自我
相対するレイルは沈黙したまま深く身構える。言葉を交わすこともなく、【肉の剣】は殺意に応えるように牙を唾液で濡らしていた。
「…………っ」
ソラは顔を引き攣らせた。分を覆いつくすほどドス黒く、何もかもを塗り潰すレイルの気配の色に気圧され、心臓が締め付けられる。
滲む恐怖と緊張が体が強張った。痙攣でもしたかのように自分の意思ではどうにもできなくなっていた。揺れる瞳で瞠目したまま、縋るようにレイルを見上げる。
「…………怖がれと言ったが。恐怖に呑まれるな。安心しろとは言わないが、俺は約束は守る。キミを守ろう」
「ちがっ――」
銃口を突き向けられたときだって動けたのに言葉が出ない。
――――このままだとレイルが二人を殺す。それでも、殺さないでほしいとは今更言えなかった。
二人だけを贔屓し、それをレイルに押し付けようとしていることに気づいて自己嫌悪が込み上げる。……逡巡の猶予はもうなかった。
「哭いて。【緋の爪痕】」
異界道具の真価を発揮する言葉が紡がれる。儀式でも行うようにミオフィルは自身の顔を爪で撫で下ろした。皮膚が裂け血が滴る。赤く煌めく血に反応するように双眸の光が強く輝く。
「これ以上だれも殺させはしない。終わらせる……」
次の刹那、ミオフィルは爪を振り下ろした。異界道具から溢れ出る燐光のなかに身を投じるとそのまま姿が見えなくなる。
宙に振るわれた斬撃だけが空間を裂く刃となって無数の亀裂を伸ばした。触れるもの全てを両断する緋の軌跡がレイルめがけて稲妻のごとく驀進する。
「……一回分だ。叫べ」
『ギャハ! 空間をズラす斬撃かぁー!? あれなら確かにどんなものでも斬れるけどよおおおお! オレのはどんなものだろうが消し飛ばすぜえええええええええええ!!』
【肉の剣】の瞳孔が見開いた。脈打つ刀身。牙が蠢き、巨大な刀身が前方を薙ぎ払う。衝撃波は一瞬にして赤い軌跡を消し飛ばした。突風がソラの髪を靡かせ、異様な不協和音が施設に反響していく。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
【肉の剣】の一撃を正面から避け、アレウスは獣のごとき咆哮をあげながら機を逃すまいと突撃した。一瞬で肉薄し、赤熱する鎖鋸を振り上げる。
「撃て」
レイルの言葉を呑みこむよりも早くソラは引き金に力を込めていた。ぶつかり合う衝撃。唸る振動。電動の刃は科学によって防がれる。
事の結末を確かめようとはしなかった。レイルは勢いよく軸足を捻るとアレウスの頭部めがけて蹴りを放ち、【肉の剣】を自身の背後、何もない宙へ打突する。
同時、鈍い音が響いた。何もない場所から飛び散る深紅の火花、血飛沫。
僅かに遅れて空間に裂け目が生じると、ミオフィルは翼をもがれたように地に落ちた。【肉の剣】の刃が肩を貫いていた。
「これで終わりにしてやる。苦しませはしない」
肩を刺す刃を一度引き抜いた。どくどくと、華奢な少女から血が溢れていく。【緋の爪痕】と呼ばれた異界道具は力を出し尽くしたように色褪せていった。
「ミオフィル!!」
青く腫れぼった頬を拭いアレウスはすぐさま少女の元へ駆け寄った。敵を目前にしながら背を向けて少女を庇うように抱える。
「なん、ッで…………わたしが、……わかったの。透明に、なったわけでもない……音も、臭いも、なにもかも……消えるのに」
「空間に穴を開けて瞬間移動することが奥の手だったなら運がなかったとしか言いようがない。俺は空間の歪みは全て目視できる。【肉の剣】はそれをこじ開けることも消し飛ばすこともできる」
レイルは無感情な声を絞って二人を見下ろす。ソラはレイルと彼らの顔を交互に見返して、考えを押し殺すように唇を強く噛み締める。
『ギャハ! その二人、喰ってもいいよなぁ? そいつらの肉は美味そうだしよーッ』
【肉の剣】の野暮ったい笑い声が嫌に耳に残る。
「こっちも終わりましたよ。エヴァちゃん、お疲れ様でした」
「だいじょうぶです。どくタぁ。こまったことといえば、ちらかりすぎちゃったことぐらいだから」
どすん、どすんと。重い足音を踏み鳴らす怪物と共にクロロインは歩み寄る。ミオフィルは双眸を見開いて、事の結末をまじまじと見詰めていた。原型を留めていない血肉とへしゃげた金属の塊。――生き残っているのはあと二人だけだった。
ミオフィルの瞳から光が失せていくのが見えて、ソラは無意識のままに拳銃を持つ手に力を込めなおした。どうしようもなく頭が真っ白になっていく。――――このままじゃいけない。何度も頭のなかで叫んでいる。
「はは……ぁ。オレも目が眩んでいたようだな。能力も、武器も、何もかも劣っていたのに夢を見るなどとな。……すまない貴様ら、ミオフィル」
アレウスは自嘲し、穏やかな眼差しを向けていた。向けたまま、こんな状況になっても逃げようとはしてくれなかった。すぐに毅然とした表情を取り戻してレイルと対峙する。
「それが最期の言葉か。……逃げる気はないのか。いや、無理だと判断したか。…………俺達も急いでいる。申し訳ないとは思うがこれで終わりにしよう」
いつも以上に無感情な声。レイルはゆっくりと剣先を持ち上げる。クロロインは楽し気に眺めるだけだった。
「……すまないとは思っている。こんな言葉、価値もないだろうが」
レイルは淡々と【肉の剣】を振り下ろす。だが同時、刃が首筋を切り裂くよりも早く乾いた銃声が轟いた。剣撃に重なる障壁。
発砲したのはソラだった。二人へのトドメを妨げると、レイルに抱えられたまま細腕を伸ばし黒い腕を掴み寄せる。レイルは虚を突かれたようにしばらくの間沈黙していた。
「…………なんのつもりだ」
怒りではない。純粋たる疑問。彼の自然な言葉だった。ソラは自己嫌悪と唾を呑みこんで、レイルの黒くのっぺりとした顔部装甲を見上げた。淡く、青く蛍光している。気配の色も動揺に揺れている。
初めて会ったときと違って少女は歯を鳴らして震えたりはしなかった。
「レイル。……殺さなくていいよ。二人にはもう、殺意はないから。大丈夫だよ」
――こんなの偽善だ。黒く渦巻く想いが呟く。『なんで私だけ』とはもう口にできない。エゴのために生死を贔屓した。
「………………こんなときになって初めて名前を呼ぶんだな」
「私だって好きで呼んだわけじゃない。でも、止めてくれると思った。……必要のない殺しはしないんでしょ。私を生かしたように」
「キミも人のことを言えないな。いいや、俺は人ではないが。今ので理解できた。どれだけ人間性を保とうが、キミのほうが遥かに人間らしい。……これは誉め言葉だ」
青い蛍光が点滅していた。レイルは黙り込んだままソラと二人の便利屋を一瞥し、俯くと、寂しげに【肉の剣】を収めた。




