リーゼロッテ=ヴェーチェル3
オーガスト家には本館と別館の2つの棟が建っている。
来客がそのまま宿泊する場合は別館に案内するようになっていた。その理由に関しては詳しく説明を受けていない。ただ、私に関しては将来的にオーガストの一員になるという意味あいからか、本館の一室をお借りする事になっていた。
私は本館のバルコニーから別館の方角を見つめる。
夜もかなり更けている。彼女はすでに眠ってしまっている事だろう。
彼女から貰った黒い光が灯るガラス玉を、ポケットから取り出し掌の上で転がす。
悩んだり挫けそうになった時、いつもこうやって玉を転がし、彼女との4年前の日々を思い出していた。
いつか役に立つと言われていたからだけでじゃない、大好きな彼女が自分のために用意してくれた宝物だから、肌身離さず持ち続けていた。
『ねぇ、リズだよね? どうして無視するの?』
目を瞑れば、彼女の悲痛な叫びが鮮明に思い出される。
そんな彼女に私は、もう一緒にいられないと答えてしまった。それでも彼女が何か返してくるのではと構えていたが、それ以上私に言葉を返してくれる事はなかった。
(嫌われたかもしれない)
そう思うと、胸が苦しくなる。自分からそうなるようにしたというのに。自分の事ながらすごく勝手な話だと思う。だけど――
「眠れないのかしら?」
振り返ると、そこにはベロニカ様の姿があった。
彼女はワインの入ったグラスを片手にバルコニーの手すりに身体を預けている。
「……はい。いろいろと、考える事があったので」
「それって、彼女の事かしら」
ベロニカ様はそう言って、別館を指差す。やはり彼女にはお見通しだったようだ。
「はい」
「彼女は貴方のお友達かしら」
一瞬、回答に戸惑う。以前なら親友だと即答する事ができていた。だが今は――
(私はジニーに酷い言葉を投げかけてしまった。もう私の事なんて)
そう考えると先ほどより一層、胸が苦しくなる。
「そう。それが答えね」
「いえ、私は何も!」
ベロニカ様は私の口に指を当てられる。
「それ以上は言っては駄目よ。例えそれが本心じゃなくても言ってしまった言葉は戻らないわ」
「……はい」
彼女はワインの入ったグラスを右手で弄び、香りを楽しんだあと、一気に飲み干した。
「はぁ、おいしい。兄様も御義姉様もお酒はそれほど得意じゃないから、飲むのもなかなか気が引けるのよね。その点貴女はどうかしら。強ければ嬉しいのだけど」
「わ、わかりません。お酒なんて飲んだ事ありませんので」
「それはそうね。その年で飲んでいるようだったら、ヴェーチェル候に一言物申してやるところだわ」
そう言ってベロニカ様は私に微笑みかける。彼女が私に気を遣ってくれている事が、ひしひしと伝わってくる。
「でもいつか、貴女と一緒に飲んでみたいわ。きっと楽しいと思うの。ドライや兄様の事を二人であーだこーだと愚痴りながら、一緒に明け方まで飲み明かしたりしてさ」
楽しそうに語る彼女の姿はなんだか子供じみて見えた。でも、次の瞬間、彼女のトーンは一気に下がってしまう。
「本当はさ、ヘクターともこうやって飲みたかったんだ……」
ヘクター=オーガスト。確かドライ=オーガストの兄だったはず。でも彼は――
「もう……無理だけどね」
――3年前の事件で帰らぬ人になっている。
「ベロニカ様……」
「私はね、リーゼロッテ。あいつが何かに悩んでいたのを知ってるんだ。だけど、それを兄様に話せずにいた。オーガストの当主は兄様だからさ、私がでしゃばる訳にはいかなかった。あいつが何か悩んでいるなら、相談すべき相手は兄様だったんだ」
ベロニカ様は月を見上げながら、静かに続ける。
「でもね。あいつが兄様に相談する事は最後までなかった。そして、あの事件が起きた。私はさ、今でもあの時、ヘクターの悩みを聞いてやればよかったのかなって思うんだ。そしたら、何かが変わったかもしれないんじゃないかって」
「ベロニカ様……」
「だからさ、リーゼロッテも何か悩んでたりするなら、私に話して欲しいんだ。もう、あの時みたいな後悔はしたくないからさ」
ベロニカ様はそう言いながら私の肩を両手で強く掴まれる。
その手の強さが、彼女の思いの強さを表しているように思えた。
だから、私はすべてを話そうと決心した。
「ベロニカ様。私の話を聞いていただけますか?」
「ええ。聞くわ。話してみて」
彼女は、バルコニーの隅に用意されていた椅子を2脚準備し、私に座るように促す。
そして私は彼女にすべてを打ち上げた。
御父様の事
御義母様や2人の姉の事
リンクスの家の事
ヴェーチェルの家の事
そして、心から大事に思っていた彼女の事
所々、言葉に詰まってしまう私を、ベロニカ様は焦って話す必要はないと優しく応えてくれた。
そんな彼女の優しさが分かったから、彼女に包み隠す事なくすべてを打ち明けた。
すべてを話きった後、ベロニカ様は少しの間、物思いに耽られた後、私の頭を軽く小突かれた。
「っ痛、どうして!?」
「私やトレイシー御義姉様に、こんな大事な事を黙っていたおしおき」
「そんなぁ」
理不尽だ。ベロニカ様やトレイシー様と出会ってからまだ数日しかたっていないのに。
私の不満げな顔を見たベロニカ様は、まるで面白いものでも見たかのように声を上げてお笑いになられた。
「あははは、ごめんごめん。でもほんと可愛いわ」
「冗談はやめてください」
私はいつまでも笑い続ける彼女を恨めしげに睨み付ける。それが余計に彼女を楽しませる結果になってしまっていた。
「あははは。そうね、ちゃんと謝るわ。ごめんねリーゼロッテ」
「……いえ、分かって頂ければればそれで」
「そして、ごめんね。気づいてあげれなくて。でももう大丈夫よ」
彼女は、椅子から立ち上がり私の頭を胸元に抱きよせる。突然の彼女の行動に私は驚き戸惑ってしまう。
でもそれ以上に、彼女の言葉が私に衝撃を与えた。
「貴女は私の姪、オーガストの一員になるの。オーガストは絶対に貴女を裏切らない。何があっても貴女を守り抜くわ」
彼女は抱く力をそっと緩め、私の顔を覗き込む。
「オーガストは一族を守る。貴女の思いも意思も決意もすべてを。だから安心して声を出していいのよ。貴女が誰かを好きだと思う気持ちを、心の奥深くに閉じ込める必要なんてないわ。貴女が大事にしたい思いを無理に捨て去る事はないわ。もしそれを誰かが咎めるなら、オーガストはそれを許さない」
そっと私の頬なでる彼女の指が、とても優しくそして愛おしく思える。
「ヴェーチェル候が何かを言ってきたとしても、このベロニカ姉さんがガツンと言ってあげる! 私の可愛い姪に、口出しするなって。それにさ、貴女はヴェーチェルやオーガスト以前にリーゼロッテっていう存在よ。家とかそんな事関係なく、貴女は私の可愛い姪だわ。だから貴女の事を大事に思う。って、えっと、あれ? ちょっと、泣かないでよ。今ので泣くところあった?!」
ベロニカ様に言われて、初めて自分が泣いている事に気がついた。
私の様子にあたふたする彼女の姿が何だか滑稽に思えて、涙を流したまま、噴出してしまう。
「もう、ほんと何なのよ」
「あははは」
そんな私に釣られて、ベロニカ様も笑いだす。あぁ、私の悩みなんてこんなに簡単に消え去るものだったんだ。それがまた可笑しく思えて笑ってしまう。
誰かに思いを打ち明け、聞いてもらうだけの事。それだけの事が、今までずっと出来ずにいた。
(ジニーにも全部話そう。それからどうしていけばいいか一緒に話してみればいいんだ)
ヴェーチェルの人間だからだとか、オーガストの人間だからとか関係ない。
私が私としてどう考えているか。それを彼女に伝えよう。
「ありがとうございます。ベロニカ様」
「その顔は、何かふっきれたのかな。まぁ、可愛い姪の為ならこのぐらいお安い御用よ」
月明かりの下、真っ赤な髪を靡かせながら優しく微笑む彼女の姿が本当に素敵に思えた。
私もここにいれば、彼女のように素敵な女性になれるのだろうか?
ドライとの婚約なんて関係なく、私にとって彼女達オーガストの女性達の存在は非常に大きなものへとなっていった。
□□□
ベロニカ様とはその後も、いろいろな事を話した。
アゼル様がトレイシー様に頭があがらない事。
アゼル様がどれだけベロニカ様に甘いかという事。
ドライが生まれた時の事。
そして、ドライの兄ヘクターの事。
彼女の口から語られるそういった話が、私の中のオーガストへの凝り固まった思いを簡単に崩してしていく。いつまでも話を聞いていたい、そう思っていた矢先、月明かりに照らされた庭に何かの影が動くのを見つけた。
「ベロニカ様。こんな時間に警備の方って巡回されるんですか?」
何気ない私の言葉に、ベロニカ様は不思議と真剣な顔で応えた。
「夜も巡回はいるわよ。ただ、警備の人間が少ないから要所しか巡回はしないわ。でもどうしてそんな事を聞くの?」
「いえ、先ほど庭の辺りで影が動くのが見えたので。誰かいるのかなって思って」
私の答えに、ベロニカ様は表情を険しいものへと変わる。
「来て!」
彼女は、そう言うと私の腕を掴み走りだす。
「べ、ベロニカ様?」
「説明は後! すぐ御義姉様の部屋に向かうわ。その前に」
彼女は、廊下に展示されていた甲冑の腰に吊るされていた剣を鞘ごと取り外す。
そして、剣を引き抜き、鞘を床に投げ捨てる。
その途端、月明かりに照らされ、廊下の先に人影が伸びる。
「こっちよ! 急いで!」
ベロニカ様に引かれて階段を駆け上る。
上の階には、トレイシー様とアゼル様のお部屋があるはず。彼女が目指す先はそこだろう。
「兄様がいらっしゃればいいのだけれど」
不安そうな顔で走り続ける、彼女の表情が尋常ではない状況を物語っていた。
「ここよ。入って!」
「ベロニカ様は?」
ベロニカ様に促され入った部屋では、トレイシー様が異変に気づき、護身用と思われるナイフを取り出していた。
「御義姉様、襲撃です」
「確かなの?」
「リーゼロッテが庭に人影を確認しています。あと、先ほど廊下で人の気配を感じました」
ベロニカ様の言葉に、トレイシー様の顔色が曇る。
「アゼル様はこちらに戻られていないわ。多分、1階の執務室よ。とにかくリーゼロッテは奥に隠れていないさい。いい?絶対に出てきてはだめよ?」
「そんな! 嫌です。私だけ隠れてなんて!」
パンッ
「聞き分けなさい、リーゼロッテ!」
頬を叩かれ、私はそのとき初めてトレイシー様とベロニカ様の表情に気がつく。
「貴女はオーガストではないわ。関係ないのだから、この奥でおとなしくしていなさい」
優しく私を諭すトレイシー様の声が、少し震えているのに気がつく。
彼女達は私を巻き込まないよう、自分達を犠牲にするつもりなのだ。
(嫌だ、私はまた大事な人が傷つくかもしれないのに、何もできないの?)
私の存在を拒絶するかのよう、扉は重く閉じられた。