3
翌日、渚は異世界の朝を迎えていた。
寝て起きれば元通り、というわけにはいかなかったのは残念で仕方ない。
「ランさん、おはようございます。良いピクニック日和ですね」
渚は木々の間から見える快晴の空を見上げながら、部屋まで様子を見に来たランに微笑みかける。
誠に残念で仕方がない。
「おはようございます。ちゃんと寝られたようで何よりです。ちゃんと、お弁当の仕込みは出来ていますよ」
ランの尻尾が縦横無尽に振りまわされる。
何から何まで、ランには世話になりっぱなしである。どうすればこの恩を返せるかと考えつつ、今日はとりあえず森の散策に行こうと考えた。
ここは賢者の森とまで言われているのだから、きっと渚を満足させてくれるはずだ。それに、賢者ことエントも、元の体に戻る方法を知っている可能性だってあった。
「うぅ~……。おはよう、ございます、ランと唐……渚」
そうしているうちに、三階からアルモが下りてくる。
ぴったり閉じた二枚貝みたいな寝ぼけ眼をこすり、服装も乱れ塩を振りかけられた青菜のようになっている。
「おはようございます、アルモさん」
「おはよう。そんなに根を詰めて、体を壊さないでくださいね」
アルモ自身も興味からここまで頑張っているのだろうから、ほどほどの労いを掛けておく渚。
「……」
アルモの反応は不可解なもので、なぜか品定めするような視線を向けてくる。頭から足元にかけてまで、渚を観察するのだ。
別に、昨晩はちゃんと風呂をいただいた。服はシャツやズボンのようなシンプルな衣装を寝間着代わりに使わせてもらった。
「何ですか……? まだ渚のままですが」
「いや、そうじゃないんです。いえ、そうだから考えねばならないことがあるでしょう?」
渚の精神が入った状態のどこに思考する点があるのか。もしかしたら、昨晩のうちに元通りになる方法を見つけていたのだろうか。そして、それが上手く行っていない事態だったり。
アルモが恥ずかしげに、しかし必死な表情で、渚に問いかけてくる。
「どうやって風呂に入り、服を着替えたんです?」
そこまで聞いて、漸く合点がいった。
この世界の貞操観念がどうなっているか聞いていなかったが、アルモは男性の裸体をろくに見たことがないのだろう。反面で、風呂で体を洗う、服を着替える、という行為の最中に渚からしてみれば唐真の裸体を見つめる形にならねばいけないのだ。
「あ……そ、そそ、そう言えば、確かに……ッ」
ランも今頃それに気付いたらしく、顔を赤くして慌てふためく。
深く考えていなかったのは渚も同じではあるが、それぐらいに男性の裸を見ることに耐性ができているのは確かだ。逆説、唐真も渚の裸を見ていることになる。
「まぁ、別にそういうものを見る機会がなかったわけじゃないですから? たぶん、向こうではなんとか対策を取ってくれていると考えましょう」
この状況で逐一そんなことを気にしていては話が進まないと、渚は一蹴して踵を返す。
そういった大人な対応とでも言うのか、渚が冷めた反応をするとランとアルモも感心したように声を漏らしていた。
「おぉ~。渚は大人、なのですね……」
「むむ……。唐真様の裸を見ても動じないなんて……」
渚は二人の声を背に階段を下りて行った。
しかし、悪戯心とは芽生えてしまうものである。
「見てみます? 今なら、見放題ですよ」
『ブフッ!』
ランやアルモの驚く声だけに限らず、階下からヨーンが笑いを噴き出す声も聞こえてくる。
「冗談はさておき、朝ごはんを食べてさっさと森を散策しましょう」
まさかここまでダメージがあるとは思わなかった。
渚はその場を誤魔化し、さっさと階段を下りて行った。
「な、渚様……ゴホッ。その冗談は、コホコホッ……流石に、酷い……です、ゴホッ!」
「これは、目が覚めました……ケフッ! 別に、ゴホッ、興味がない……ハァ……ハァ……わけでは、ないのですけど……いえ、すみません」
「クククッ……。ナギサッちは、アハハハハッ! もしかしたら、ラミージュ様と良い勝負できるんじゃないかな……ククッ」
三者三様の感想が聞こえてくる。
そこから朝食を食べるのが遅れること1時間後、体感的には朝の九時に差し掛かろうかというころだろうか。時計もなければ日差しで読み取ることもできず、渚は今までの経験だけに頼って行動する。
そういう面で見れば、ランやルンちゃん、ココロの方が上手と言えるだろう。
この広大な森の中で、ランは地図を見ることもなく進んでいくのだ。目印らしいものすら見当たらないため、渚だと油断すると直ぐに迷子だろう。
そんなこと分かりながらも、渚は初めて見る賢者の森の生態系に目を奪われてしまう。
動物も魔物も渾然一体となって一つの生態系を形成しているのだ。一見無秩序に見える植生すら、動物達の生態に合わせて配置されている。魔物はそれを狩り、時には魔物が狩られるというピラミッド構造が管理されている。
「……森が森を管理してる?」
「凄いですよね。これが森の賢者、エント様のお力です」
ランさえも感心するのだから、エントなる魔物はニンフなどの精霊種よりも高位の存在かもしれない。もちろん、各魔物が持つ特性としての管理能力である可能性も捨てきれないが。
いずれにせよ、この森はとても美しい。
土や草木の香りはするものの、ジメジメとした腐った感じの嫌な臭いではない。木漏れ日が差し込んだ先で、小さな妖精達が躍り歌っている。葉っぱの笛が、樹洞の太鼓が、虫達の弦楽器が、舞踏会を彩って行く。
ところどころに掛かった数本の蔦が、森を区切るようにしている。区画整備の役割をなしているらしい。
「何かを教えてもらおうにも、これじゃ私が差しだせるものなんてないね。挨拶をしたら帰りましょうか」
「諦めるのが早いですね、渚様。ルンちゃんと一緒に、唐真様と同じくマンザイをやってみてはいかがでしょう? エント様も期待されていると思いますよ」
「難しいことを言いますねぇ。昨晩よりも慣れてくれたとは言え、ルンちゃんも距離が空いてますし、ココロちゃんは一緒に来てくれませんでしたし……。即興で漫才ができるほど私は豪胆じゃありませんよ」
「まぁ、私もマンザイとやらはよくわかりませんからね……」
賢者とまで言われたエントと取引できるような知識が思い浮かばず、渚は早々にピクニックだけして帰りたいと考える。もちろん、エントの知恵を借りれば元の体に戻るのが早まるかもしれないが、無い袖は振れない。
ランの提案通り、あまり道具などがなくてもできる芸も考えたが、渚は自分の才能を良く分かっていた。相方とて、ルンちゃんかランのどちらかだ。
アルモは三階にひきこもってしまったし、ヨーンはいつもの如く惰眠を貪っている。
「本は沢山読んできたけど、当たり前のような知識しか取り入れてこなかったのがよく分かるなぁ。向こうとこちらじゃ全然その基準も違うから、余計に役立つ知識がないね。小説だって、自分が物語以上に凄い経験をしてる所為で前みたいにのめりこめないし……」
散策を続けながら、渚は一人ごちる。
そして、何が面白いのかランや森がクスクスと笑うのだ。
「森もこうおっしゃっていますよ。『渚様は自信を過小評価してしまうきらいがある』と」
「なんでそんなことまで……!?」
まるで今までのことを見ていたかのような発言に、渚も驚きを隠せない。
「ずっと、ここまでの道のりの話を聞いておったからじゃよ」
さらに驚いたのは、頭上から降りてくる声だった。
振り返れば――もしくは見上げれば、そこには喋る大樹があった。
「こ、これが……エント……」
話している間に賢者の足元まで来ていたのだろう。確かに、噂に違わぬ喋る古木と言ったイメージそのままであった。樹洞が目や口の役割を果たしているとみて良いのだろうか、不気味な木の化け物にも見える。
存在を聞いていなければ、渚とてこの不意打ちに腰を抜かしていたに違いない。
「渚、と言ったか。お初お目にかかる、この森の賢者エントだ。道中のことは、森である限りワシの耳に届くのだよ。森の者達が、教えてくれるのだ」
再度口を開いたかと思えば、幹に老人の顔に似たものが浮かび上がってくるのだ。
「は、はぁ……。えっと、初めまして、エント様。私は漣 渚です……。どうぞ、よろしくお願いします」
「うむ。まぁ、そう堅くなりなさるな。気遅れするほど、渚は劣ってはおらんよ。森のことを視るだけの洞察力はあろう」
エントはそう言うが、どちらかと言えば驚きの方が勝っている。
ここまでの話がほとんど筒抜けだったことを思うと、それはそれで恥ずかしくもある。
「どうも……。本来は危険な道中、守ってくださってありがとうございます。それと、私にそのような評価、痛み入ります……」
一言ひとことが、嵐を叩きつけられているような勢いなのだ。まだ春一番ぐらいのもので済んでいるが、どうしてエントの喋りがゆっくりとされるのかよく分かる。
本当なら装備の一つでも揃えてくる程度に森の中は危険なのだが、以前に何やら恩義があるためかここまで無事に通してもらえたらしいのだ。ランにそれを聞いていたため、渚もお礼を言っておく。
「賢者様、ご挨拶もそこそこに申し訳ございませんが、渚様――唐真様を元に戻す方法をご存じないでしょうか?」
「うむ……。知らぬわけではないがのお。だが、ワシが教えるほどのこともなかろう」
「それはいったい……あッ」
物知り顔のエントに、どうして教えてくれないのか、と問おうとした瞬間だった。渚もエントの言わんとすることを理解した。
「渚様?」
「うん、わかった。最初、あの三階の部屋を私はなぜか『書庫』って呼んだんですよ。本の一冊もない部屋を見て、いったい誰が『書庫』だなんて思います?」
「そう言えば、確かに……」
渚は何らかの原因で、三階が書庫として――正しくは知識の集積場としての役割を持つことを知っていた。ともなれば、渚が元に戻るための鍵は『書庫』の起動にあるとみて間違いない。
「時間はもう少しあろう。何も話せることがないなどと言わず、渚の知ることを教えてほしい。そちらにいる魔物は何を思うのか、という一つとっても違ってくるのではないか」
そんな些細なことで良いのなら、と渚も気を緩めて話を始める。いや、気を緩めると今度はエントの相槌一つで後に転げそうになる。
それからしばらく、渚は向こうの世界にいる仲間達とのことを話した。スパイとしての守秘義務がどうのというのは、もはや別世界ゆえに気にしないことにする。
ランの作ってきてくれたお弁当を昼食に挟みつつ、語ること数時間。
「あら、気づいたらもう夕刻前ですね」
「もうそんな時間ですか」
「ずいぶんと話し込んでしまったようじゃなあ。これ以上遅くなったなら、ワシでもお主らの安全を保障できん」
ランの言葉に渚が空を見上げる。既に日が傾き始めているのを見て、エントも時間を忘れていたといった様子である。
エントの庇護なしで森を帰るのは難しいことなのだろう。ランも、自殺行為は勘弁です、とぼやきながら帰り支度を始める。
「渚、今日は楽しかったぞ。もし、またこちらへ来ることがあるようなら、渚達の話を聞かせておくれ」
帰り際、エントの間伸びした声が聞こえてくる。
「はい、もし来られるようなら」
振り返って答える。
また、こっちの世界へ来ることなどできるのかはわからないが。いや、たぶん、そんな機会は二度とないと分かっているからこそのエントの言葉なのだろう。
「もう一度来れるかどうかよりも、戻れるかを心配しなければならないのですけどね。さぁ、急ぎましょう、渚様」
「え……あぁ、そうですね」
不意に立ち止まった渚の心境を読み取ったわけでもあるまい。先を促すランに続いて、渚は早足にもと来た道を戻る。そして、日が完全に落ち着る前になんとか家へとたどり着いた。
「これだ! これだ!」
扉を開くなり、唐突に聞こえてくるのはアルモのその叫び声だった。
有名な数学者が発した言葉だ。王冠の真贋を見極めるための機知を発見した際のもので、一体全体どうしたというのか。
「うもぉ……静かに寝かせてよ」
朝から今まで、惰眠を貪っていたというのにヨーンが呆れた様子でアルモに文句を言う。
「いったい、どうしたんですか?」
「私を元に戻す方法がわかったんじゃないでしょうか? エントがおっしゃっていましたし」
予言というのは過ぎた代物だが、エントが何かを察したのであればその通りなのだと思う。
「その通りです! この家では短い間にいろいろな魔法が使用されました。唐真の召喚に始まり、書庫の使用、王都への移動など、それらだけでも魔力が大量に残留してしまったわけです。それらが合わさることにより、渚の知識欲と僅かな精神のみがこちらへ召喚される形になったのでしょう!
一つの器に二つの精神が入るというのは余程稀なことなので、唐真の精神は一時的ながら向こうの世界にいる渚へと移る形でバランスを取ったのかと。おっと、それよりも戻す方法としては、渚の――いえ、唐真の持っているスマートフォンとやらが書庫とリンクする手段になるはずです」
ラミージュのしたことの偉大さに興奮しているのか、アルモの畳み掛けるような解説が三十分ほど続く。渚やランが辟易して、ヨーンが居眠りを始めたころに漸くアルモも正気を取り戻す。
「ハッ……。こんなことをしている場合じゃありません。早く、私の理論を確かめてみましょう! ラミージュ様が残した力の一端を用いた、精神転移の式です」
家の中へと駆けて行くアルモ。
それを見送り、渚はフッと思ったことをランに問いかける。
「私が魔物について聞く時も、あんな感じでした?」
「……えぇ」
「ムニャムニャ……ランラン、もう食べられないよ……」
答えづらそうなランと、寝言をほざくヨーンを横目に、渚は家の中へ入って行った。
三階まで向かう間に、渚は家の中を少し長い目に見渡す。短い間だったが、初めて訪れた異世界を心に刻もうとする。
古ぼけていながらも温か味のあるリビングで皆と食事をした。事あるごとにソファーをヨーンが占領していたせいで、初めて座ることになった。
そういえば、ヨーンの皮を取っていないことを思い出す。
「次に来れた時の楽しみに取っておきますね」
一人、呟く。
立ち上がり、二階へ向かえば、森の木漏れ日が差し込む小ぢんまりとしながらも住み心地の良い部屋が並ぶ。初めて泊まった渚さえ、ぐっすりと寝られるほどにゆったりとした空間だ。
「あッ、唐真さんの部屋を使わせてもらったけど、ベッドメイクしてないや」
「私がしておきますので、安心して帰ってください」
最後までランに世話を焼かせてしまう。
三階へ辿り着き、渚はアルモの今か今かと言わんばかりの表情にため息を吐く。
まだ散らかったままの床に気づく。
「あぁ、現場保存は大切ですからね。何が原因になったのかわかったものではありません」
「小さな要因すら重要になるかもしれないのね。でも、ありがとうございます」
床をそのままにしたことではなく、渚のために頭を捻ってくれたことだ。きっと、何度もオーバーヒートして頭髪が乱れるくらい頑張ってくれたのだろう。
「な、何を……!? 別に、私はラミージュ様の叡智を学ぼうとしただけで……ッ!」
「そうでしたね。そうでした」
この憎まれ口を聞くのも最初で最後になるのかと思うと、なんとなく名残惜しい。
「さぁ、さっさと式を展開しますよッ」
恥ずかしさを紛らわせようと、アルモが促してくる。
ポケットに入っている、渚は見慣れているスマートフォンという電子端末を取り出して、とりあえず画面を表示させてみる。
「これから、どうすればキャッ……!?」
言いかけたところで、唐突にスマートフォンから光と衝撃が漏れだす。慌てて端末を落としてしまったが、壊れる様子もなくエネルギーを放出し続ける。
渦巻くように現れた文字列が、ドーム状の書庫に反射して乱れる。
飛び跳ね、すり抜け、部屋を埋め尽くして行った。
「渚ッ。もう道は見えてるはずです!」
どこからか、文字に覆い隠されたアルモの声が聞こえてくる。
アルモの言う通り、見渡せば一か所だけ規則正しく文字が上下に流れている面があった。
「……うん。さようなら!」
深呼吸して、渚は皆に叫んだ。
「さようなら!」
心優しき守り手クー・シーのランは、これからも皆の世話を焼いていくのだろう。
「ばいばーいッ!」
怠惰で睡眠好きのローンであるヨーンは、他のところではきっと役に立ってくれるはずだ。
「また会いましょう、渚!」
意地っ張りで自己主張の強い、それでも気の良いアルモはきっとラミージュ以上に素敵な魔女になれると思う。
「ウキキッ!」
「!」
ルンちゃんも、ココロも、素敵な御主人に会えて本当に良かった。
「皆さん、どうか次に会うときは、夢見た魔物園を見せてくださいね」
もう聞こえることもなくなっただろう言葉は、力の渦の中へ吸い込まれていく。
同時に渚の体も、いつの間にか光り輝く半透明な姿になっていた。
そして、知識の中に埋もれて行く。
もうちっとだけ続くんじゃ。