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 ひた、と冷たい感触が男の首元を捕らえる。


「選べ」


 背後の冷え切った声に、男ははく、と口を動かした。

 男の利き手を背中でねじりあげ、喉元に短刀を突き付けたまま、背後の声は言葉を続ける。


「指か、耳か。落とすなら、どちらだ」


 喉元の短剣の力がわずかに強まり、やいばの触れている肌には赤い筋が走る。


「ひ」


 そこで、二人の目の前で呆然と立ち尽くしていた女性が、我に返ったように、男の背後に声をかけた。


「セ、セレン姉さん、待って。その人は、私の、先生になる人なの。何も、悪いことしてないよ。は、放してあげて……」


 男の首に刃を当てたまま、セレンは、オロオロとこちらを見つめている妹の顔を眺める。


「しただろう、モルジアナ。お前に、触ろうとした」

「そ、それは。虫を取ってくれようと、しただけで……」

「虫?」

「うん。肩に虫が、付いてるって……」


 セレンが目を眇めて妹の肩を見ると、そこに小指の先ほどの黒い甲虫が止まっているのが見えた。


 瞬間、男はぽいと放り出される。


「人目のないところで、誤解されるような真似をするな」


 吐き捨てられた言葉に、へたりこんだ男は息も絶え絶えにつぶやく。


「いや、マジでやべーだろ、この仕事。勘弁、してくれよ。……帰りてえ……」

「……なんだって?」

「イヤ、独り言っす」


 次の瞬間には、セレンの姿は掻き消え、森の小道には、へたり込んだ男と、呆然と立ち尽くすモルジアナの二人だけが、残されていた。




「ほんっとうに、ごめんなさい」

「いやもうそれは」


 深々と頭を下げる黒髪の美女に、首に包帯を巻いた男、フランツは両掌を向ける。

 彼の前で謝罪の言葉を繰り返しているのは、アイラ・ローゼンバーグ。フランツが家庭教師として雇われた富豪、ザイダーン家の運営を取り仕切っている、切れ者の筆頭侍女だ。そして、ザイダーン家の秘匿された長女でもある。


「セレンは、本当にもう……。事前に話しておくつもりだったのだけれど、あなたの到着が思ったよりもお早くて。……よくよく、叱っておきましたから」

「いや、叱るとか、逆に、しないでいただけるとありがたいのですが……」


 フランツは苦笑いする。これ以上、あの神出鬼没の女隠密に、睨まれたくはない。

先ほど自分が()()()()かけた相手は、セレン・ザイダーン。ザイダーン家の次女で、今、自分の前にいるアイラの妹に当たる。


 フランツは、アイラとセレンの妹、3女のモルジアナの家庭教師として、ここザイダーン家に雇われ、本日、着任のためにこの家に到着した。

 到着早々、はしゃいだ様子のモルジアナ嬢に、森を案内する、と連れていかれたのは良かったのだが、森の小道で話をしながら彼女の肩に手を伸ばした途端、()()()()かける、という結果となった。


 この家、ザイダーン家が抱える複雑な事情は、ある程度は把握していた。しかし、これは想像以上に厄介だ。

 フランツは、首に巻かれた包帯にそっと触れながら、前途の多難さを思いあらためて深いため息をつく。




 事の始まりは、ひと月ほど前のことだった。


「フランツ、君、一年ほど、遊学する気はない」


 いつもの朗らかな声音で、執務室にフランツを呼びつけた彼の主人、ギズワルド皇国第2皇子レオンハルトはのたまった。


(嫌な予感しかしない)


 頭を下げたまま、フランツは渋面になるのを何とかこらえる。

 この人使いの荒い主人が、何の裏もなくこんな提案をしてくるとは思えない。いったい何をやらされるのか、他国での隠密活動、あるいは国内の有力貴族の内偵……面倒な仕事の想像が頭を駆け巡る。

 しかし、次に吐き出された主人のセリフは、予想外のものだった。


「ザイダーン家から、たっての頼みが来てね。『ザイダーンの姫』モルジアナ・ザイダーン嬢を、1年で一人前の当主に、育て上げてほしい」

「はあ?」


 フランツは礼儀を忘れ、顔を上げ主人に思い切りのしかめ面を見せる。


「俺に、名家のお嬢様の教育係なんて、務まるはずがないでしょう。俺が、家庭教育を受けたこともない、孤児院出の文官だってことは、殿下が一番良くご存じでしょうが」


 ザイダーン家とは浅からぬ縁がある、というかその家の筆頭侍女のアイラ・ローゼンバーグを10年間想い続け、ついこの前やっと両想いになったレオンハルト皇子の、私情による無茶振りかと思いそう答えたのだが、返って来た言葉は、意外にも説得力のあるものだった。


「いや……あそこの家の内部事情を知っている人間は、限られている。国外はおろか、国内の主だった貴族にも、万が一にもあの家の弱みを握られ、乗っ取られでもしたら、国の損失になりかねん」



 ザイダーン家は、皇国の東の果て、国境付近に私領を持つ歴史ある名家であり、その神秘性と財力から、皇国中に名を轟かせている。その財力を支える、秘宝ラピスラズリの鉱脈は、ザイダーン家の血を受け継ぐ者のみを守護する竜により固く守られているとされ、一族以外の者にはその在処ありかすら知られていない。


 外からは窺い知れない恐ろしい力を持つその家は、しかし今、ある事情を抱えている。若き現当主、モルジアナ・ザイダーンは、対外的には、叡智と武の力、絶世の美を誇り、女性でありながら特例として家督継承を認められた、『ザイダーンの姫』と称えられる傑物である――とされている。しかしその実は、秘匿された異母姉二人に知力と武の力を補われている、いわば、傀儡なのだ。


 この事実が皇国中枢部に知られれば、宗主国を欺き家督継承を認めさせたとして、ザイダーン家は取り潰しを免れない。周辺国や近隣貴族に知られたとしても、家内部への何らかの干渉や、下手をすれば乗っ取りの機会を与えかねない、爆弾である。

 この事情を知るものは、ザイダーン家内部の者を除いては、皇国内でも数人しかいない。不幸にも、フランツはその数少ない人間の一人だった。



「次の秋、俺が再度ザイダーン家を訪問する時期をめどに、アイラがあの家を出てもあの家が成り立つか、見極める。俺はアイラを手に入れたいが、あの家が彼女を手放せないなら、無理を通すことはできない。……お前の手腕に、俺の人生を、賭けさせてもらう」


 主人の瞳には、自分への確たる信頼が浮かんでいる。その無駄に美しい瞳を見返しながら、フランツはため息をついた。


 レオンハルト皇子の、アイラ・ローゼンバーグに対する想い入れは、フランツの想像を絶するものだ。彼が彼女を手放すということは、おそらく彼の精神のある部分の、死を意味する。


(全く、この人は。しれっと重いものを背負わせにくるな)


 それから、吐き出した息を吸い込み、腹を決める。


「……分かりました。微力ながら、力を尽くします」

「そう言ってくれると思った」


 主人の声が一気に明るくなる。


「ただし」

 フランツはニヤリとした。


「俺のやり方で、やらせてもらいますよ。確認ですが、次の秋までに、とにかくアイラ・ローゼンバーグがあの家を出られる状態に、持っていけば良いということですね」


 フランツの底光りする瞳を見返して、レオンハルト皇子もニヤリとうなずいた。




 到着早々に首の皮を切り裂かれた日の夜、かすかな物音に与えられた私室のドアを開けたフランツは、そこにこの地方の有名な地酒の瓶が置かれているのを目にし、思わずふふ、と、笑ってしまった。


(おわびのしるし、ってか。ごんぎつねかよ)


 薄暗い廊下はしんと、静まり返っている。


「いるんだろ、出て来いよ。一緒に、飲もうぜ。この酒のうまい飲み方、教えてくれよ」


 ふわりと、暗闇に人影が浮き上がる。

 いくぶんバツの悪そうな顔で、「女隠密」セレンが立っていた。


「外に出るか」


 男の部屋に入るのは、嫌かもしれない。昼間の彼女の異様な潔癖さを思い出し、気を回したフランツの言葉に、セレンは軽くうなずく。


 次の瞬間、フランツはふわりと何かに包まれた。直後に感じた違和感に思わずあたりを見回すと、彼はセレンと一緒に、月明かりの夜空を飛んでいた。

 二人を優しくつかんで羽ばたいている、異様に大きな影。


「ちょ……っと待て。こいつは、何だ」

 あまりの事態に混乱しながら、フランツはようやっとセレンに問いかける。


「何って、竜だけど」

 こともなげに答える彼女に、本当にとんでもないところに来てしまった、と、フランツは改めて戦慄する。


「あんたとは、気が合いそうだ。酒を飲むのに一番いいところに、連れて行く」

 ひどく機嫌の良さそうな声で、セレンは言う。


 そうしてフランツは、望んでもいないのに、到着初日の夜から、ザイダーン家の秘密の最奥部に連れ込まれたのだった。



 そこには、見渡す限りに青が広がっていた。

 幼少時より、あまり物事に感動した覚えのないフランツでさえ、ぞくぞくと背筋におぞけが走るのを抑えられない、それは圧倒的な光景だった。


「これが、ラピスラズリの洞窟。ザイダーンの血を引くものに案内されなければ、絶対に入れない、秘密の場所だよ」


 酒瓶を片手に無造作に地面に座りながらセレンは言い、青いワイングラスを差し出す。


「ラピスラズリでできた、グラスだよ。この世で一番おいしく酒が飲める」


 いや、このグラス一脚で、国ひとつ買えるだろ。

 フランツの頬がひくつく。


「ようこそ、ザイダーン家へ。……姉と妹をよろしく」

 片方が黒、片方が瑠璃色の瞳をきらめかせ、ザイダーン家の次女はにやりと笑った。


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