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笛の音

作者: 富山晴京

 時間は九時。もう外は暗い。僕はただひたすらに英単語をノートに書きつけていた。

 “by the way”と一行に書き切って、それから僕はペンを置いた。そして背伸びをする。

 勉強を始めてから一時間ほどになる。そろそろ休憩しようと思った。棚に入れてあるキッチンタイマーを出す。それに三十分と打って、スタートさせた。

 それから鍵をもって散歩に出かけた。

 今日は星が見える。星はてんでばらばらに、それぞれの輝きを放っているように見えた。この中に星座がいくつかあるのだろうかと思い、探してみた。しかし星の中には熊も、蟹も見つかりはしなかった。探していて、よくも昔の人は星座なんか作り出せたものだと思った。そして徒労を感じてやめた。

 神社の近くを通りかかった。その時笛の音が聞こえてくるのに気が付いた。笛の音は神社の中から聞こえてくるようだ。

リコーダーに似たような音だが、どこか違う。リコーダーよりも少し音が太い気がする。多分、フルートだ。

 曲ははっきりと知っている。これはショパンのノクターンだ。

 誰が吹いているのだろう。僕は夜闇の中に、笛を吹き続ける人の姿を想像した。

 僕はキッチンタイマーのリセットボタンを押した。そしてフルートの音がやむまで、いつまでもその場に立ち尽くして聞いていた。

 やがてフルートの音がやんだ。

 僕はとっさに逃げることを考えた。僕が勝手に演奏を聞いていたことを、演奏者本人が知ったらどれほど気まずさを感じるだろう。僕の方も立ち尽くしている姿を見られたら気まずい。

 僕はランニングをしているかのようなふりをして、もと来た道を引き返し始めた。演奏者の姿を見ることはしなかった。ランニングのふりをするので精いっぱいだった。


 次の日も、そのまた次の日も、演奏は聞こえた。毎日九時に行くと、必ずフルートの音が聞こえた。

 フルートの音は神社の中から聞こえた。僕はいつしか、誰がこの演奏をしているのかを知りたくなった。

しかしかといって、演奏をしているところに堂々と入り込んで、演奏者の前に立つようなことはしたくなかった。そんなことをしたならば、演奏者はすぐさま演奏を止めてしまい、最悪その場から逃げ出して、二度と神社での演奏をしてくれなくなるかもしれない。演奏が聞けなくなるのは一番嫌だった。

 僕はそこで、演奏する誰かが来る前に神社の建物の裏に隠れることにした。これはいい考えだと思われた。一番近くで演奏が聞けるし、上手くいけば演奏者の顔も覗き見ることができるかもしれないからだった。

 僕は夕飯を食べると、すぐさま出かけた。七時ちょっと前であった。

 神社に近づいてみても、笛の音は聞こえてこない。入ってみると、まだ誰もいない。僕はすぐさま建物の後ろへと行った。

 僕は耳の片方にイヤフォンをつけて英語のリスニングをしていた。もう片方の耳は来たるべき足音に耳を澄ませていた。

 するともうすぐ九時になるというころだろうか。足音が聞こえた。僕はリスニングの音を止めて、イヤフォンを外した。

 まだ顔を見てはいけないと思った。歩いているということは、まだ僕のいるほうを見ているということだ。

 足音がやんだ。座るような音がする。

 やがてフルートの音が聞こえ始めた。いつも聞いているあの音だ。

 今なら覗き見ることができるような気がした。演奏に夢中になっている今なら。

 しかしやめることにした。万が一にも演奏を途切れさせるような真似はするべきではないと思った。それに今は音楽を聴いていたかった。

 やがて演奏が終わった。これから帰るのであろう。

 僕はどうにかして一目、顔を見ようと思った。

 足音がする。その足音がだいぶ離れてから、僕はそっと顔を出した。そして神社を出ていったのを確認すると、僕も神社を出ていった。

 神社から出て、左へ行ったほうの道へ歩いていく人がいた。その人は何か荷物を持っていた。多分、あの人が演奏をしていた人だ。

 僕は遠くからつけていった。しかし後ろ姿ばかりで、一向に顔を見ることができなかった。しかもその後ろ姿も、夜だからあんまりよく見えなかった。ただ女性だということがなんとなくわかっただけであった。

 僕はそこで一つの考えを思いついた。

 今日の演奏が終わったのが大体九時二十分ごろ。それぐらいにフルートを吹いていた人が通った道ですれ違うように歩いていけば、顔が見られる。

 翌日、僕はそれを実行した。実行するためには演奏が始まるころに神社にいてはまずいので、それまでずっと家にいた。だから演奏は聴くことができなかった。

 そして九時二十分ごろ、僕はその道を通った。やがて前方から、誰かがやってきた。その誰かは荷物を持っていた。昨日のあの荷物と似ている。演奏者本人だと思われた。

 僕はその顔に見覚えがあった。それは金澤里穂だった。彼女は僕の学校に通っているクラスメイトの一人だ。

 彼女は最近、どういうわけか学校に来ていなかった。学校に来なくなって、かれこれ二か月ぐらいになるだろうか。

 金澤さんの方は見向きもしない。他人だと思っているようだった。多分、顔を覚えていないのだろう。それほど話をしたこともなかったし。

金澤さんがどうしてあんなところで演奏をしているのかは疑問である。

吹奏楽の練習などではないはず。学校にも行かないのに、部活も何もあったものではない。しかし部活以外で笛を吹く理由らしい理由はちっとも思いつかなかった。

演奏者が金澤さんであると知ってからも、僕は毎日神社に通い続けた。

金澤さんと直接面と向かって話をしたりしようとは思わなかった。僕はただ、笛の音を聞くことができれば、それで満足であった。

ただ、たまに自分のしていることはストーカー行為ではないかと思うことはあった。好意を抱いた異性のそばを付きまとうという意味ではなるほど、そうであるというような気がした。

行動だけを見れば明らかにストーカーである。しかし僕は決して金沢さん自身に好意を抱いていたわけではなかった。神社のところで演奏を聞いているだけなのだから、ただのファンと変わりないと個人的に解釈していた。しかし聞いていることがばれたらまずいとは思っていた。

しかしばれずに居続けることはかなわなかった。

その時も、神社の裏で待っているといつも通り足音が聞こえてきた。

 僕はイヤフォンを外して、演奏を聴く準備をしていた。

 足音が止まる。そしてまた聞こえだした。その足音は建物を周りこんでいるようであった。

僕はなぜこちらへ来るのだろう。何か不審なものでも見つけたのか。

僕の歩いて来た方を見ると、ぬかるんだ道に足跡が点々と続いているではないか。

この日は雨が降った後であった。八時半くらいには雨がやんだので、やってきたのだ。

しかし彼女はそのぬかるんだ道についた足跡を見つけた。ついさっきまで雨が降っていたのだから、足跡が付いたのは八時半以降に違いない。そうしたら、まだ足跡の主は建物の後ろにいるかもしれないではないか。そう考えて彼女は足跡を追いかけてきたに違いない。

逃げる間もなく、金澤さんが姿を現した。

見つかった。僕はそう思った。

この現場を見られるということはすなわち、ストーカー行為がばれるということだと、僕は常々思っていた。

早く逃げないと通報される気がした。僕は逃げ出した。

幸い、警察が家などに来ることはなかった。

しかし警察などどうでも良かった。それよりも、演奏がもう二度と聞けなくなるのではないかという不安のほうが大きかった。

僕は、何とくだらない失敗をしてしまったのだろうと自責した。せめて足跡を靴でこすって消してしまえばよかったなどと、考えたりした。

僕はその日、いつもよりも早く、神社の方へと出かけた。あの演奏を本当に失ってしまうのかどうかが気になってしょうがなく、一刻も早くその不安を解消したかった。

もう来ないかもしれないという考えが頭にちらついた。道すがら、笛の音が聞こえない時を想像したりもした。

やはり金澤さんはまだ来ていない。まだ八時だ。僕は神社の建物の裏に座った。

待っている間はずっと、笛の音が頭の中に流れていた。あの音が失われるかもしれないという不安で押しつぶされそうだったから、少しでもそれを癒そうとあの音を思い返していた。

そして九時前になった時だった。足音が聞こえてきた。

足音はそのまま、建物を周りこむようにして近づいてきた。

金澤さんの姿が現れた。

僕は金澤さんの顔を見ないようにした。そしてじっと、座っていた。

僕は金澤さんが来たとしても、神社の裏を見ることもあるだろうとは思っていた。僕はその時が来たら、座ったままでいようと思った。そうすることで僕は、金澤さんに向かって演奏を聴きたいという意思表示をするつもりでいた。

演奏を続けてくれと説得をするつもりはなかった。無理にやらせることは嫌だったし、話しかけることになんとなくためらいも感じていた。

人影が引っ込むのが感じられた。足音が去っていく。

そして座る音がした。

笛の音が聞こえてきた。それは二日ぶりに聴く音色だった。僕は胸にこみ上げてくる歓喜を感じた。

それから三年の間、毎日演奏を僕は聴き続けた。

三年たってからは遠いところの大学に通うことになって、地元から離れて一人暮らしをすることになった。だから演奏は聞けなくなった。その代わりにスマホに録音しておいたあの演奏を時々聴いていた。

ところで金沢さんであるが、彼女はプロの音楽家になったとかいう話をどこかで聞いた。あの演奏が今もどこかでひとに聞かれているのである。それを思うと僕は自分だけのものが奪われたような気がして、何とも惜しい気持ちを感じるのだった。


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