2 冒険者オクラ・シライシ①
世は「魔法」の時代。魔法が人間の能力として当然になった世界。
片手一本で火をおこし水を作り風を操るようなことが、逆立ちで二秒もつのと大体同じ難度であるとされたこの現代には、しかしその自由度の高い能力とは裏腹に大きな困難がちらつくようになっていた。
それが「魔物」の存在。人間と同じく魔法を行使し、人を様々な形で餌とする獰猛な化け物の総称である。目的がある訳でもなくただ殺意に従って虐殺を繰り返すもの、溢れる食欲に抗えずひたすらに人の肉を食らうもの、子孫を残すことのみに執着し、女を攫い陵辱するもの。
特徴は個体によって様々だが、一定の強力な感情や欲の赴くままに動くという意味で、一部では「暴欲」「暴情」「本能の獣」なんて呼ばれ方もしていた。
そんな魔物に脅かされる世界では、当然それに対抗できる人材が重宝された。
魔物を討伐することを中心とした住民からの様々な依頼を解決する「冒険者」という職である。「ギルド」という民間組織が運営する冒険者は、街の「何でも屋」的存在として通っていた。
時に翼竜と死闘を繰り広げ、時に地下迷宮を探索し、時に人探しなどをして、時には引越しの手伝いだってする、それが冒険者。依頼人の頼み次第では仕事の内容など無限大なのだ。
冒険者事業の先駆けとなったのは、ジポーネ王国という大国だった。なんでも遥か古代に魔法技術の礎を築いた国家とのことだが、なに、もう数万年も前の話で尾ひれの千個も付いていておかしくない話だ。
ジポーネ王国では、冒険者について序列を取り入れ、業務の効率化を図っていた。
階級は色で分けられ、下から黒、白、黄、赤、青、頂点に紫と並ぶ。この六色についても数万年前のジポーネ王国で扱われていた階級制度を倣っているとのことだが、無論確かめようがない古すぎる歴史だという。
六つに分けられた等級だったが、中でも最上級である紫等級の冒険者は、仕事の難易度も得られる対価も他とはわけが違うのだ。
紫等級に昇級した冒険者は、民間組織の一員ながらも「国宝」と称され、王国から手厚い支援を受けることとなる。王都内の豪邸での贅沢な暮らしが約束され、ディナーを迎える度にステーキの特別感が薄れていくだなんて話だ。また、仕事を重ねる度に民衆からの「勇者」「英雄」「王国の誇り」との声が強くなり、自分に向けられる尊敬や憧憬が大きくなるという名誉もある。
その待遇も至極当然なもので、何せ現ジポーネ王国では、一年に一度国内三つの地区で行われる冒険者昇級試験において、青等級から紫等級への昇級は一地区につき四人にしか認めていなかった。
紫等級冒険者というのは、非常に希少な存在として優遇されているのである。
して、今日行われる紫等級昇級試験でアカネが狙うのは、そのたった四席のうちの一つなのである。
厳し過ぎる選考に、しかしアカネは確たる自信と意気込みを持って試験会場に向かうところだった。
その情熱の出処は、家族の未来がかかっているという責任感と緊張、そして自分がこれまで積み重ねてきたものへの絶対的な信頼。
ずっしりと重い義務感を威風堂々たる態度に乗せ、アカネは右脚を一歩踏み出す。ろくに整備されていない田舎道の雑草を踏みしめ、彼女は王都より先に、まず隣人の宅を訪ねた。
隣人とはいえ、そもそも住宅が集中しているわけでもないこの地域ではその家まで数分の徒歩を要する。草木をかき分け、蜘蛛の巣を割り、辿り着いたのは自宅と全く同じような造りのログハウス。
道には雑草が荒く踊り、住宅はそれぞれが独立。チバタマというこの地域を、果たして村と呼んでいいものかどうかも怪しいところだ。
目的地を視界に捕らえたアカネは、ひとつため息を零しながらそれに接近する。
「お願いですから、今日は起きていてくださいよ…」
愚痴を垂れながら引きずった左脚。
突然、それは何かに躓き、アカネの身体のバランスを崩した。
「わわっ!?」
悲鳴を上げながら豪快にすっ転ぶアカネ。器用にも受け身を取ってスカート越しに尻もちを着く。
アカネは突然のことに目を丸くしつつも、障害物の正体を確かめるべく後ろを振り返った。
「………………」
──そこにあったのは、うつ伏せになって倒れる男の身体。ぴくりとも動かないそれに、アカネも同調するように暫し黙り込んでいた。
「………し、死んでr──」
ぱたん、と死体が寝返りを打つ。仰向けになった男は、固い地面の上で気持ち良さそうに寝息を立てていた。
「………オクラ君、なんでこんな所で寝てるんですか」
そう、彼こそがアカネの目的の相手、「お隣のねぼすけ」ことオクラ・シライシ。そこに見えている家に住むアカネの幼馴染であり、また同業者。
彼を叩き起こして引っ張り出して、引きずりながらギルドに出勤するのがアカネの日課なのだが、どうやら今日のこの状況に関しては、八年連れ添った彼女でも経験したことがないイレギュラーだったようだ。
アカネは両脚を揃えてしゃがみ込んだ状態になり、ウサギ跳びの要領でオクラに近寄る。
尚も規則的な呼吸を繰り返す少年に、アカネはその身体を擦りながら呼びかけた。
「オクラ君、起きてください」
「もう食べられないつってんだろ!」
「寝言激しっ!」
外で倒れているのは初めてだったにしろ、一度目を閉じると一向に起きないのは昨日も今日も一緒らしい。
いつも通りの呆れに加え、よくもこんな汚い地面を枕にできるものだと半ば皮肉のような感心を抱きながら、アカネは魔法の杖を手に立ち上がった。
「仕方ないですね…」
横たわる一体を見下ろし、杖を掲げる。アカネはふっと力を抜きながら、滝の落下、川のせせらぎ、あるいは桶からコップに注ぐ水を鮮明にイメージした。
(…《流水》)
するとまもなく、杖の先端、サファイヤ色に輝く魔石がぼんやりと深い青を強める。それに伴い、何も無かった空間から茶碗半杯分かそのくらいの、一筋の冷水が流れ出た。
目標より一メートル高い位置から放たれた水の魔法は、オクラの寝耳に一直線。弾けた雫が、その穏やかな寝顔と頭に敷いた蒲公英の草を濡らす。
「あぁんっ!」
「気持ち悪い声を出さないでください」
ふざけた悲鳴と冷酷なツッコミが、本日の二人の初めての会話だった。
「おはようございます。オクラ君」
「ああ、おはよう。アカネちゃん」
上体を起こしたオクラは、頭を払い背中を払ってもらいながら、幼馴染の見慣れた顔と聞き慣れた声に向かって起き抜けの笑顔を見せる。
朝日に照らされて煌めく耳に掛かった黒髪、きめ細やかな肌に乗る柔和な目元。
欠伸をしても崩れない程の穏やかな顔立ちの美少年だが、長くともにいたアカネにとってはただ情けないだけの顔つきだ。
大きく伸びをする、ふりをしてアカネのスカートの裾を摘むオクラ。しかしアカネはいつも通りのことだとして、慣れた手つきで痴漢の手を叩き落とした。
「どうしてこんな所で寝てたんですか?」
説教するような尋ね方に対し、オクラは不満そうな表情をひとつ浮かべながら立ち上がる。
「昇級試験の日だからって早起きしたところまでは良かったんだけど」
「私を待っている間に寝てしまったと」
「アカネちゃんを迎えに行こうと歩き始めたところで寝ちゃってさ」
座りながら、百歩譲っても立ちながらならまだしも、歩きながら睡魔に負けて膝を着くような人間は未だ見たことがない。魔物を差す「暴欲」の名はもしやこの男にふさわしいのではないかと、アカネは目を細めた。
「まあ、試験にやる気が向いているだけでも、オクラ君にしては幾らかマシですかね」
「アカネちゃん甘ーい」
「去年と一昨年は、無気力試合だったんでしょう?」
睨み付けるアカネに、しかしオクラは上機嫌な笑顔をそのままに頷いた。