1-3 歩き始めようと思います
私が意識を取り戻してから、数日が過ぎていた。
頭痛や吐き気、身体の重い苦しさのようなものすっかり治まっており、立って歩ける程度には回復していた。
「お嬢様。あまり無理をされては……。」
「だ、大丈夫……です。」
彼女の記憶を掘り起こし、たどたどしくではあるが、この世界の言葉で返す。
この世界の言葉は日本語ではなく、前の世界のどの言語とも違う独自の異国語であることが分かった。
彼女は3歳の知識なりに異国語を理解しており、私は彼女の記憶に残る知識を掘り起こして言葉を紡いでいた。
病床にあった事と、彼女がまだ3歳だった事が功を奏したのであろう、執事風の男――シュナイダーは私の言葉に対して訝しがる事無く接してくれていた。
まだ四肢に力が入りきらない私を、シュナイダーが支えて一緒に歩いてくれている。周りのメイド達はそんな私の姿を不安げに見つめていた。
「シュナイダーありがとう。でもほら、大丈夫ですわ」
彼の腕を解き、一人で立って見せにこりと微笑む。そんな私の姿にシュナイダーも安心したのだろう、口角を少し上げ微笑んでくれた。
「左様で御座いますか。お嬢様がそうおっしゃられるならば、私どもも安心いたします。ですが、せめて暫くの間だけは、お体をお支えする事をお許し下さい」
「ええ……有難うシュナイダー」
彼に支えられながら私は部屋を抜け、日が差し込む窓の外に目をやる。そこには、青々とした木々の緑と美し花々が色とりどりに咲き乱れていた。それは、陰鬱だった私の心を解きほぐすかのように、優しく穏やかな空気で私を包み込んでくれた。
「……いい天気ね。」
窓越しに感じる日の光の強さに、春の終わりを感じる。
私はあの日から一人称を私と呼ぶ事にしていた。
確かに今現在も、私の中にあるのは【杜 霧守】としての自我だ。
しかし、これは彼女の記憶を汚した弊害にすぎず、この体は誰が何と言おうと彼女自身のものだ。
一人称を俺から私に換える事で、この体が彼女のものである事を自分自身に言い聞かせたかった。こんなものは、ただの言い訳に過ぎないのは分かっている。それでも――
『もしかしたら、いつかは彼女としての自我が目覚めるかもしれないしな』
「お嬢様、今何かおっしゃられましたか?」
「い、いいえ! て、天気が良くてよかったと言っただけですわ。」
気を許すとまだ日本語が出てしまう。私はヴァージニア=マリノだ。だが同時にヴァージニアではない何かでもあるのだ。それはまだ人には知られる訳にはいかない。
決心を新たに、私はふらつく足で歩を進める。
□□□
「お前のお陰で、娘は立って歩けるまでに回復した。本当に有難う」
貴族風の男が、黒いローブを着た男に頭を下げる。周りからは硬い風に見られているこの男が、人に頭を下げる事は本当に珍しかった。
「いいって事さ。なんといっても、俺とお前の仲じゃねぇか」
ローブの男はそう言って、貴族風の男の肩を軽く叩く。彼にとって今回の出来事は、親友に貸しを作らせただけではなく、自らの知恵と技術の粋を用いて取り組む事が出来た良い経験となっていた。
(頭の硬い奴だと思っていたが、これ程、娘に溺愛するようになっているとはな)
王都を離れ、わざわざこんな辺境の地に出向く用も無かった為、彼の友が娘に溺愛しているなんて事は、男が知る由も無かった。彼の知る男の姿とあまりにかけ離れたその姿に、彼は最初、噴出すのを我慢するのが精一杯だった事を思い出す。
「この礼は必ずしよう」
男は彼の手を両手で握り感謝の意を伝える。
今でも剣の修練をかかさない男の手は硬く、それは男と彼との過去の日々を思い出させるものだった。
魔術師として生きてきた彼と、剣の腕を磨きこの辺境の領地を管理し続けている彼。
まったく接点が無いはずの二人が、同じ時間を過ごし、そして今も同じ場所にいる。
それが、彼にはなんだか不思議に思えていた。
窓の外には、一人の少女が執事に支えられながら、緑の木々や花々の姿を楽しんでいる。
(俺とこいつの出会いがなければ、あの子は生きてはいなかっただろう。不思議な縁だな)
目の前の男と彼との出会いが、あの金髪の少女の命を救う事に繋がっている。
これはただの偶然なのだろうか。それとも誰かの思惑か何かが働いているのだろうか。
(馬鹿馬鹿しい)
考えても意味がない。
魂に傷を負った少女がいて、それを彼が治療した。ただそれだけの事だ。だが――
(これで終わりって事には、ならないだろうな)
それは漠然とした予感だった。だが心のどこかでそれが必然であると、彼は感じられていた。
何より人間相手の魂の治療なんてものは、あまりに希少なケースである。
これから彼女に何が起きるか、彼にも分からない。
もしかすれば彼には考えも付かないような、面白いデーターが取れるかもしれない。
(いつでも研究所を出れるように、資料はまとめておくか……)
「いや、お礼とかはいらねぇ。まぁ、また何かあれば気軽に言ってくれ」
そういって彼は、男の家を後にする。
(王都に戻り次第、これまでの研究内容をまとめておかなければな)
彼は王都へ向かう馬車の中、男の家の庭で楽しそうに笑う少女の姿を思い出す。
「またな。ヴァージニア=マリノ」
それがローブの男――フィルツ=オルストイとヴァージニア=マリノとの最初の邂逅だった。