#2 mystery
どうやってここに来たのか分からない。
パパのこと、ママのこと、友達のこと、学校のこと、今日あったことまでちゃんと覚えているのに、どうやってここに来たのか思い出せない。
どうして……、わたし……帰れるの……。 パパ……、ママ……助けて……。
そんな不安で押しつぶされそうな時に、この人に元気づけれた。 大きな人の影みたいな人? に助けられた。
わたしと違うところがいっぱいあったけど、不思議と怖いとは思わなかった。
それにわたしの手を握ってくれたとき「だいじょうぶ」って言ってるみたいで、心の底からほっとした。
ピアノの演奏も落ち着いた曲調なんだけど、ところどころに力強さもあってまるで「まだあきらめないで」と言ってるみたいだった。 よくわからない場所に一人で来た寂しさや不安を残さず消し去って、わたしに元気をくれた気がする。
それに、この人の曲は心に直接語りかけてくる不思議な感じがあった。
演奏が終わると、わたしは手を叩いて拍手を送っていた。
送らないといけないと思った。
こんな演奏を聞かせてくれてありがとうって、拍手を送らないといけないと思った。
最後に指切りをしてピアノから下ろしてくれた。 あの人が何を約束したのか分からないけど、叶うといいなぁ。
そうだ! まだこの人の名前を聞いてない!
ピアノから下ろされて真っ先に思い付いた。
名前を聞こうと顔を見上げたが、横の方をじっと見ていた。 つられてわたしも見ると通路ができていた。
あれ? わたしが見回したときにはなかったのに……。
不安げにあの人の顔を見つめていると、視線に気づいてくれて頭をそっと撫でてくれた。
それからあの通路に向かって歩き出す。
わたしは影に隠れるようにくっつきながら一緒に歩く。
しかし通路の入り口まであと半分といったところで足が止まった。
いつまで待っても動こうとしないことに違和感を覚え見上げると、あの人がわたしを見下ろしていた。
わたしと目が合うと長い腕を使ってわたしを前に押しやった。
戸惑ったし焦ったけど、あの人はずっとわたしを見つめ背中に手を置いている。
通路の方を指差すと、こくんと頷いた。 どうやら行ってきてほしいみたい。
一人で行くのは怖いけど、あの人はずっとわたしの背中に手を置いてくれた。
まるで勇気を与えるためにずっと……。
手が届かなくなるまでずっとわたしに勇気を与えてくれた。
通路の入り口まで来ると、階段になっていた。 中は明かりもなく、足元を辛うじて見えるほどの暗さだった。 踏み外さないように壁に手をついて慎重に進む。 幸いなことに通路自体が短く、すぐ明かりのある空間に出た。
天井には、丸裸の電球が吊られている。 薄暗い部屋だった。
部屋の4隅には観葉植物が飾ってあり、中央には地味色の天蓋カーテンが付いたテーブルが置かれてその上に大きな水晶玉があった。
わたしが物珍しさに水晶玉を覗き込んでいると、子供っぽい声が聞こえた。 なんて言っているのか聞き取れなかったけど、確かに聞こえた。
まわりをきょろきょろ見回して探すが誰もいない。
空耳だと思い、また水晶玉を覗くと水晶玉越しに地味色のローブがふよふよ浮いているのに気がついた。
ぎょっとして退き、浮いてるローブから目を離せないでいると、うっすらと子供の顔が浮かび上がった。
もしかして……オバケ?
恐ろしさからさらに後ずさると、足に何かが当たった。 恐るおそる後ろを確かめると、背もたれのない木製の丸椅子があった。
さっきまではなかったのにどうして……。
この椅子といい、私が通ってきた通路といい、突然ものが出てくる。
本当に不思議で怖いところに迷いこんでしまった。
立ったまま動けないでいると子供のオバケが椅子に座るように促していた。
戸惑いながらも座ると、子供のオバケもテーブルを挟んで椅子に座った。
「いらっしゃい」
さっきと同じ子供っぽい声で話しかけてきた。
「そんな怖がらなくていいよ。 ぼくはきみに害を与えることも、触れることも出来ないから」
握手を求めるようにわたしに手を出してきたので、それに応えようと手を伸ばし握手をしようとしたらこのオバケの言う通りすり抜けてしまった。
「これで分かったかな? さて、ぼくがきみに害を与えることができないことを証明したからもう安心だね。 さっそくだけど、少しぼくの話に付き合ってよ」
「う、うん。 少しなら……」
消え入りそうな声で答えた。
「まだ、ぼくのことが怖いのかな? まぁ、それは回数を重ねることで克服していこう」
回数を重ねるって、またこのオバケと話さないといけないの……。 今日だけでいいよ……。
「さて、なにから話そうか……。 そうだねぇ、まずはクローンについて話そうか」
「クローン?」
「そう、さっき会ったでしょ? あの影みたいに黒いアレのこと。 ぼくたちはクローンって呼んでる」
ぼくたち? うっ……まさか一人だけじゃなくて、もっとたくさんいるの……?
でも、あの人の名前は分かったのはうれしい。 クローンっていうんだ……。 でも『クローン』って姿がまったく同じ人のことをいうと思うけど……。
「そうだよ、同じだよ」
わたしの心を読み取ったように答えた。
「ここに来る人はみんな、あーなっちゃう。 この空間の地面を踏んだ瞬間にね」
「でも、わたしはなってないよ」
自分の手を見て確認してみても、肌色の人間の手をしていた。
「そう、きみは例外だ。 本来ならここに来れるのは一人だけと決まっている。 前のクローンが死んだら、また次のクローンを連れてくる。 ずっとこのサイクルを繰り返してきた」
えっ!? それって……
「そうだよ、ここに来たら帰れない。 二度とね」
無邪気に笑いながら言った。
「でも、安心してよ。 きみは帰してあげる。 と言ってもぼくたちが帰すんじゃなくて、あのクローンが帰してくれるよ。 今までのクローンと違うみたいだし」
含みのある物言いでニコっと笑う。 見た目は子供だし声も子供っぽいけど、話し方が大人びて見える。
「あ、あの……質問してもいい?」
首をひっこめて控えめに手を挙げた。
「質問? いいね、大いに歓迎だ!」
手を組んで肘を机につけているつもりだとは思うけど、少しすり抜けてる……。
「あの部屋にピアノがあるのはなんで?」
「ぼくたちの趣味だね。 ピアノの曲はきれいでいいんだ、落ち着くし。 それに、あそこにも本がいっぱいあっただろ? あれ全部ピアノに関する本なんだ。 音符の読み方から楽譜の作り方まであるから初心者でも安心!」
「……それって無理強いしてるってこと?」
「うん、そうだね。 無理強いしてるね」
悪気もなく即答したが、どこか「しょうがない」って無理強いすることを正当化しているようにも聞こえるような……。
「きみは鋭いねぇ。 話してて楽しいよ」
子供らしくケタケタ笑った。
「もう気づいてると思うけど、ぼくたちは物に触れることができないんだ。 趣味であるピアノも弾きたくても弾けないんだ。 だから無理強いするのは、しょうがないんだよ」
「しょうがない?」
「うん、しょうがない。 現にぼくは空気いす中だ。 椅子もすり抜けちゃうからね。 おかげで足がぷるぷるしてきたよ」
オバケでも足がしびれるの? なんかこのオバケ怖くないかも……。
「もう聞きたいことはないかい? あるなら手短にお願いするよ」
足がしびれてると言ったわりには表情は涼しげだし、座った姿勢を崩さない。
しびれてるの嘘なんじゃ……。
「じゃあ、最後に……この椅子もあの通路も突然出てきたけど、これもあなたが?」
「違うよ。 誰がやったんだろうねぇ。 気になるよ」
一瞬だけ通路の向こうに視線を投げ、また私の方を見てニコニコ笑いながら、そう答えた。
今確かにクローンのいる部屋を見た……、もしかしてクローンのせい?
「さてっと、たくさん話したから疲れちゃったよ」
あくびをしながら大きく伸びをする。 そういえば、この子ずっとしゃべりっぱなしだったっけ。
「この部屋にはいつでも来ていいよ、ぼくもたまには顔出すから」
それだけ言い残すと、すっと消えていった。
あの子がいなくなってもしばらく動けなかった。
オバケと話すのがこんなにも緊張するなんて思ってもみなかった。
ふぅ……、落ち着いてからあの人……じゃなくて、クローンにここであったこと話さないと!