4-7 水魔術を教えようと思います
ベイルファーストの森を一望できる丘の上に、その男と老婆は佇んでいた。
「へぇ、もう3体もやられちゃったかぁ。結構やるね、相手さんも。」
男はまるで盤上のゲームを楽しむように、その光景を眺めている。
「魔狼程度ではこの程度でしょう。しかしながら、かなりの成果ではないかと」
「うん、いいんじゃないかな。これなら大公もお喜びになると思うよ」
男はそう言って、老婆に微笑みかける。
「そのお言葉、この老いぼれには何よりの励みとなりましょう。我が僕たる魔狼の力を、シュトリ様にお認め頂けた喜び。このビューネ、死して灰となるその時まで、決して忘れる事は御座いません」
「あはは、大げさだよビューネ。僕も君の魔狼の実力が知る事ができて、ここに来た甲斐があったよ。それに、ここに来たおかげで彼女を見つける事が出来たしね。ハルファス、手配の方はどう?」
「っは、ビューネ様の魔狼に併せ、動く手筈となっております」
シュトリと呼ばれた男の背後に、それまでいなかったはずの軍服の女が現れる。
「そう、ありがとうハルファス。ふふ、こんな所でまた君に会えるなんて、まるで運命のようじゃないか。君はそうは思わないかい? ねぇ、ジニーちゃん」
男は森に背を向け歩き出す。その足取りは、まるで恋人にでも会いに行くかのように軽かった。
□□□
「ジニー! よけろ!」
大型の魔獣が突然、私達に向かって飛び掛って来る。
見た目は狼のようだが、その頭部には3本の角が生えていた。
私はとっさに地面を蹴って転がる。
魔獣は私とヴァインがいた辺りを駆け抜け、そのまま反転し私目掛けて突進してくる。
(まずい、避けられない!)
身体を起こす最中だった私は、飛び掛ってくる獣を避ける手段がなかった。
「――穿ち衝け! 【水衝】!」
「キャウン!」
魔獣の頭部にヴァインの【水衝】が突き刺さる。
その一撃に、獣は大きく跳ね飛ばされ、地面に倒れる。
「やったの?」
「いいや、まだだ。この程度では殺りきれない」
ヴァインの言葉通り、魔獣はゆっくりと肢体を起こし、再び私に狙いを定める。このままでは、いずれ魔獣の餌食となるだろう。せめて、魔術を発動する隙があれば……
「ヴァイン。お願いがあるの。少しだけ時間を稼いでもらえないかな?」
「……まかせろ。まぁ、そんなにはもたねぇけど」
私には1つだけ、試す価値のある魔術があった。この魔術はまだ一度も実践で用いた事はなく、何よりあの魔獣相手に使うのであれば、維持や誘導が絶対に必要となるだろう。私にとって維持も誘導もまだまだ苦手な領域だ。うまくいく保障なんてない。
でも、ここでなんとかしなければ、私だけではなくヴァインの命さえ危うい。
「お願い! はじめるわ!」
(絶対に成功させてみせる!)
私は体中のオドに働きかけ、魔素を集め始める。
炎と水の2種類の魔素を……
□□□
ジニーが魔導を開始した。ここでこいつにジニーを襲わせる訳にはいかない。
だが、俺に出来ることがそれほどあるだろうか。
水魔術は基本に足止めが精一杯だ。
しかも、魔獣はさっきからジニーのほうを向きながらも、俺の方も何度か伺っている。
【水衝】を警戒しているに違いない。
「――穿ち衝け! 【水衝】!」
バシャン!
「グルゥゥ!」
魔獣は身を翻して水の槍をかわす。
やはり【水衝】は警戒されている。これでは当てるのは困難だ。
【流動】で足止めをするか?
(いや、こいつはその程度なら迂回してしまうだろう)
【水衝】で牽制を続ける?
(だめだ、直撃してもたいしたダメージにはなっていないし、多用すれば相手に魔術を慣れさせるだけだ)
やはり水魔術では、相手を無力化する事さえ困難なのか?
暗い思いが頭をかすめる。俺には時間稼ぎさえできねぇのか。
『ヴァインに教えてあげる。水の魔術が本当はすごいんだって事』
その時、ジニーの言葉が俺の脳裏によぎった。
そうだ……その手があるじゃないか。
俺は身体中のオドを活性化し水の魔素を集める。
水の魔素を転換し、水のオドへと変える。
(問題は、ここからだ!)
俺は水のオドを誘導し、魔獣へと細く細く延ばしていく。
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ジニーが俺に教えた魔術は2種類あった。
『ヴァイン、あそこの水たまりの水を、移動させられる?』
『そりゃできるだろ。水には流動の本質があるんだから』
土や炎では難しいが、水はもともと本質として流動する性質が備わっている。
そのため、水のオドを干渉させることで水たまりの水自体に流動を促すことは可能だ。
『うん。ならたぶん大丈夫。ヴァインには私が考えた2つの水魔術を教えるね』
『2つ?』
『1つは水の動きを抑制し、とめる魔術』
『そんなの、【流動】と変わんねぇじゃねぇか』
【流動】は水のオドを水自体に干渉し、流動を促す魔術だ。
流動を促す時にどのような速度で移動させるかはオドが許す範囲で魔術師の思い通りに調整する事ができる。
『うーん、ちょっと違うんだけどね。ヴァインはさ、動いている水、そうだなぁ川とか? そういうものも【流動】で動きに干渉することができる?』
動いているものへの干渉はかなり難しい。
だが水のオドを上手く干渉させる事が出来ればそれも可能だ。
『やった事はねぇけど、たぶん出来ると思う。そんな長い時間は無理だけどな』
『流石、ヴァインだね。じゃぁちょっと見てて』
そういうと、ジニーは俺の目の前で自分の指先をナイフで切り裂いた。
『お、おぃ! 何してんだ!』
慌てて手当てしようとする俺を、ジニーは微笑んで止める。
『そこで見ててね』
ジニーはゆっくりと水の魔素を集め始めた。
『水のオドよ転き換ぜよ。基は汝が所従なり。溢決せしは汝が同胞なり。我が命に従い、己が導け。【抑制】』
(【抑制】? 初めて聞く魔術だ)
ジニーはオドを転換し、魔術を発動させる。
オドの光はジニーの指先を包む。
そして光が消えたとき、指から零れ落ちていた血の流れは止っていた。
(止血したのか? 水の魔術で?)
『ヴァイン、人間の身体の60%以上は水でできてるの。知らないかもしれないけど、水のオドは人間の身体に干渉する事が出来る。医療が発達していないこの地では、その事は知られていないけどね。』
『何を言ってるんだ。人間の身体が水? 人間の身体は魂と魄で出来て……』
『これがその証拠。身体に流れる血に至っては90%が水なの。だから、水のオドで流れを抑制するとこんな事まで出来てしまう』
そういってジニーは止血された指先を俺に見せつけた。
『ヴァイン。川の流れさえ干渉できる貴方なら、生き物に流れる血の流れにさえ干渉できてしまうはず。私には流石に無理だったけどね』
考えたことも無かった。水魔術で生き物の血の流れに干渉? 水魔術を止血に用いるなんて話さえ聞いたことが無い!
『生き物はしばらくの間、血の流れが止まれば死ぬわ。ヴァイン。貴方に教える1つ目の魔術はこれ』
めちゃくちゃだ。こんな事が公けになれば、俺もジニーもただではすまない!
『相手の血の流れを支配する魔術。【抑制】』
□□□
伸ばした水のオドが獣の身体に触れる。
「?!」
魔獣は違和感を感じたのか、距離をとろうとする。だが、気づくのが遅すぎた。
「水のオドよ転き換ぜよ――」
内在オドが持っていかれる。だが、ここで負けるわけにはいかない。
「――基は汝が所従なり。溢決せしは汝が同胞なり――」
(伸ばせ! 伸ばせ! 伸ばせ! 伸ばせ! )
身体の虚脱感が走る。
「――俺の力をくれてやる!! 水よ俺に従え!」
頭痛と吐き気が俺の身体を襲う。だが、同時にオドの糸は奴の身体を縛りつける。
「――水よ!オドよ! 己が導け!【抑制】!」
一気に身体からオドが抜け落ちていく。
俺は立ち続ける事ができず、地面に倒れ込んでしまう。
だが、俺の魔術は、魔獣を確実な死へと誘っていた。
「ギャウン!」
やつは一瞬体をびくつかせた後、口から泡を吐きその動きを止めた。
ドサッ
そして、紐の切れた人形のように地面へと崩れ落ちる。
(やった……俺の魔術で、敵を倒したんだ)
やったんだ! 俺は。
最弱とまで言われた水魔術で、魔獣を倒したんだ!
俺は喜びを分かち合いたく思い、ジニーの姿を探した。
だが、俺の目に映ったのは、今にもジニーに襲い掛かろうとしている魔獣の姿だった。
(まだ他にいたのか! くそぅ、身体が動かねぇ!)
「ジニー!」
もっと力があれば、違った展開になっただろうか。
悔しさに涙が溢れる。
目の前で広げられるであろう惨劇に、目を背けた次の瞬間
――世界は白銀に染まった――