使者
上の階は争った形跡もなかった。昨夜ここで寝たときと何一つ変化はない。無骨な二段ベッド。吊るされたハンモック。辺りを一瞥した限りでは、リーミニの姿はどこにもなかった。
「消えた……? なんで、さっきまで気配の色があったの! なのに……なのに」
隠れられそうな場所はない。レイルも光学センサーや熱探知を用いて周囲を一瞥したが死体も見つからなかった。
「嘘じゃない。本当に――――」
「疑っているわけではない。怒ってもいない。これ以上自分を責めるな」
無機質な声。レイルは本当に、ただ宥めようとしてくれている。
だがそれでも、【色彩音】の見せる色の揺らぎが言葉の奥に潜む不安を見せつける。後頭部でも殴られたかのように、ソラは言葉を詰まらせた。
僅かな沈黙。レイルは表情のない顔で確かに一点を凝視すると、【肉の剣】の柄を強く握り締めた。
「巧妙に隠したようだが、空間の捻じれが残っているぞ。黙ったままならお前は敵だ。すぐに手を出さないでいるのは貴様がまだ攻撃の意思を見せないからだ」
「――さすがは黒機様だ。こわいなぁ。ペンタゴン定数観測システムだっけ? それ」
何もない場所から澄んだ男の声が響いた。粗暴さはない。
「知らん。名前があるのか? どこの企業が造った」
「詳しくはしらないよ。僕は技術者じゃあないんだ。そんな詰問しないでくれ。惚れちゃうじゃないか」
響く鐘の音と共に、物理的事象の裏側、形容できない空間から穴が開いた。門が造られていく。目を開けることもできないほどに紫の虹彩がその場を満たす。
塗り潰すような紫紺の輝きが消えたとき、視界に映ったのは白いローブの男性だった。高い背丈。穏やかな表情を浮かべて錫杖を手に持ち、ソラと同じ色をした双眸が一機と一人を見据える。
「《十三の紫》が何の用だ」
男は満面の笑みを浮かべてソラを指差した。数瞬の沈黙。
そして――黒い突風が渦巻いた。レイルは容赦なく目の前の男の頭部を鷲掴む。遅れて、音が轟いた。足元に生じる摩擦。焼き切れるように舞う光の飛沫。
「痛いよ。こんなでも痛覚は残してるんだから。嗚呼、でも少し気持ちいいかもしれない。キミのようなイケてる野郎の手は久々だぁ。勃っちゃいそうだぁ……。でも、どうだい? ひとまず頭を掴むんじゃなくて握手から始めるのはさぁ」
男は微動だにもしなかった。頭蓋を粉砕することすら容易い力が頭を軋ませながらも、振り薙ぐ直前だった【肉の剣】を錫杖で突き押さえる。しかし反撃に出るわけでもない。
この場においてあまりに不自然な、慈愛に満ちた笑みを返すだけだった。
「なぜ終末信仰者と、世界滅亡が最終的な願いの輩と仲良くしなければならない。貴様らの教義はイカれている」
「助けにきてあげたのに酷い言い草だなぁ。フェンリル人体工房とラインフォード商会の二つを敵に回して、役立たずを連れた上で逃げ回れると思っているのかい?」
男の瞳が妖しく輝く。へらへらとした笑みにはまるで感情がない。殺意の類はおろか、緊張も、恐怖も、苛立ちの一つすら感じられない。気配の色は揺らぐこともない紫だった。
「人質でも取ったつもり? ……リーミニは、どこ!?」
ソラは一歩、踏み込んだ。双眸に籠る力を、背中に刻まれた得体の知れない力を意識的に全身へ巡らせていく。眩い紫紺の光が視線の軌跡を描いて灯る。
力は感情に呼応するように増大した。不安、苛立ち。薄暗い想いが吐瀉されるように攻撃的に色めき、コンクリートの壁に亀裂が走る。
「可愛いなぁ。仮にも父親だった男を殺した奴とその連れのために、こんなに感情を剥き出しにできるなんて。ああ……キミは最高だ」
男は恍惚として虚空を見上げた。ゆっくりとソラの顔を覗き込んで、瞳が光輝する。
「白の十三番。偉大なる純白種。キミが僕らの力の基礎を把握していても、一割程度しか本質への理解もないし、ラインフォード商会の奴らに安全装置をかけられている。これじゃあ――」
科学では説明できない紫の力が男から溢れた。瞬く間にソラの色を塗り潰して、視界を一色に染め上げる。
レイルは咄嗟に距離を取った。【肉の剣】を押さえていた錫杖を振り払い、コートを広げソラを隠す。獰猛な刃先を突き付けたが、男の態度は変わらなかった。
魔力とでも呼称すべき、非科学的な色彩を帯びた力場が部屋を満たす。レイルはしばらくの間凝視を続けたが、ソラが怯えるように腕を掴んだから、黙り込んだまま剣を下ろした。
「今のままなら僕のほうが力を使いこなせるとも。けどね、白の十三番。本来キミは比較にならないはずなんだ。それを引き出せないまま終わりを迎えることも、崇高なる輝きを理解もしない俗物的な企業共に利用されることも不愉快なわけだ」
手が差し伸べられる。拒絶する権利はなかった。
「もうこの区画は助からないさ。カノン・クロムウェルもじきじきに来ているみたいだからね」
クロロインのことを思い出してソラは顔を歪めた。カノン・クロムウェル……。クロロインと親し気にしていたフェンリル人体工房にいた銀の機械だ。彼女の上司で、――白の十三番を処分する命令をくだした奴。
「どのみちキミ達は拒否できないだろう? リーミニは保護してあげたんだからさぁ……。ほら、おいで。どちらにしたって、白の十三番も疲れているだろう? 黒機は休みなく動けても、彼女は限界があるんだから」
空間に生じた門へと。男が踏み込んでいく。ソラは縋るように息を呑んだ。無自覚のままにレイルを見上げる。
「私、役に立てると思ったのに。この力でも叶わないんだ」
「……怖がらなくていい。約束は果たす。ソラ、キミを誰にも渡すことはない」
無機的な静謐が空気を張り詰める。部屋から音が消えると、耳を覆いたくなるくらい外の惨状が音となって突き刺した。
「それも人間性のため……? 約束は守らなきゃいけないから? 私を気まぐれで助けたから責任があるなんて……想わなくていいんだよ?」
意地の悪いことを聞いた。瞳の光が朧気に揺れ、力の流れが乱れる。
「…………俺は俺のために助けている。約束は……キッカケに過ぎない。責任もあるだろうが。無くなったところで今更行動を変えるつもりもない」
レイルはソラの小さな手を握った。ただそれだけで処理メモリにデータが伝わる。体温、心拍数、握力。表情の差異。科学に映らない輝きはエラーで埋め尽くされていた。自分自身の思考回路もエラーが絶えず通知し続けている。
「……人間性以外の言い方は分からない。何と言えばいいかずっと悩んでいた。……不適切な言葉だ。贔屓目に見過ぎでもある。聞いたら、すぐに忘れてほしい。――ソラ、キミといるのは飽きない。俺を殺そうとしているのにだ」
こんな状況でも耳まで赤く、顔が上気するのを我慢できなかった。ソラは目を見開いてぎゅっと口を結んだが、不意に不安が込み上げて睨み直した。
「……本当に、私がまだ殺そうとしてるって思ってるの?」
「違うのか?」
すぐさま否定しようと荒く息を吸い込んで――、寸でのところで思い留まった。失笑を漏らしながら、ソラは笑みを浮かべる。肩の力が抜けた。
「違わないよ。私もね。殺してやりたいって思ってたはずなのに。同じなんだ。不思議だよね?」
儚い笑みを向けられて、思考はほんの一瞬ばかり停止した。白い髪が、空間を跨ぐ門を潜っていく。黒い背は慌てて彼女を追い抜いた。




