レディ・メイカー
ミスタ・ドノヴァンが子爵邸の執事に就任したのは、わたしがまだ十を過ぎたばかりの頃でした。
その時彼は三十五歳だったでしょうか。
「本日よりこちらでお世話になります、レディ」
いつも通り夕食の席に駆け込んでいくと、大男がそう声をかけてきました。
髪は黒でぴっちり整えられていました。やや垂れ目の瞳の色は灰色で、鼻はそう高くもありませんでしたがまっすぐで、眉がくっきりとしていました。
彼は父や母、兄や姉にするのと全く同様に、その高い背をくっと優雅に折り曲げ、低い声で丁寧な挨拶をしてくれました。
腫れ物扱いされていた、わたしにまで。
この頃のわたしは、とても我が儘な子どもでした。
気に入らないことがある度に大騒ぎして、嫌なことから全部逃避していたのです。
子爵領は誇れるほど贅沢な暮らしをしているわけではありませんでしたが、農業を中心に経営は安定しており、暮らしに困ることもよそで恥をかくこともない、そんな所でした。
上に姉と兄が一人ずつ。
二人は何の心配もなくすくすくと健康に育ちましたが、末のわたしは――特に幼い頃は、始終ベッドの中にいました。
家族は体が弱いのだからと優しくしてくれました。
けれど我が家の余裕こそが、なおさらわたしをみじめな気持ちにさせたのです。
健やかで品行方正なる優等生達は、妹に大きな劣等感をもたらしました。
いっそ捨てられたのなら、恨むこともできました。
けれど周りが正しければ、わたし一人が間違えているような心持ちで。
幼いわたしには、とにかく何もかもが思い通りに行かず、気に障るように感じました。
ミスタ・ドノヴァンは、わたしを頭ごなしに怒鳴りつけるようなことはけしてありませんでした。
けれど他の大人達と全く違っていたのは、けして甘やかすことも、それでいて無視することもなかったことです。
彼はまず、わたしが限界まで暴れるのを待ちました。噛みつこうが引っ掻こうが、じっと堪えます。
そして疲れ切った頃合いに、膝をつき、目の高さをそろえてから、低い声でゆっくりと喋るのです。
「レディ。よい女は微笑みで人を動かします」
怒る力の抜けきったわたしは鼻をすすり、彼はそれをハンカチで拭うのでした。
その後、わたしが割ったコップを、わたし自身に片付けさせました。
「レディ。あなたが正しいのであればなおさら、暴力で解決してはなりません」
正直な話をしましょう。
わたしはミスタ・ドノヴァンを、苦手に思っていました。
だって言うことを聞いてくれないし、難しいことを言うし、考えさせようとするのですもの。
けれど他の大人達と、何かが違うのです。一体、何が?
わたしは彼を監視することにしました。
彼はけしてずっと笑っている人ではありませんでした。
一方で、怒ったところや泣くところを見たことがありません。
「どうしてわたしのように、物を投げたり、泣きわめいたりしないの?」
「その必要がないことを知っているからです」
「ふうん……」
問いかければ、本当に忙しいとき以外はすぐ答えてくれましたし、「後で」と言うと必ず律儀に後で約束を果たすのです。
全く変な男でした。だのにわたしは、気づけば誰よりも彼の後ろをついて回っているのです。
そのうち彼が空き時間、よく本を読んでいることに気がつきました。他の使用人達とは違う趣味でした。
わたしも彼の謎を探るべきだと考えました。
家中探し回って、どうにか比較的児童向けの、物語本を選びました。
すぐ気が散ってしまうわたしが、長い時間文字を追いかけるのは苦痛でした。
しかもそうして必死になっても、頭に残らないものですからまた最初からやり直しになるのです。
けれど負けたくない想いがページをめくらせました。
何度も挫折しかけ、時に戻って読み直す必要があったため、最後までたどり着くのに三月かかりました。
その分、達成感は素晴らしいものでした。
わたしは本を閉じると、真っ先に彼の所に走って行きました。
「読んだわ! わたし、本を読んだわ! ちゃんと最後まで!」
その時彼は驚くように目を見張り、そして大きく顔を破顔させました。
「素晴らしいです、レディ。あなたはご自分の世界を一歩踏み出しました」
そうしてミスタ・ドノヴァンは、気に入らない大人から、気になる大人に変わりました。
彼は乳母よりも家庭教師よりも両親よりも、わたしの教育者でした。
彼がわたしをレディと呼ぶのにならい、わたしは彼のことをミスタと呼ぶことにしました。
家にも世の中にもミスタは大勢いるでしょうが、わたしがただミスタと言ったらたった一人のことを示したのです。
「ミスタはうちに来る前、従僕だったの?」
「はい」
「最初は農民だったって本当?」
「はい」
「でもわたしの知っている農民とは随分違うわ」
「と、申しますと?」
「ミスタはずっと上品で物知りで奥ゆかしいもの。本を読んでいるからかしら?」
ミスタ・ドノヴァンはわたしと話すとき、必ずその高い背をかがめ、同じ目線に合わせます。
彼の灰色の目にのぞきこまれると、無性にそわそわ落ち着かない気持ちになりました。
「生まれで、変えられないこともございます。しかし、人の生きる時間は長い。どうあり続けるかを日々意識すれば、変化することも可能です。――つまりは私が、このようにありたいと望んだので。今の私が続けられているということです、レディ」
「ふうん……」
ミスタの話はしばし難解で、そういう時は適当に相づちを打って流しました。
思えばわたしは、ミスタが答えてくれるのなら何でもよかったのです。
それだけで嬉しかった。
ミスタ・ドノヴァンの誠実さと高潔さは、わたし一人に向けられる物ではありませんでした。
階下の人間は皆、甘やかさず、けれど叱らず、真面目な彼を慕っていました。
わたしの家族も、一目置いていました。わたしの癇癪への扱いを任せていたことにも、信頼の具合がうかがえます。
そういうことを、面白くなく感じる時もありました。
何しろ彼は執事なので、家のあらゆる面倒を見る必要がありました。
もっとわたし一人に構ってくれればいいのに。
しかし、一冊の本を読み終えた淑女は理解できるようになっていました。
ただ駄々をこねるだけでは、真に望む物は得られない。
わたしは外に出られない間、本を友にすることを覚えました。
そこにはわたしの知らないたくさんの世界があり、時に不愉快でしたが、これがミスタの見ている世界なのだと思うと、逃げ出したくなる心を抑えることができました。
ミスタの話を少しでも理解できるよう、勉強にも少し前向きになりました。
ミスタの後を少しでも追いかけられるよう、きちんと食べるようにしました。
ミスタの優雅な動きと並んでも滑稽でないよう、歩き方もお辞儀の仕方も練習しました。
体によって心が変わることはありますが、その逆もまた然り、なのでしょうか。
わたしが少し前向きになった辺りから、小さいままだった背は少しずつ伸び、遅かった足取りは兄姉に追いついていきました。
そうして社交界に出る頃には、年の割にやせっぽちで子どもっぽい少女ではなく、同じ年齢の子達とそう変わらない娘になっていたのです。
***
さて、若い娘にとって、社交界とは夢です。
着飾って綺麗な場所に出かける。それが嬉しくない女などいません。
わたしも家族の語る素晴らしい世界に、年頃の娘らしく心躍らせました。
昔と違って、そこに自分がふさわしくない人間だと恥じる必要もありませんでした。
けれどいざデビューをしてみれば、あっという間に夢想は醒めてしまいました。
女の子と友達になって話すのは、まだ楽しかった。
けれど最大の任務――結婚相手を探すことについては、日を重ねるごとに億劫さの方が増していきました。
わたしは本を読みます。それでたとえば、彼らが話題にしたことについて、自分の知識と意見を述べます。
当たり前のことをしているだけなのに、それは大層煙たがられました。
だんだん悟っていきました。殿方は自分が優れている時は優しいけれど、そうでないとこちらに恥をかかせるまで気が済まなくなるのです。
それが接待で、女らしさだと色んな人が形を変えてわたしを諭しました。
なぜ? わたしはただ、事実と意見を述べているだけ。
わたしが大事に育ててきた「わたしらしさ」を、ことごとく生意気なのだと否定されました。
さすがにもう大人ですから、子どもの頃のようにすぐ行動はしませんでした。
けれど一体何度、この頬を叩いてやりたい、あの頭に水をひっかけてやりたいと思った事か!
しかし家族相手では苦笑されるのはわたしなので、自然と愚痴る相手は一人になっていきます。
「ミスタ。あなたにはわたしらしさを教えてもらったわ」
「レディがご自分で望んだ今です。それとも違っていましたか?」
「どうなのかしら。あなたが家に来たときと同じかも。今まで正しかった事が違うと言われて、戸惑っている――そう、わたしは戸惑っているのかも。それに、悲しい。あまり外の集まりに行きたくないの、嫌なことを言われるから」
「レディは社交がお嫌いですか?」
「話を聞くのは好きよ! わたしは普通に話したいだけ。なのにわたしは普通じゃないって皆に言われるの」
「時に全て語らぬ事も知恵やもしれません、レディ」
「ああ、そう。わたし、おしゃべりしすぎなのかしら? 家では皆黙って聞いてくれるものね。そうかも……」
それじゃ今度からもう少し意識して黙ってみよう。
何も嘘をつくわけではなく、ただ言うべき事を選ぶのだ。
わたしは今まで反論していたところで、ぐっと堪えてにこやかに微笑み、頷くようにしてみました。
すると確かに、余計ないさかいは生まれず、殿方は機嫌良く相手にしてくれます。
けれどああ、その会話のなんと退屈なこと!
「本当にあの中から結婚相手を選ばなければいけないのかしら」
わたしが神妙な顔をして零すと、ミスタはただ微笑を浮かべるのみでした。
わたしの問題ですから、執事がとやかく言うことではないと考えたのかもしれません。
社交、伴侶、色恋――ぐるぐる考えている間に、ふと思いついたわたしは口を開きました。
「そういえば、ミスタにいい人はいないの?」
あのミスタ・ドノヴァンにそんな不躾な質問ができたのは、わたしが無謀な若者だったからでしょう。
彼はとても下品なことをするようには見えませんでした。
悪辣な執事であれば、立場を利用して時にメイドを泣かせる事もあるそうです。
彼には全くそういうことはみられず、だから誰からも信頼されていました。
けれど社交界を経験し、王子様のような人が何人もの女性を泣かせる世界を知ってしまったわたしです。
はたして彼もまたわたしを失望させるのか、それとも尊敬すべきミスタのままなのか。
あるいはもっと単純に、知りたかったのでしょう。
あの人が女性を愛することがあるのか。――どうやって?
ミスタは相変わらず、高い背を少しかがめ、この時は少し困ったように太い眉を下げて答えました。
「ございません、レディ」
「過去には? どなたか好きだったことは?」
「昔、将来を約束した人がいましたが――」
一度切られた先をうながすように見つめていると、彼は諦めたようにため息を吐きました。
「――待たせすぎたのでしょう。私が結婚を申し込もうと決意した時には、もう違う男を選んでいました」
まあ、意外だこと! 仕事でそつのないミスタにしては、間抜けな失態です。
一方で、なんだか彼らしい気もしました。
それに彼がずっと独身なのも、一応は納得できます。
「ミスタは色々考える人だものね」
わたしが言えば、彼は苦笑しました。
「ミスタみたいな人なら、すぐ結婚してもいいのに」
続けると、更に困ったような顔になるのでした。
わたしがミスタとの恋や結婚を一度も考えなかったのかと言われれば、答えはノーです。
おとぎ話のごとく手に手を取り合う、そういう姿を思い描いた事もありました。
けれど本格的にそういった事を考える年になる頃には、わたしは本を読みすぎていたのかもしれません。
可能か不可能かでいえば、けして不可能ではなかったように思われます。
やり方はいくつか考えられました。
ミスタもけしてわたしの事を嫌ってはいなかったでしょう。
けれどまず、わたしがそういう事を望んで迫ったところで、あのミスタが応じるでしょうか?
わたしたちは親子ほど年が離れておりました。彼はわたしが赤ん坊のようだった時代すら知っています。
仮にうまく一夜の思い出を作り上げたところで、翌朝には潔く辞職し、さっさと荷物をまとめて出て行ってしまうことが容易に想像できました。
それに何より、万が一わたしの欲望を全て叶えて成就したとして、それが素晴らしい未来とは思い切れなかった。
正式に結婚し、ミスタを社交界に加えてあの失礼な人達の相手をさせろと?
あるいは今のすべてをなげうたせて、落ちぶれたみじめな生活をさせろと?
そんなものはレディではない。
ミスタ・ドノヴァンが仮に結婚するのであれば、お相手は必ずレディでなければならない。
つまるところ、わたしはずっと彼に憧れており、憧れによって無謀を自制したということだったのでしょう。
***
さて少しは世の渡り方も覚え、のんびりと降りかかる話をかわしている間に、わたしもそろそろ本格的に行き遅れという年になってきました。
家族はわたしが強情であることを知っており、半ば諦めている気配はあったものの、それでもやはりどこかの貴族と結婚はしてほしそうでした。
家庭を持って安心させてほしい、というのが本音だったのでしょう。
そしてその頃ちょうど、とある伯爵様とわたしはデートに出かける程の仲になっていました。
彼は早くに結婚した妻を亡くしており、八歳の男の子が一人ありましたが、まだ三十を過ぎたばかり。
社交界に出たばかりでしたら微妙でしたが、行き遅れの相手としては悪くありません。
わたしも軽率な若者達よりはずっと彼が好きでしたが、結婚となるとやはり躊躇するものはありました。
一つには、やはり相手に既に子どもがあること。
もう一つが、結婚したなら夫人として振る舞わねばなるまいこと。
その頃わたしは、実は雑誌のコラムニストとなっていました。
本を多く読むうち、いつしか日誌をつけたり、自分の考えを書き付けることが増えていきました。
その積み重ねを、ほんの気まぐれで送ってみたところ、是非執筆してほしいと依頼が来たのです。
社交界では嫌がられたわたしらしさを肯定されたようで嬉しく、こっそり家族にも内緒で原稿を送り続けていたのでした。
手紙を分けるのは執事の仕事であり、ミスタ・ドノヴァンは当然のごとくわたしの秘密の趣味に付き合ってくれました。
代わりに原稿を出しに行ってくれたこともあります。
時折雑誌を買ってきて、階下の皆の感想を聞かせてくれたこともあります。
貴族のことや女性のことをつづったコラムは、なかなか好評のようでした。
そして婚約を打診されたまさにその頃、雑誌の一ページではなくもっと多くのページを――つまりは一冊の本を出してみないかと、出版社からも提案があったのです。
伯爵様は落ち着いた方で寛容な方ではありましたが、いささか古風な所もありました。
趣味で本を読んだり自分で書いているだけならば目をつむってくれるでしょう。
ですが夫人がコラムニスト――まして本を出すような事があれば、眉をひそめるような人でもありました。
何しろ貴族とは、働かない人間達なのです。
出版ぐらいでしたら許容してくれる人も皆無ではありませんでしたが、わたしの場合内容もよろしくありませんでした。
脚色は加えていたものの、わたしの書き物はかなり事実を元にしていました。
その上載せられていたのは大衆向けの雑誌です。
もし全てを打ち明けたとして、寛容な彼はきっと、過去に書いていた事までは許せるでしょう。独り身の手慰みですから。
ですが妻として母としてはどうでしょうか。とてもふさわしいとは言えません。
自分に嫁いだ女性が執筆を続け、お金を受け取り続けることを許容してくれるほど、先進的な人ではありませんでした。
まして家庭のあれこれすら執筆のネタにするなら、破廉恥だと激怒し、息子への教育についてこんこんと説教してくることでしょう。
結婚か、それとも仕事か。
この問題は二者択一で、両方を逃す可能性はあっても、両方を得ることは不可能でした。
わたしは選ばねばなりませんでした。
悩み、考え――そしてやはり人生の節目では、ミスタ・ドノヴァンを相談相手に選んだのです。
出会って十年以上の年が過ぎ、彼はまだまだ元気でしたが、頭髪に混じり始めた白髪といい、少しずつ老いてもいました。
それでも相変わらず高潔で丁寧な人物で、むしろ年を重ねるごとにますます洗練されていくようだったのでした。
晴れた日でしたが、快晴というほどでもなく、散歩にいい気候でした。
わたしたちは庭に出て、ベンチに腰掛けました。
そこでわたしは長い時間をかけて、二つのどちらかを選ばねばならない問題について述べました。
「わたし――わたしは迷っている。伯爵との結婚は、もちろん不安もあるけれど。きっとこれを断ったら、もう機会はないわ。子どもも産めない……」
子どもの話題がわたしの口から出てくるとは、自分でもいささか驚きではあり、一度言葉が切れました。
手袋を嵌めた両手を何度も組み直して、わたしはどこか祈るように口元に手を当てました。
「結婚したら、わたしのささやかな時間はきっと、家族のための時間になる。多くの女性がそうして来た。わたしの番が来ただけかもしれない。けれど……後悔したくない」
季節は夏から秋にさしかかり、風が心地良い昼間の木陰でした。
ミスタはしばし考えていたようですが、やがてぽつりと切り出します。
「レディ。選ぶということは、選ばなかった方を失うということ。後悔は絶対にします」
それは残酷な真実で、冷ややかにわたしの胸を打ちました。
けれど冷静な納得がまた、腹に収まっていくのです。
「いろいろな考え方がございます。お聞きしている限り、レディの悩みは――おそらく、ご自分の未来のことではないかと愚考致します。レディはどのように生きていきたいのでしょうか。それが選ぶ決め手になるのではないでしょうか」
「ミスタ。前に、昔は結婚を考えた事があると言っていたわね」
「はい」
「そのときミスタは、どうして結婚を選ばなかったの?」
ひょっとしたら答えてくれない問いかとも思いましたが、案外すぐ返事が戻ってきました。
「ほしかったのです。他人によるものでない、自分の自信が」
「……それは。手に入れられた?」
「はい」
穏やかな口調でした。
そしてそれはすとんとわたしの中に落ちて、探していた答えへの道筋を照らしました。
わたしは勢いよくベンチから立ち上がりました。
かつて体の内側の衝動全てに対して、正直であった頃のように。
「彼に連絡するわ。そして話す。……それでだめだと言われたら、すっぱり諦める」
「レディ――」
「別にあなたの話を聞いたから、真似をしようってわけじゃないのよ」
くるりと振り返り、わたしはミスタに向かって微笑みました。
「わたしはわたしらしさがわからなかった、ベッドの中の子どもに戻りたくはないの。我慢して、結婚したらきっとまた、わたしらしさを家族や家の人間に求めるようになる。このわたしは、もう手放さない」
すると腰掛けたままわたしを振り仰ぐミスタが、灰色の目を細めました。
「ご立派になられました、レディ」
それは誰よりも何よりも、わたしに対しての賞賛であったのでした。
***
結局伯爵とは別れることになりました。
案の定、彼は妻が執筆活動を続けることを快く思えなかったのです。
わたしが去ってから程なく、さる模範的な未亡人と結ばれたようでした。
今でも友人として、時折顔を合わせては近況や思い出話に花を咲かせています。
子どもを得る機会を失った事は残念だったけど、出産は命がけ。
執筆を続けていると、お産で命を落とした、あるいは体を壊して原稿を出せなくなった作家の話も、何度も耳にしました。
悠々自適の小姑には、兄夫婦の子どもが身近にいました。
血を分けた我が子への感情はわからないままでしたが、子どもの成長は見ていてまぶしいものです。
小言を言う両親よりも、幾分か責任のかるい叔母さんの存在は気軽らしく、遊び相手にもよく選んでもらえました。
出版社とはやりとりを重ね、無事に本もまとめることができました。
短いコラムとは勝手が違って苦労も多々ありましたが、幸いなことに貴族女性のつづる物語は面白おかしく楽しまれているとのこと。
次の仕事が絶えずやってくることは、忙しくもありますが、とても喜ばしいことです。
同じ作家仲間との交流もなかなか興味深い出来事でした。
男性相手にはやはり生意気と思われるようですが、わたしの存在は世の女流作家にとって希望ともなっているらしいのです。
相談の手紙もやってくるようになりました。
わたしはその全てに目を通し、なるべく返事を返すようにしています。
社交界には気が向いた時に行きます。
わたしが物を書いている事は知る人は知るようになってきて、嫌な顔をされることもあります。
けれど中には積極的にゴシップを披露してくれる物好きもいるのです。
若い頃よりはずっと、彼らとの会話が楽しく感じられています。
――ミスタ・ドノヴァンは。
わたしがいよいよ三十代も半ばにさしかかった頃、我が家の執事を引退しました。
まだ若々しく見えましたが、手が震えたり腰を痛めたり目や耳で不自由したり、そういうことが多くなってきていたのだそうです。
ほとんど休みなく家の一切を取り仕切る――それが何十年も。体に負担がかからないはずがありません。
彼は数年かけて従僕の一人を後任として育て上げ、惜しまれながら円満に退職しました。
「ありがとう。本当にお疲れ様」
わたしがそう言葉をかけると、嬉しそうに皺のできた目尻を下げました。
余生はパブを開き、手伝ってくれる人も決まっているのだそうです。
きっと我が家の階下の住人達も、定期的に訪れて相談を聞いてもらうのでしょう。
退職の日、彼はわたしに本を贈ってくれました。
幼い頃――彼を監視していたわたしがよく見た、古い物です。
大層難解に見えたそれは、今目を通してみれば旅の経験をつづったものでした。
そういえばたまの家族旅行の時は、随分と楽しそうだったような記憶があります。
時間のできた今、気ままにどこかに行くのでしょうか。
「お出かけしたら手紙をちょうだいな」
「はい、必ず。レディ」
そして彼は背を丸め、杖をつき、足を引きずって子爵邸を後にしていきました。
あんなに大きく見えた背だったのに。
一方で、そうなるまで我が家に尽くしてくれたのだと思うと、やはり彼への感謝の気持ちは尽きません。
自室に戻った時、ふとわたしは一つ、最後に彼に聞き損ねたことがあったことを思い出しました。
――ねえミスタ。どうしてわたしに優しくしてくれたの?
今度パブに押しかけるべきでしょうか。
でももう、無理に答えを知る必要もないように思えました。
こうしてわたしの青春であり、わたしを「レディ」に育て上げた人は去っていきました。
ほんの少し寂しさはありますが、この年になると別れにも慣れてくるもの。
それに新しい人との出会いは、いつも新鮮な気持ちを思い出させてくれるのです。
「レディ」
そしてまた別の人に、わたしは再びそう呼ばれています。
「あら、サー。わたくしの相手ばかりしていないで、たまにはお嬢さんがたといらしたら?」
最近、出版経由で知り合った若者は、同じ子爵家の次男とのことでした。
女性作家のような繊細な描写は、本人の線の細さに起因しているのかもしれません。
わたしも昔病弱でしたからついあれこれ喋りすぎたところ、けれどそれが気に入ったらしく、今では顔を見ればすぐ近づいてくるようになってしまいました。
素直な好意は可愛らしくはあるのですが、変わり者のオールドミスが独身の見目麗しい青年をたぶらかすのはよくありません。
「……同年代の女性は、少し苦手で。僕に、僕以上のものを求めてくるから」
とは言え、彼は彼で悩み多き若者のよう。
不安げな様子と答えを探している仕草は、やはりどこか昔の自分を見ているような気にさせます。放っておくこともできそうにありません。
――もしかして、ミスタも。
ふと、懐かしさに口元がほころびました。
「そうね。わたくしにもそういう時代はあったわ。自分が足りなくて不満で、何もかも思い通りにならないように考えられて……そんな時がね」
「本当に? レディは最初からレディなのかと」
「人の生きる時間は長く、どうあり続けるかを日々意識すれば、変化することも可能。つまりはわたくしが、このようにありたいと望んだので、今のわたくしがある」
いつかの言葉をなぞり、わたしは優雅に微笑んでみせました。
「長い昔話になるわ。聞いてみたい?」