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悪い刺青はなかった - 英国王室を魅了した江戸刺青 (スマホ向/通常/短編)

悪い刺青はなかった - 英国王室を魅了した江戸ファッション刺青 (短編)

作者:

※長好きて読みにくいと思ったら↑ (スマホ向/通常/短編)からお好きなバージョンで


現在の日本では、刺青はヤクザがするもの、悪いもの、という古いイメージがある。

一方で海外では、刺青はファッションとして入れるのが一般的であることが、スポーツ選手やミュージシャンを通じて、ファッション刺青という新しいイメージで日本に入ってきた。


しかし調べてみると、ファッション刺青は江戸時代中期の日本で発祥し、幕末から明治初期に日本から英国に輸出された古いイメージであり、刺青は悪いものというイメージこそ、昭和中期の誤解によって生まれた新しいイメージであった。


そこには明治政府と英国王室の驚くべき歴史があった。


あらすじ:

 古代、邪馬台国では全身刺青をする文化があった。しかしヤマト朝廷支配下で失われる。

 江戸、中国文学の水滸伝が庶民に大流行し、水滸伝コスプレ、つまり刺青が大流行。江戸ファッション文化として定着する。

 幕末、不平等条約を押し付けにきた英国無敵艦隊はそれを目にする。江戸刺青は英国に渡り、皇室、貴族、船員に大流行。英国皇太子が来日して刺青を入れた。

 一方、明治新政府は西洋技術・文化を重視して日本文化を軽視。刺青も規制され、普段は近しいもの以外には隠し、祭りの時だけ解禁された。

 戦後、新憲法により刺青規制が解除。大っぴらにできる文化に戻った。

 昭和、ヤクザ映画が大流行。江戸刺青を初めて知った地方人は、ヤクザだげが入れてるものと誤解した。ヤクザがベンツに乗るから、ベンツに乗るのは皆ヤクザ、みたいな誤解と偏見が広がる。

 平成、英国人サッカー選手ベッカムは、全身刺青姿で来日し、当然のファッションだと語った。英国で続いていた江戸ファッション刺青文化は、幕末以来百数十年を経て、再び元の姿を現した。


*江戸ファッション刺青の発祥


ポリネシア・ミクロネシア等の太平洋の島々には、昔から刺青文化があった。

彼らは古代日本にも渡来し、刺青文化を持ち込んだ。

魏志倭人伝に曰く、邪馬台国の国民は全員が鯨面文身、つまり顔と体に刺青があったという。

なお刺青と呼ぶようになったのは最近で、明治だか大正だかの小説由来で、それまでは文身と呼ぶのが一般的だった。

ヤマト朝廷支配下では刺青文化はすたれたが、琉球(沖縄)やアイヌには近代まで刺青文化が残っていたという。


江戸中期になり、それまで食うや食わずだった庶民が、文化を楽しむ余裕が出るほど江戸が豊かになった時、庶民文化が花開いた。

浮世絵や御伽草子、歌舞伎、お伊勢参りという名目の国内旅行、それを紹介する旅行記、旅行ガイドなどなど。


中でも大ヒットしたのが中国古典文学の「水滸伝」である。翻訳版だけでなく、○○水滸伝といった翻案(二次創作)水滸伝モノがいっぱい出たらしい。今でいうと異世界転生モノがいっぱい出た、みたいな感じだろうか。


それら水滸伝の一つに、翻訳:滝沢馬琴、挿絵:葛飾北斎 のものがある。後に大御所となる二人の若き日のコラボ作品である。

この後馬琴は、キャラを女性化して舞台を日本に移した翻案水滸伝モノで中ヒットを飛ばす。さらにその後、水滸伝をベースにした「南総里見八犬伝」で大ヒットを飛ばし、その名を歴史に残すのである。


その北斎の挿絵、またそれとは別の水滸伝キャラの浮世絵でも、水滸伝キャラが刺青をしていた。(中国原作設定なのか日本独自設定なのか、原作読んでないので不明。)


挿絵(By みてみん)

(新編水滸画伝 挿絵 北斎)


挿絵(By みてみん)

(国芳)


それを見た庶民は、みな水滸伝キャラの真似をして、あるいは水滸伝キャラ自体の刺青をした。日本におけるファッション刺青の発祥である。


当時、船員、大工、鳶(高所作業大工)、左官、口入屋(人材派遣業)等々、今でいうブルーカラー職は、ほぼ全員が刺青をしていて、してないほうがおかしいレベルだったらしい。


これらブルーカラー職は、当時は高給取りであった(今も下手なホワイトカラーより高給取りだが)。大工は午前だけ半日も働けば、他職(物売りとか農民とか?)の一日分以上の稼ぎがあったらしい。ほぼ全員が刺青をしていたということは、ほぼ全員が、食べて生きるので精いっぱいの状況ではなく、刺青するほどお金に余裕があった証でもある。(余裕なくても見栄を優先した人もいるかもだが)



*会えるアイドル町火消


当時の江戸では、幕府は庶民からは税を取るだけで住民サービスは提供していなかった。

武家エリアでは大名が各自どうにかしていたが、庶民エリアはスルーされていた。度々の火事に困った幕府は、「お前らも各自でどうにかしろ」と庶民に触れを出した。

そのため、土地持ちや商人などの庶民の中の有力町人たちが、今でいう町内会を作り、町内会費を集めて独自に人を雇い、住民サービスを提供していた。防火のための町火消などである。

ほどんどの庶民の住居は長屋、今でいう賃貸アパート住まいで、大家が家賃に町内会費相当を載せて請求し、町内会に纏めて払っていたので、庶民はこのことを意識することはなかった。


町火消は別に本業があり、普段は本業をしていて、事あると手間賃程度の薄給で住民サービスに従事した。

その本業の一つが鳶である。

大工の中でも鳶は高所作業のできるエリート大工であり、町火消しに選ばれることは、エリートの中のエリートであることを認められたという名誉であったらしい。そのため薄給でも誇りをもって働いたらしい。


「任侠」という言葉がある。現在ではヤクザの代名詞みたいな悪い意味で使われるが、

身も蓋もない言い方をすれば、「人助けするオレかっこいい」感ではなかろうか。善悪を考慮しなければ、町火消しとか、義賊(金持ちから盗んで庶民にばらまく盗賊)もそれにあたろうか。そして称賛されれば、ますます「賞賛されるオレかっこいい」感が出る。ヒーロー願望の一種というか、自尊心をくすぐるというか。

寄付行為とかでそんな気持ちになったことはなかろうか。ベットボトルのキャップだの缶の口金だのベルマークだの集めるのは、そんな自己満足しかない気がする。話がそれた。



彼らは、火事の延焼から町を守ってくれるという意味でも、エリートであるという意味でも、庶民に人気があった。

今でいう「会いに行けるアイドル」である。

実際、い、ろ、は、と続く〇組といった火消しグループ全体、あるいは組頭(グループ長)個人の浮世絵、今でいう芸能人ブロマイドがいっぱい出ていた。

浮世絵で描写される町火消しは、当然のように刺青をしており、当時はほぼ全員が刺青をしていた、という話を裏付ける。


挿絵(By みてみん)


火消し組では、引退、新規加入、もちろん火事という危険な現場なので、けがによる活動休止や引退もあったろう。

人が入れ替わる、会えるアイドルグループ - どっかで聞いた話である。

その人気も、どっかで聞いた話と同等か、もっとすごかったのではなかろうか。ばーちゃんの代からファンです!とかありそうだ。自分もしくは自分の家を助けられたら、そりゃファンになっちゃうだろう。


水滸伝ブームがどれほど続いたのかはともかく、その後は刺青をした町火消が刺青の広告塔となり、水滸伝ブーム後も刺青ブームは終わらず、「ファッションとして刺青を入れる文化」が、庶民文化として定着したと思われる。



それと前後して、幕府は軽犯罪者に刺青を入れる「刺青刑」を導入した。

刺青刑は元々中国の風習で、律令制以来、度々導入したりやめたりしていたが、また導入したのであった。

額に「犬」と入れるのが有名だが、アレは他藩の話で、幕府直轄領では、腕に線を入れるというおとなしいものであった。

反社会的刺青の発祥、ではないが、そういうイメージを持たせるきっかけではある。


額ならともかく腕の線では、上からファッション刺青を入れるとわからなくなるため、幕府はファッション刺青を禁止した。

が、庶民は守らなかった。

何しろブルーカラーのほぼ全員がしているので、いまさら消せません、と言われればどうしようもなかろう。なし崩しで黙認されるようになり、黙認されるなら新しく入れてしまえ、とファッション刺青が庶民文化として続いたのではなかろうか。


現代の感覚では法を守らないことはすごく悪いことに思えるが、歌舞伎や春画(エロ浮世絵)も禁止されていたし、本来は藩を出るのはご法度で、神社仏閣への信仰上の巡礼は特別に指し許す、というものだったが、許可さえ下りれば、他に寄り道したり物見遊山したり、事実上の国内旅行解禁になっていた。

庶民も適度に無視し、幕府も適度にお目こぼししてたのではなかろうか。


現代でいえば、(組織)売春禁止だが、ただ風呂入ってるだけという建前のソープが黙認されてるとか、

(公営以外の)賭博禁止だが、ただ景品売買してるだけという建前のパチンコや、麻雀賭博が黙認されているようなものであろうか。



*日の沈まぬ帝国


時は移り幕末、の少し前の外国に目を向ける。


当時、欧米諸国は世界の覇権と制海権を争っていた。最終的に勝利したのは英国。

(このころ一時期オランダは滅び、オランダを名乗る国家は長崎出島にしかなかった。日本史に詳しい人には常識だろうが、地理選択の私は知らなかった)

支配下の植民地のどこかでは日が差しているという、地球一周する全経度を支配した、いわゆる「日の沈まぬ帝国」と呼ばれる、巨大植民地帝国を作り上げた。

それを実現したのが、ご存じ英国無敵艦隊である。この艦隊は世界の海を巡った。


挿絵(By みてみん)


最初に書いたように、ポリネシア・ミクロネシア等の太平洋の島々には、昔から刺青文化があった。

日本では一部地域を除いて廃れてしまったが、発祥の地にはそのまま残っていた。


英国艦隊がポリネシア・ミクロネシアに来た時、現地人の刺青を見た英国船員は、刺青カッケー、と思い、現地人に刺青を入れてもらったり、見様見真似で入れた。英国におけるファッション刺青の発祥である。

元々船員は港々で他の船と情報交換する習慣があったので、その口コミで、国を問わず船員には刺青を入れるファッションが広まった。


米国に「ポパイ」というアニメがある。

元はホウレンソウ会社のCMだったらしいのだが、

恋人のオリーブが悪漢に絡まれ、「ポパーイ、助けてー」とかいうと、

船員の主人公ポパイがホウレンソウを食べてムキムキになり、腕の筋肉と碇の刺青を見せつつ悪漢を倒す、というのがお約束の流れである。

船員が刺青を入れている例の一つである。



そして幕末。


米国による強制開国の後、英国も米国に負けじと、英国無敵艦隊が不平等条約を結ばせるために日本にやってくる。

歴史の表舞台で幕府と英国大使が条約交渉をしているころ、

歴史の裏舞台では、港で待っていた英国船員が日本のファッション刺青を見た。その時歴史がちょっと動いた。


ポリネシアの刺青は伝統的なものであり、伝統を継承するという考えはあっても、ファッションとして発展させる、という発想はなかったであろう。邪馬台国時代と大して変わらなかったかもしれない。

挿絵(By みてみん)

https://www.tattoostime.com/ より

(現代の写真だが、部族毎に異なる刺青を持ち、2000年前から変わらぬ部族もあるという。)


それが刺青だと思っていた英国船員が、変態的情熱を持つ庶民の手によって、江戸後期百数十年をかけて芸術的なまでに高められた、江戸のファッション刺青を目にしたときの驚きはいかばかりか。

初期は単色や二色だった刺青は、幕末頃には多色の豪華絢爛なものとなっていた。

挿絵(By みてみん)

(この写真は当時の白黒写真を後世に想像で着色したもので、実際の色や発色ではない)


英国船員は競うようにして日本の刺青を入れた。


条約締結後、英国艦隊は帰国する。

帰国すれば当然国王に報告する。

国王は一行の中に、日本の刺青を入れた船員を見た。この時歴史がまたちょっと動いた。


英国国王、そして貴族たちは、日本のファッション刺青に魅了された。ハマった。そりゃもうハマった。

英国に渡った彫師(刺青を入れる技術者)がいたのかもしれない。


国王と皇太子は、入れるなら最高の刺青を入れたい、と考えた。

当時の日本は世界最高の刺青技術があった。日本最高の刺青、すなわちそれが世界最高の刺青である。



*明治維新


そのころ日本では、明治維新が起きていた。

明治新政府は刺青を禁じた。徳川幕府も禁じていたので、それを踏襲したとも言えるし、刺青を野蛮な文化とみなして廃止し、西洋の先進文化を取り入れるべきと考えた、とも言える。


しかし前述のように、明治新政府が旧弊で野蛮で無価値とみなした日本のファッション刺青は、当の西洋先進文化国、英国では、国王や貴族が魅了されるほど高く評価されていたのであった。これは刺青に限らず、浮世絵をはじめとした様々な日本の文化・芸術作品が、この時捨て値で海外に流出し、日本の美術館より西洋の美術館の方が収蔵品が充実している。


彫師が規制されたとか、廃業を余儀なくされたという話もある。


後の大正時代の話では、刺青は普段は長袖で隠していて、近しい人以外は、刺青を入れていることを知らない、わからない状況だったようだ。

しかし祭りの日には解禁され、刺青者はこの機会にと裸に近い格好で刺青を見せびらかしたようだ。

祭りの時に刺青を目にした、とある若い大工は、刺青にあこがれ、のちに刺青を入れる。

この話から、禁止下でもそこそこお目こぼしあり、彫師もいたということがわかる。

規制された話と合わないが、規制された「時期もある」のかもしれない。

くだんの若大工が後の平成にしたのが上記の証言である。


そんな明治新政府に、英国大使から申し入れがあった。


「我が国の国王と皇太子が、日本最高の刺青を入れたいと言っている」



*名彫師


「我が国の国王と皇太子が、日本最高の刺青を入れたいと言っている」


明治新政府は対応に苦慮した。

いずれ富国強兵するにせよ、今の日本は弱い。以前は幕府の弱腰に義憤を感じていたが、列強の強さを局所戦争で知った。

列強からの理不尽な要求にも耐えねばならぬ時期であった。

しかし理不尽な要求も覚悟していたとはいえ、このような要求がなされるとは、想像の埒外であったろう。


当時、世界最大帝国である大英帝国、しかも国王と皇太子という最高権力者からの直々の要求である。

事実上の命令であった。


前出のように、明治新政府は刺青を禁止していた。

刺青や彫師について、苦々しいと思いこそすれ、詳しいものなどいなかったであろう。

しかし命令である。日本最高の彫師を探さねばならぬ。



当時、彫師業界の誰もが「アイツにゃ勝てねえ」と口をそろえて言う名彫師がいた。

彼こそ日本最高の彫師に違いない。新政府の役人は彼に連絡を取ったようである。


それからいかなる政治的折衝があったのか、日本側の資料では定かではないが、英国皇太子の来日が決定した。


表向き、皇太子は条約延長協議のために来日した。

しかし条約自体を大使が締結しているなら、延長協議などというしょぼい仕事は、本来なら皇太子でなく大使で十分であろう。皇太子の来日目的は奈辺にあったか。


皇太子は協議をされた後、日本各地を観光して帰国なされたという。


当時海外で流布されていた噂によると、日本の伝説の名彫師が英国国王と皇太子に世界最高の刺青を入れたという。

件の名彫師は海を渡り英国国王に刺青をお入れなされたのか?

別の彫師が渡ったのか?そもそも国王は本当に刺青を入れたのか?


少なくとも、皇太子が日本で刺青を入れたことだけは確かなようである。



しばらく後、外国人居留地の片隅に、とある英語の看板がかかっていた。


「刺青彫ります。英国国王と皇太子に刺青を入れた高名な彫師」


彼が本当に件の名彫師であったかは定かではない。

英語はできるが、彫師としてはそこそこレベルの別の彫師が誇大広告をしていたのか、

国内で刺青禁止とされ、職を失った彫師が、もっとも近い国外、すなわち治外法権の外国人居留地で糊口をしのいでいたのか。


ともあれ、この彫師は港々で船員間の口コミで広まり、それを聞いて来るものもいて、そこそこ人気だったようである。



*敗戦と新憲法


太平洋戦争敗戦後、大日本帝国憲法は廃され、GHQ監修の日本国憲法が日本国を規定するようになった。

それに伴い、法律も大きく変わった。


そうした中、「刺青の禁止」がひっそりと廃された。

刺青は野蛮な風習(だから禁止)、というのが明治政府の勘違いで、西洋基準ではそうでなかったわけだから、西洋基準の価値観で作り直した新憲法下で廃されるのは当然といえる。


ここに、1948年の一冊のカストリ雑誌がある。


当時、お酒を造った残りカス、から無理やり取った低品質なカストリ焼酎という酒があり、

それになぞらえて、紙質が悪く、内容も低俗な雑誌を、低品質を揶揄してカストリ雑誌と呼んだ。


だがそれは、大戦以来困窮を極めた庶民が、食うや食わずの生活から、再び「文化」を手にする余裕ができた証でもあった。

そもそも庶民文化は低俗な側面があり、江戸期の「低俗な」歌舞伎は何度も禁止されたし、春画は禁止されてもひそかに流布していたのである。


この雑誌では、刺青特集として刺青が肯定的に書かれ、

件の名彫師の生涯記、女性が背中にファッションで刺青を入れる姿、などなど。

当時の庶民が刺青に抱いていたイメージを垣間見ることができる。


なおこの生涯記によると、大正末期に突如として逮捕抑留され、しかし数日で釈放されたそうである。

彫師を規制してたのかそうでないのかよくわからないエピソードである。

大正末期に彫師を規制した時期があって捕らえたが、人物照会で、明治期に英国の無茶ぶりからある意味日本を救った名彫師であることが明らかになり、慌てて釈放したのでは、とも思える。単に別件の容疑者とされて、容疑が晴れただけかもしれないが。



*ヤクザ映画の流行


新憲法下では、別に刺青を見せびらかしてもよかったはずだが、刺青者は普段は隠す習慣を続けたのだろうか。


この時点の刺青者は、年取った「ほぼ全てのブルーカラー」、禁止期は「普段は隠せばOK」の緩い運用だったようなので、その間に入れた者たち、新憲法下で刺青解禁後に入れた者たち、などがいるだろう。

このブルーカラーのうち、博徒、口入屋(人材派遣業)は後のヤクザの母体となったが、それ以外の一般労働者の方が多いのは言うまでもない。


時は高度成長期。日本の地価が上がり、中でも都心の地価が上がった。昔から住んでいる庶民は、固定資産税(土地への税金)の高さに根をあげ、土地を売って郊外へ引っ越すものもいた。一方で、中卒・高卒は「金の卵」と呼ばれ、全国から仕事のある都会へ上京してきた。都会の住民が入れ替わりつつあった。



1960年代に、ヤクザ映画が流行った。ものすごく流行った。シリーズものが延々と作られた。

聞くところによると、ヤクザではない刺青者が、ヤクザ役として出演したりしたらしい。本物のヤクザはいろいろ面倒そうだし、刺青のSFXなんてのも時代的に面倒そうだし、さもありなんという感じである。


一方そのころ海外では、日本の刺青が「驚くべき日本の刺青芸術」として、著名な雑誌で紹介されていた。

ヤクザではない刺青者は、こちらでも紹介されていた。

件の名彫師の刺青を背負って、外人記者に見せびらかしている。



*誤解から偏見へ


かつては、向こう三軒両隣は近しいものであり、その中に刺青者がいることも、それが一般労働者であることを知っていることも、当たり前であった。

この、ブルーカラーは刺青してて当たり前で、普段は隠してるだけ、というかつての常識は、住民の入れ替わりの少ない下町や、船員や荷下ろし人などを間近に見る機会の多い港町など一部を除き、知る人ぞ知るものになっていった。


それまで刺青を見る機会がなく、ヤクザ映画で初めて刺青を見た人たち、つまり、都会に越してきて、隣近所で刺青を見る機会があるほど近しい付き合いがない者、地方なので元々江戸火消しからのファッション刺青を知らない者にとって、ヤクザは刺青をしている、ということを知ったものの、普通の人も刺青をしている、ということを知る機会はなかった。


そして「ヤクザは刺青をしている」ことから、いつの間にか「刺青をしているのはヤクザ」「刺青をしているのは悪い人」「刺青は悪い」というイメージにすり替わってしまったのである。


1990年代を生きていたオタクは覚えているだろうか? 当時、とある殺人事件があり、

「犯人にオタク趣味があった」ことから、いつの間にか「オタク趣味があるのは悪い人」「オタク趣味は悪い」というイメージにすり替わって、オタクバッシングされたことを。

この時は、業界の大御所や、表現の自由論者の協力を得て、オタクたちは危機を脱したのであった。(が、いまだにそう思っていてblogやtwitterでオタクバッシングする人もいる)


同じ状況で、刺青者は沈黙を選んだのであった。(主張したけど今の我々が知らないだけかもしれないが)


ヤクザでない刺青者の、その後の人生には同情を禁じ得ない。

オタク者もまた、一つ違えれば、1990年代のような、あるいはもっと酷い偏見の目で見られ続けるる人生の可能性もあったのだ。



前述の大正期の若大工は、後に鳶となり、さらに後、江戸の町火消し文化を保存する団体のお偉いさんとなった。

正月の出初式のニュースで梯子乗りとかやってるアレである。

江戸期の出初式の浮世絵を見ると、半袖で刺青がチラ見してたりするが、近年の出初式では、古い新聞でも長袖を着ている。もちろん高所危険というのもあるだろうが、刺青を見せないという理由もあるのだろう。

ヤクザでない一般人が刺青をしている一つの例である。



私も刺青に偏見を持っていた。


昔、東京で風呂なしアパートに住んでいた時、銭湯に通っていた。その後風呂付に越した後も、たまに大きい風呂に入りたくなって銭湯に行くこともあった。銭湯巡りとかしたこともあった。

東京の銭湯の多さにびっくりし、割と頻繁に高齢の刺青者に会うのにもびっくりした。「刺青・泥酔入浴禁止」と看板があるにも関わらず、シレっと入っていた。


当時は、引退したヤクザかと思い、心持ち遠巻きにしたりして、銭湯の人も怖くて注意できないのかな、などと思っていた。

東京にはこんなにたくさん爺ヤクザがいるのか、と驚いた。

今にして思えば、ヤクザでない一般人が刺青をしていたと考えたほうが妥当なように思う。引退した近所の大工とかだったのかもしれない。銭湯の人にとっては、若いころかわいがってもらった近所の大工の兄ちゃんであり、銭湯の修理とかしてくれたかもしれない。ずっと銭湯にきてくれていた優良顧客だったのに、突然来るなとは言えなかったのだろう、とか妄想してみる。



近年のヤクザインタビューで、「刺青を入れるとき、コレでカタギに戻れない、戻らない覚悟を決めた」的なことを言うヤクザがいるが、この概念はいつできたのだろう。上司の古参ヤクザは、刺青がそういうモノではないことを知っていたはずである。それとも、容易に足抜け(ヤクザを辞める)しないように、ヤクザ自身も偏見をうまく利用したのだろうか。



*再びファッションへ


多くの日本人が「ファッション刺青」というものを知ったのは、英国サッカー選手のベッカム等、スポーツ選手を通じてであろう。

一部の音楽ジャンルはファッション刺青を入れる風潮があり、それらのファンは以前から知っていて、自分でも入れたりしていたが、そうでない人にはあまり知られていない、あるいは耳にする程度だったのではなかろうか。


ベッカムは、それまでのファッション刺青のイメージのように、腕などの一部にワンポイントとして刺青を入れるのではなく、日本の刺青者のごとく、ほぼ全身に刺青を入れ、それが当然であるかのように、あっけらかんと、楽しそうに、刺青についてインタビューで語った。



英国人ベッカムの刺青は、かつて幕末から明治初期にかけて、英国の上流階級と船員を席巻した、日本刺青のブームと無関係ではなかろう。

「全身のファッション刺青」という本来の姿を英国で保っていた江戸日本の刺青は、幕末以来百数十年の時を経て、再び我々の前にその姿を現したのである。



かつては日本でも、普段は長袖で隠していても、例えば祭りの折に、例えば親類や近所の集まりで、ベッカムのように楽し気に刺青について語り、前述の若大工のように、それにあこがれた者もまた刺青を入れる、といったことが連綿と続けられてきたのだろう。



「外国の刺青は良い刺青で、日本の刺青は悪い刺青」

「ファッション刺青は良い刺青で、ヤクザの刺青は悪い刺青」

という言説がある。


しかし二つは同じものだった。悪い刺青はなかったのである。



*2020


2020年、東京オリンピックを迎えるにあたり、多くの外国人選手・観光客が日本を訪れることが予想される。

その中には、文化・宗教的刺青をしている人もいれば、ファッション刺青をしている人もおり、反体制をウリにする一部音楽ジャンルでは、反体制的刺青をファッションでわざと入れるものも居ろう。

(医療的刺青、というのもあるらしい。特殊な持病もちの人が、発作とかで運ばれたときでも、医師がすぐわかるようにそのことを書いた刺青を入れるんだそうな)

彼らを迎える日本、特に宿泊施設や温泉観光地はいかに対応すべきか、といった話がされている。


一つ目は、郷に入っては郷に従え、来る側が気を遣え、という考え方。

個室風呂や家族風呂を使え、肌色シールで隠せ、日本人の目に刺青が入らないようにしろ。


例えば海外で宗教施設を観光するには、宗教的敬意があろうがなかろうが、現地の人と同じ行動が求められる。帽子をとる(キリスト系)とか、逆に女性は帽子やスカーフで髪を隠す(イスラム系)とか。

イスラム圏で女性が露出の高い格好をしていると奇異な目で見られるらしい。例のすっぽりしたイスラム服(ヒジャブ?)でなくても長袖着ていればいいらしい。

今の日本人に刺青を奇異な目で見る人がいるのはやむをえまい。が肌色シール貼ってれば見ないふりはできる。少なくとも相手がこちらに合わそうとしていることはわかる。というあたりが落とし所だろうか。

肌色シールが長袖と同じ難易度かはしらんが。


二つ目は、イスラム圏において外人用ホテルが酒を出すように、外人顧客を主とした考え方。

その中では、外国人は刺青どうこうとか気にせず、本国に近い生活ができる。逆に日本人は刺青を見ても驚かないように気を遣う。


そしてどちら側の対応をするのか、外人選手・観光客に事前に情報提供する。


なんてこと考えてたけど、歴史を知り、


三つ目は、悪い刺青なんかなかった! ヤクザ以外も普通に刺青してた! だから刺青はオールOK!


というように日本人の認識を変える。難しいだろう。

正しい情報を伝え、刺青の偏見をなくせと主張すべきだろうか?


江戸中期の日本でファッション刺青が流行ったのは、浮世絵や絵草紙という当時のメディアに踊らされた結果といえる。

昭和中期の日本でファッション刺青が抹殺されたのもまた、ヤクザ映画という当時のメディアに踊らされた結果といえる。

歴史の皮肉ともいえるし、ファッションの移り変わりの速さを考えると当然の結果ともいえる。


日本人の認識が変わるとすれば、またメディアに踊らされて変わるのがふさわしい結果のように思える。


2020年を前に、メディアは刺青のイメージをいかに報道するのだろうか?

インターネット、SNS等、メディアが分散した現在、メディアは日本人の認識を変えるほど踊らせる力があるのか?


生暖かく見守りたい。


*蛇足


水滸伝知らねとか書いたけど、反体制派の悪漢が梁山泊に集まるとかそんな話だった気がする。

中国では刺青刑があるから、昔刺青刑受けたキャラ、とか原作に設定があるかもしれん。ある気がする。やべえ。

全部ひっくり返って、ベッカムも悪い刺青ということになってしまう。

気づかなきゃよかった。

ここはひとつ、ポリネシア=>英国で意味が変わったように、中国=>日本で意味が変わったことにしよう。そうしよう。



*あとがき


私は別に刺青好きでなわけではない。少し前に、娘の相手が刺青入れてたのを理由に結婚を許さない話がtwitterで話題になっていたので、その機会に調べてみた結果をまとめたものである。


調査の結果、悪いイメージがそもそも誤解と知ってびっくりした。「お客様は神様です」みたいに誤解の方が広まったのだろうか。


個人的には、いかにもソレっぽい紋々しょった刺青者が、必ずしもヤクザではないと知って安心できた。

特に東京下町銭湯に出没する刺青爺さんは、高確率で近所の大工の類だと思う。まあ仮に引退ヤクザだったとしても、そう思っていた方が平静でいられる。


他の人にまで偏見なくせというモチベーションはないけど。

---


この本に史実が載ってるぽい、という手前で寸止めして、紹介や書評見るにとどめ、そこから妄想しました。細部は適当。後で読んだらで史実に近い版書くかもしれんが


wikipedia情報によると、

幕末日本にとある英国人がいて、生麦事件(英国人が武士に無礼討ちされた件)のときはペーペーで通訳を務め、明治維新を体験し、後に大使にまでなったらしい。

この大使、日本に関して本国に報告するのがお仕事なので、数多くの手記や報告書を残し、帰国するときに当時の日本の書籍を山ほど持ち帰った。これは英国の図書館に収蔵され、大使の名をとってナンタラコレクションと名付けられた。


そして、とある日本人の図書館員がこの英国の図書館の日本部門の長に就任し、その図書館員が書いたのが、刺青と英国王室に関する本である。おそらくこの大使の手記が元ネタであろう。そっちの方が面白そう。

(順にまとめるとわかりやすいが、著者名からググってさかのぼって調べるの面倒、でも楽しい)


マジ歴史学者は、史料に「ナンタラにはカレコレと書かれている」てのを見つけると、その数行の裏を取るためにナンタラを探し、世界に1冊しか残ってない(もしくは貸してくれない)とかだと、はるばるソコへ行って閲覧許可を取ったりするのがクソめんどくさいお仕事らしい。


図書館員なら、自分トコのは見放題だ(たぶん)。裏とりもコレクションっていうくらいある。ていうかコレクションまとめるのが図書館員本来のお仕事だったぽくて、コレクション目録とかも出してる。


著者は歴史学者ではなく図書館員だが、本の確度は高いと思う。読んでないけど。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 読みやすく、分かりやすい文章でした。刺青そのものに罪はない。文化の違いに過ぎない。よく言われることですが、理解しやすい解説でした。
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