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森の中はしんと静まり返っている。
ひたすらに広がる、白銀の世界。
雪原の表面は、降り注ぐ日の光に、宝石をちりばめたように、あちらこちらで虹色にチラチラと輝く。
梢は白い霧氷に覆われ、黒々とした木々の幹と、蒼天に映える白銀の枝のコントラストは、この世のものとは思えない美しさだ。
それは、雪の少ない地域で生まれ育ったフランツには、初めて見る圧倒的な風景だった。
吹雪の翌日の晴天の森。
朝方に突然言付けで呼び出され、一人で雪をかき分けながらたどり着いた森の一角で、フランツは知らず息をつく。
なぜだろう。美しすぎるものを見ると、胸の内がざわつく。
あまり覚えのないその感覚は、彼にとって居心地の良いものではない。
「きれいでしょう」
声と同時に、口に何かが押し込まれた。
白銀の世界に見惚れていたフランツは、驚きに目を瞬く。目の前には、美しい翡翠色の双眸がキラキラと輝いている。
「先生、美味しいですか」
「……ああ、はい。とても」
口に押し込まれた柔らかい飴状のそれは、フランツの舌の上で優しく溶け広がり、すっきりとした甘みを残す。
「楓の樹液を、煮詰めたキャンディです。作りたては、ここでしか味わえない、とっておきなんですよ」
ふわふわ、と踊るような足取りで彼の周りを跳びまわりながら、はしゃいだ声でモルジアナは言う。
足音を忍ばせて背後から近づいてきたのだろう。悪戯が成功した時のいつもの、無邪気な笑顔をしていた。
白い外套に、白いフード、白いブーツ。全身を白で覆っている。保護色のつもりなのだろうか。
(雪の妖精か、白うさぎ、ってところだな)
フランツは思わず、彼女の白いフードからこぼれ落ちふわふわと揺れる、黄金色の巻き毛を目で追う。
ふいに彼女が振り向いて声を上げて笑った。バラ色に染まった頬。およそ人間離れした美貌に似合わぬあどけない表情。
再び襲われる、胸のざわつき。
この女は、無防備すぎる。フランツは、我知らず、かすかに顔をしかめる。
*
「モルジアナは、多分一番、私たちの中で割を食ってる」
酒に関してはかなりの自信のあるフランツとほぼ変わらないペースで飲み進めながら、いつものように乱れのない声で、セレンはつぶやく。
フランツがザイダーン家に住み込んでから、3か月が経っていた。
数日に一回、セレンはふらりと現れて、フランツをこの場に連れてくる。3月のザイダーン領は真冬と変わらぬ白銀の世界に覆われ、夜の凍てつく寒さは僅かに緩みつつある程度だが、青の洞窟の中は不思議と温かい。年間通して、洞内はほとんど同じ温度らしい。
セレンもフランツも二人とも、どれだけ飲んでも醜態をさらすことはない。ただ、ほんの少し饒舌になり、ほんの少し、本音を出すだけだ。
モルジアナの教育の進捗状況は、はっきり言って、良くはない。しかしそれが、彼女の気構えや努力不足によるものではないことが、フランツの胸を重苦しくさせる。
「あの子に魔力とか、せめて竜の加護が与えられれば、良かったのに。見た目が異様にきれいなだけで、他の力は、あたしが、吸い取っちまった」
セレンの瞳は、洞窟の青を映して暗く光っている。
「それでなければ、ザイダーン家になんて、生まれなければ良かった。あの家の跡取り娘でさえなければ、あの子みたいな、心がきれいで聡すぎなくて、見た目が美しい子が、この世で一番幸せになれる、はずなのに」
フランツは黙って目を閉じ、首肯した。
モルジアナは、おそろしく清廉な女性だった。出自からか生まれつきか、物事をまっすぐ見られないフランツにとっては、まぶしすぎるほどに。
「私は、ばかだから……」
初めの授業で、彼女が最初に口にした言葉が、それだった。フランツは不愉快さが湧き上がるのを抑えることができなかった。逃げなのか、謙遜なのか、甘えなのか。いずれにしても、これから死ぬ気で知識教養を身につけようとする、名家の元服過ぎの当主の発言とは、思えなかった。
彼女のその言葉が、彼女にとっての単なる事実の表現であったことは、その後すぐに分かった。
こちらが苦しくなるくらいに、彼女の努力の成果は、出なかった。それでも彼女はいつでもひたむきで、何に対しても、誠実だった。
モルジアナの言葉には、飾りも嘘もない。だからなのか、彼女に褒められると、フランツは自分のまとまりにくい茶色のくせっ毛も悪くないと思うようになった。
彼女がおいしいという食べ物は、不思議とおいしく感じた。それまで、物をうまいと感じることなど、なかったというのに。
この3か月で、およそ自然になど興味のなかったフランツは、書物から目を上げて鳥の声に耳を澄まし、朝焼けや夕焼けの色に名前を探し、月と星の織りなすきらめきを眺め上げるようになった。
「あんたも、見事にモルジアナに、やられちゃったね」
ふふ、と青いグラスをカパリと空けながら、セレンは心底愉快そうに笑う。
「あの子はあたしに、生きる意味を与えてくれた。あの子が幸せでいてくれるために、あたしは自分を大事にする。魔力も、暴力も、竜の加護の力も、いつでも最大限に使えるように、しておくんだ」
若干危ない発言が混じっていたような気もするが、フランツにもセレンの想いは、よく理解できた。
手元のワインを一気に煽ると、フランツは覚悟を決めて、向き直る。
「……セレン」
彼の声の常にない緊張を感じ取ったのか、セレンは一度目を閉じてから振り向いた。
「モルジアナ嬢の、特異に偏った認知力の低さは、人為的なものだ。彼女は何かの力で、脳の能力を、制限されている。君はその理由を、知っているね。……教えてくれるか」
ふう、とセレンは息を吐いた。
「あんたが気づかないはずはないと、分かってた。でも、できれば言いたくなかったんだ、ごめんね」
セレンはグラスを置き、膝を抱え込む。
「モルジアナは、小さいころから、もちろん、それはそれはかわいい子だった。でもそれは、あの子にとっては幸せだけをもたらすものじゃ、なかったんだ。……あの子は、養育係として雇われていた男に、……痛めつけられていた。ほんの小さな、子供の頃に」
膝を抱え小さく縮こまったセレンは、全身を震わせていた。
「両親を亡くしたばかりのあたしたちは、すぐには気づくことが、できなかった。モルジアナは、一人で、我慢していたんだ。6歳のあの子が、一人で」
うう、と、セレンの喉から呻き声が漏れる。フランツは言葉もなく、その姿を見つめていた。
「しばらくして、気がついたのは、アイラだった。あたしたちは、……あたしは、もちろんザイダーン家の血の力を尽くして、その男を罰した。……今も、罰し続けてる」
顔を上げたセレンの眼には、昏い愉悦が光っていた。しかしその光は、すぐに掻き消える。
「でもそんなことは、モルジアナの負った傷の、何の癒しにもなりはしない。あたしは、あの子の忌まわしい記憶とそれに関連した知の力を、封印した。でも、幼いころの養育係としての、あの男のモルジアナに刻まれた刻印はあまりに深く広かった。……あの子は、あたしの封印によって、本来の知の力の、半分以上を制限されてる。アイラは、それを知らない」
セレンの顔が、フランツに向けられる。その涙にくれた頬を、言葉もなくフランツはただ見つめる。
「あの子は、あんなに美しくて、かわいくて、清らかな子なのに。あたしたちが、何があっても、守らなけりゃいけない子だったのに。あたしたちが、あたしが、あの子を、壊してしまった」
セレンの呻き声のような嗚咽に耳を打たれながら、フランツは、洞窟の壁を見つめていた。
告げられた言葉の衝撃に、視界の中で、紺碧の洞窟が真っ黒に染まっている。
洞窟の中で見えるはずもない月の光を求めて思わず上を仰ぎ、それからふう、とひとつ、大きく息をつく。
「ま、そんなこともあるわな」
彼の声に、セレンは伏せていた顔を上げる。
「どっかしら壊れてる人間なんて、そこら中にいるよな。俺もある意味、ぶっ壊れてるし。みんなさ、壊れたら壊れた道具を使って、それなりに生きてくしか、ないんだよな。……まあでも、君は彼女を救いこそすれ、ぶっ壊したってのは、違うだろ、とは思うけど」
ぽん、と、フランツの骨ばった手がセレンの背を叩く。
「話してくれて、ありがとう。それならそれで、作戦、立て直さなきゃだな」
うまく笑えているか、自信はなかったが、フランツはとりあえず、せいいっぱいニヤリとしてみせ言葉を終える。
肩にとんと、衝撃があった。目をやると、セレンが頭をもたせかけている。
「ごめん、ちょっとだけ、肩貸して……」
食いしばった口から洩れる彼女の震える声に、フランツは思わず彼女の頭を抱き込む。
ポンポン、とあやすようにその背を叩きながら、フランツは唇をかむ。自分がザイダーン家を去るまで、あと、半年。俺は、俺の力で、できることをする。
二人の周りには、ひたすらの青の世界が広がり、洞窟の中には、彼女の微かな嗚咽だけが、響いていた。