弔花
暗く、狭い路地裏を走りながら、男は背後を見上げた。スモッグで覆われた夜空の下、黒いコートが翻る。鋭い眼光がちらつき、狩人のごとき威圧感を与える。
『それ』は、建物の谷間を跳び渡り、追って来ていた。男が逃げるスピードと『それ』が追って来るスピードは、比するまでもなく『それ』に分がある。このままでは、追いつかれる。
「クソ、冗談じゃねえ」
毒づきながら、男は振り向き、ショットガンを構えた。今時珍しいポンプアクション式である。見れば、男の身なりもみすぼらしく、いかにも旧世代の武装しか買えない身分であろう事が推測できる。
ガタガタと震える銃口で、それでも男は抵抗の意志を見せ、狙いを付けようとしている。上に見える、恐怖の化身へと。
建物の屋上から覗く『それ』は、輝く目でまじまじとショットガンを観察すると、屋上から飛び降り、路地裏へ着地した。連日の雨で出来ていた水たまりが飛沫をあげ、黒いコートの裾を濡らす。
「……な、何の用だ、ショウ……」
「……」
飛び降りてきた黒いコートの男は、ショウと呼ばれ、目を上げた。その眼光が鋭く輝き、殺意をありありと伝える。追い詰められた男は、ショットガンを向けたまま、わめくようにまくしたて始めた。
「待て、しょうがなかったんだ。拷問されてたんだ、分かるだろ。お前だってこうしたハズだ、同じ立場なら」
「……」
ショウは変わらず無言で、コートのポケットから写真を取り出した。それはショットガンの男が、政府の高官から金を受け取る場面を、見事なまでに美しくショットした一枚であった。
「クソがァ!!」
途端、顔を醜く歪め、男は躊躇いなく発砲した。マズルフラッシュが闇を切り裂き、飛び出した弾丸がショウを目掛ける。が、やはりしょせん旧世代の武器。弾速は遅く、ショウの動体視力で余裕をもって捉えられるものだった。
「……」
身体を傾けたショウは、散弾の隙間を通り抜け、何事もなかったかのように男へと歩き始める。徐々に恐怖に飲まれながら、男はそれでも発砲し続ける。だがショウには一発も、掠る事すらない……。
「ば、化け物野郎が!! 失敗作が!! 社会の癌の癖しやがって!!」
男は悲鳴じみて叫び、コッキングしてトリガーを引いた。だが、弾丸は飛び出ない。虚しいクリック音が響くのみ。……弾、切れ。
「そんな……」
男は絶望しようとしたが、そんな暇は与えられなかった。ショウが一瞬で踏み込み、容赦ない掌底打ちを鳩尾に叩き込んでいたからだ。遅れて男は気付く。自分が致命的な一撃を受け、死へと歩み出した事に。
自分を確実に地獄へ送るその掌打を胸に感じながら、彼は走馬燈を瞳に映していた。数日前、政府の高官を名乗る男から、高額の取り引きを持ちかけられたこと。自分が所属する組織に居る、『ヒーロー』の情報を求められたこと。自分がその求めに応じ、大金を手にしたこと。そして……自分が売った『ヒーロー』の所属員が、消息不明になってしまったこと……
ショットガンが地面に落ちた。男は数歩、よろめきながら後ずさりし、吐血して倒れた。
手首を振って衝撃を拡散しながら、ショウはその死体を見下ろした。懐からは札束がこぼれ、弔花じみて風に揺れている。すぐ金を使わなかったのは、誰かに何かを買うつもりだったのだろうか。だが肝心の持ち主は死んでしまった。
遠くにはサイレンの音。銃監視システムにより発砲を感知したAIが、通報ホットラインを作動させたのだ。まもなく警察が駆け付けて来る。長居は無用だ。
ショウは首を振りながら、旧世代の携帯で『依頼完了』のメールを送った。新型の携帯はAIのネットセキュリティに監視されており、公にできない仕事のやりとりは不可能なのだ。
すぐに来た返信を確認すると、携帯を懐にしまいこみ、ショウは駆け出した。たなびく黒いコートは、やがて裏路地の闇に溶けて消えた。