしてそのような重大なことを、私などに」

 思わずつぶやいたフランツの言葉に、アイラは緩く微笑んだ。自分を見据える、底知れない静けさをたたえた瞳に、フランツはぞくりとする。


「先生が、今日ここへお運びになられた理由に、おそらく大きく関係があると思うからです。……お話を、お聞かせくださいますか」

 

 アイラの言葉に、フランツは静かに頭を下げた。



 フランツが扉の向こうへ姿を消すと、アイラは深く息をつき立ち上がる。窓際に歩み寄ると、もう一度、窓の外の春の青空を眺める。空に浮いた雲は、形を変えながら次々に目の前を流れて行った。


「風が、強そうだわ。嵐が来るかしら」

 ぽつりとつぶやく。


 あの雲のように、人も、ひとつところに形を変えずに留まることは、できないのだ。どれほど固く誓おうとも、どれほど強く願おうとも。それでも、そのはるか上で、青空は昔も今も変わらずそこにある。


『私たちは、お父様が守り切ったこのきれいな石たちを、決してあいつらの好きにはさせない』

 自分の幼い声が、耳に蘇る。洞窟に微かな残響を引く、今よりか細く、高く、それでも凛と張った声。


『これから私たちが大きくなっていくとき、必ずあいつらは、私たちを引き裂こうとたくらみをしてくるでしょう。でも私たちは、必ずお互いだけを、信じて生きて行きましょう』

 

 蘇る、つないだ柔らかなてのひらの感触。幼い妹たちと自分の誓いを、アイラは静かに思い返す。


 いつの間にか、空は黒い雲に覆われ、春の驟雨が窓を叩いていた。


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