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1ぱいめ

高校を卒業したあと、わたしは進学せずに働くことにした。

キャンパスライフというものに憧れはあったが、その前の受験という関門で諦めた。

あれはもういやだ。高校受験の際に、悟っている。

そこそこの頭があるわけでもなかったし、ことさら学びたい分野があるわけでもない。

わたしに限っては、わざわざ学費を出してもらってまで行くものじゃないと、進学という選択肢は早々から消えていた。あ、もちろん自腹や奨学金だなんてもってのほかだ。

就職先にと選んだのは、父親の経営している喫茶店。

小さい頃から手伝っていたということもあって、わたしにとって諸々のハードルは低い。

よく言おうとすれば親孝行かもしれなくて、悪く言えば、というか実態としては向上心がないだとか脛齧りだとか言うんだろうな。

常連客も、そしていやな客も。それはその、まったくいないというわけではないのだけれど。

わたしはこうしてぬるま湯に浸かっている。


***


馴染み深い軋みは、ドアの開閉のときに出る音だ。そこへカランカランと短いベルの音が重なるから、あまり気にはならないけれど。


「いらっしゃいませー、1名様でしょうか?はい、では空いているお席にどうぞ」


来客の合図に、洗い物を止めてお決まりの台詞で対応する。

入ってきたのは若い女性がひとり。

さて、準備開始だ。グラスの曇りと汚れを確認して、氷を4つと水を入れる。続けざまに保冷庫から出したおしぼりと共にお盆の上へ。

もう何百と繰り返した動作だから、考えなくとも身体が勝手に動く。

その間にお客さんの様子を目だけで伺った。

初めての来店だろう、その印象は一度見たら忘れないだろうから。

ザ・お嬢さまという風情の穏やかで整った顔立ち。わたしが男だったら、守ってあげたいような儚げな美人だ。

緩やかなウェーブのかかった髪は色素が薄く――きっと染めているのだろう。そして巻き巻きしているのだろう。

真っ白なカーデの下のブラウスは皺がなく、ふんわりとしたパステルピンクのスカートも素晴らしくふっくら膨らんでいる。

それに足元の荷物籠に収まっているバッグは、あまりギラギラした有名ブランドのものじゃない、若い女の子向けのやつだ。

あそこのバッグはわたしもほしいと思っていた。でもきっと買ったところで合わせられる服がないし、背伸びするにも痛すぎる金額だからと諦めた過去がある。

そこそこお金のある女子大生、といったところだろうか。


「ご注文がお決まりになりましたら、お声掛けくださいね」


ちら、とつい彼女の胸元に目をやってしまう。

あれは本物だろうか。それともパットを増し増ししちゃっているのだろうか。

彼女を印象付けるものとして綺麗な顔立ちという部分はあるのだけれど、何よりその胸の巨大さに目を行く。むしろそこにばかり目が行く。


「あぁ、ではこのまま注文いいかしら?アイスコーヒーをひとつ頼みたいの」


注文カードから目を上げて、彼女は微笑んだ。まるで大輪の水蓮のように、華やかで透明感のある表情で。

本当に、わたしが男だったのならば。きっと、ここで彼女に恋に落ちたのだろうけれど。

現実、女のわたしは憧れと、羨望と――それから、いいなあと思うだけに留まった。


***


彼女はアイスコーヒー1杯で長々と居座っていた。あれから客がだいたい2回転している。いや構わない。ここは喫茶店なのだし、混み合っていたわけでもないのだから。

彼女の会計が終われば客はいなくなる。洗い物の前にコーヒーを淹れて、休憩するのもいいかもしれない。


「はい、丁度頂きました。レシートをどうぞ」

「おいしいコーヒーだったわ。これから頻繁に利用させていただくつもりよ」

「ありがとうございます、お待ちいたしております」

「次回は、店員さんとお話させていただいてもいいかしら?わたくし、先日お引っ越しをしてきたばかりの。知人もいなくって」

「わたしでよろしければいつでも……は、その、お客さんの入り次第ですけれど。お相手は喜んでいたしますので」


こういった言葉は励みになる。

彼女が常連になってくれるのは喜ばしい。やはりどこかで同年代と接していないと、自分の女子的な部分が消えかかっていきそうだと感じるときがある。

それだけでなく、下心もある。実際に、窓側に座る彼女の容姿に釣られて入ってくる一見さんもいたようだったから。


「九条院なぎ、と申します。よろしくね、店員さん」

「くじょう、いん、さん。ですね」


お金持ちっぽい名前だな。

忘れないうちに復唱しておく。聞き慣れない名前は憶えやすいかというと、そうではない。

下手に歴史上や創作物上にいそうな名前だと、混同しそうだ。うっかりヶを入れてしまいそうだったり、数字が入っているところも要注意。

そうやって下手に思考に入りかけたせいだろうか、九条院さんが慌てて口を開けた。


「あっ九条ねぎではないの。わたくし、あんなにつるぺたじゃないのよ」

「は?」


下手に思考に入りかけていたせいだろう。少し聞き間違いをしてしまったようだ。


「見て!わたくしのこのおっぱいをっ!つるぺたを気取るねぎとは比べるまでもない、このたゆんたゆん具合を!!」

「なっ、なななにを!?なにを!言ってるんですかあなたはっ」

「ふふ。幼い時分にはね、そんな耳の遠い子たちが何人かいたのよ。何度ちがうと言ってもねぎ呼ばわりする子たちが。もしかして若年性難聴だったのかしらね?」

「はぁ……」

「そういうことよ。では、またね」


その勢いに呆然としている間に、九条院さんは退店していった。

ああ、丁度他のお客さんのいない時間でよかった。

あんな綺麗な女性が、おっぱいだとかつるぺただとか捲し立てている様を衆目に曝すことがなくってよかったと、わたしは深く息を吐いた。


「それはきっとあだ名だと思うよ、九条院さん……」


喫茶店には常連客だけでなく、いやな客だってたまにはくる。

こんな風に変わった客は、うん、あまりいないのだけれど。


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