濫觴
出来れば定期更新を心がけてやっていきたいですが、果たしてこの小説を続ける気力が僕にあるかどうか。
現在、高校生の95.6%が携帯電話を所持しているというデータがある。しかも今やスマートフォンが普及し、インターネットという存在が、高校生にとってとても身近な存在となっている。
ここ、城北第一高等学校も、9割以上の生徒が携帯電話もしくはスマートフォンを所持していた。皆、メールのやりとりをしたり、アプリをダウンロードして遊んだりと楽しく活用している。今では無料通話アプリというものも出てきていて、どうも料金の発生する場合の通話が減ったように感じる。しかし、この学校ではそういった携帯電話及びスマートフォンなどの電子辞書を除く本来授業に関係のない電子機器の持ち込みは原則として固く禁止されてきた。県立高校なので致し方ない決まりではあるが、それをきちんと守る模範のような生徒など雀の涙ほどしか居なかった。
城戸聡平は、最近買い換えた最新型のスマートフォンを地味な柄の制服のポケットに仕舞い、中身の殆ど入っていないようなカバンを雑に肩に掛け、そそくさと家を出る。いつまでも家でのんびりしていると母親が早く学校に行けと煩いからだ。
「行ってきまーす」
リビングで小学校に上がったばかりの三男の亮太の世話をしている母親に何とも間抜けな挨拶をして玄関扉を開ける。すると勢い良く城戸の前を次男の聖悟が突っ切って慌てて玄関に上がる。
「母さん!弁当!」
はいはいと、面倒臭そうに母親が台所から大きな弁当箱を持ってくる。聖悟は今年で中2になる。部活はサッカー部で、顧問からも相当期待されているようだ。ただ、忘れ物と遅刻が酷い様子で度々学校からその件で電話が掛かってきて、母親がたじたじになっているところを見かける。恐らくあと2つくらいは忘れ物をしているだろう。そんなことを考えていると聖悟がまた城戸の前を突っ切った。
城戸家の朝は大体こんな感じに忙しく迎える。をれを察してか、父親は城戸たちとは時間を少しずらして起床する。城戸は自転車小屋に着いた。聖悟がせっせと荷台に荷物を括り付けている。
「聖悟、お前昨日の夜明日部活で集合写真を撮るとかでユニフォームが要るって言ってなかったか?」
城戸がそう言うと、聖悟は口を大きく広げ、あっと大きな声を上げてまた家へと戻って行った。また母親に母さん!ユニフォーム!と叫ぶのだろうと城戸は思った。
「全くお前忘れ物が酷いな」
後姿の聖悟に投げかけた。そんなことない!と声を荒げながら走っていく。どうもそのセリフには説得力に欠けた。城戸はゆったりとしたペースで自転車を漕ぎ始めた。
寺崎唯は鏡の前で寝癖を必死に直していた。寝癖はあまりにも酷く、渇して井を穿つというものであった。隣では母親が弁当ここ置いとくわねと言って寺崎の横に弁当を置く。その時、母親はこの世のものとは思えないものを見るような目だった。
「あんた、なにそれ、研究室か何かが爆発したの?」
本当にそのような感じだった。寺崎本人も何故ここまで酷い寝癖が完成したのか分からない。いや、分かりたくもないだろう。
「あーもう、お母さん、そんなこと言うならこの寝癖どうにかしてよ」
寺崎は少々苛立った表情を見せる。母親は頑張ってと一言残して洗面台の前を後にする。
「遅刻しないように行きなさいよー」
リビングの方から母親の声が聞こえる。寺崎はますます腹が立った。言葉は古いが、臍で茶が湧きそうな怒りだった。
暫く自分の寝癖と格闘していた寺崎はある程度寝癖を抑えることに成功していた。しかし、後ろ髪がピンと跳ねて何とも不恰好な髪型だった。このまま学校に行くことはできない。寺崎の朝の格闘にまだゴングは鳴らない。
「もう、これでいいや」
半ば諦め気味で寺崎は慌てて家を出た。このままいつもの様に登校していたら確実に遅刻することになる。幸いなことに寺崎の家から学校まではさほど遠くはないので、電車通学ではない。電車通学なら殆ど希望はないところだろう。ましてや都会の電車のペースではないから尚更である。
はぁはぁと息を切らしながらも何とか自転車を漕いで学校へと急ぐ。
成瀬渡は頂きますと行儀良く合掌をしながら言った。朝食は玄米ご飯と豆腐と大根のお味噌汁、法蓮草のお浸し、沢庵そしてメインは鰆のムニエル。薄く切った檸檬が乗っている。成瀬はその豪勢な朝食を一善の箸で綺麗に食べ進めていく。食事のマナーは父に厳しく叩き込まれた。今も隣で厳しい眼でぎょろりとこちらを見てきちんと食べているかくまなくチェックされている。正直成瀬は渋々こうしていた。
「ご馳走様でした」
成瀬の父が叩き込んだのは食事のマナーだけではない。成瀬が小さな頃から礼儀作法や整理整頓など様々なマナーや知識を叩き込んでいたのだ。成瀬の父は医療機器を取り扱う会社の社長を勤めていて、お金に困ることはないから美味しいものや高い服は普通の会社員の息子よりは買い与えられていた。しかし、さっきのマナーやゲームなどにはかなり厳しかった。ゲームは勿論、漫画でさえ殆ど買い与えて貰うことはなかった。成瀬はそれに果てし無くうんざりきていた。
だが、念願の城北第一高等学校に合格した時は初めて携帯電話を買い与えられた。それもスペックの高い10万はするであろう特注品だ。父曰く、高校に入ることになれば必然的に必要になるであろうから、ということだったが、母は本当は父からの高校入学祝いだと語る。真相は定かではないにしろ、大体見えている。
成瀬はだらだら他のことをしていると父に怒られかねないので、てきぱきと学校へと行く準備をし、洗面台の前に立つ。汚れもくもりもない美しい鏡にたまごのように白く柔らかい肌の小さな顔が現れる。髪もさらさらで少々長めの髪の毛もあって、まるで女の子のようだ。学校でも良く女子だと言われるが、その度に腹が立って仕方がない。成瀬は洗顔をする。白い肌が水を弾く。
横に掛けてあった白いふわふわのタオルを手に取って優しく撫でるように顔を拭いた。すっきりした顔になった成瀬は玄関に掛けてあった体操服袋を手に取り、玄関の重い扉を開く。
「お父さん、お母さん、行ってきます」
学校へ行く時はこう告げてから行くのが決まりだった。母が玄関まで見送りに来てくれた。母は笑顔で微笑んでくれた。
成瀬は携帯をバックの中に仕舞い、自転車かごの中に放りこんだ。家を出てしまえば父の監視の目を欺くことは容易いことである。成瀬は途端にきちんとすることを止めた。と言ってもこれから非行に走る訳ではないのだが。
教室には半数以上の生徒が居た。教室内は喋り声でざわついている。読書をして静かに過ごしている生徒も居るが、大抵真面目で"ガリベン"と呼ばれる生徒か単に読書が好きで四六時中本を読んでいる数少ない愛読家くらいだ。あとは読書と言っても生徒間で流行りだした漫画かそのあたりだろう。
ざわつく教室にまだまだ次々に生徒たちが入ってくる。良く見ると隣のクラスの生徒ももう少しでHRが始まろうとしているのにも関わらず、お喋りがしたいがためにこちらのクラスへと顔を出す。
津留崎龍之介がギリギリのところで教室に入ってきた。
「あっぶねー、もう少しでチャイムなるとこだったぜ」
はぁはぁと息を切らしながらも喋っている生徒連中の輪に入っていく。
「おっはよー!」
小学生のような声で皆に言ってみる。
「龍之介、朝からテンション高いな」
同じく2年4組の初村雪司が呆れた顔をして言う。正直これはほとんどの生徒が思っていることで、初村はそれを言いにくい皆の代わりに代弁してあげたに過ぎなかった。
「んだよ、朝は1日のスタートだろ!テンションあげて行かなきゃ!!」
全く津留崎のテンションには誰もついて行けない。それに皆、他の話題で盛り上がっているのだ。
その話題というのも、どうも最近迷惑メールが増えてきているらしいのだ。それもここ1週間で今まで1日にせいぜい5通だった生徒が1日に50通来るようになったらしい。人によって増える迷惑メールの数は異なるが、ちょっとこれは異常なのではないかと、物議を醸していた。
しかもその迷惑メールが来る時間帯も殆ど同じというから驚きだ。迷惑メールが集中して良く来るのは月曜から水曜の午後5時前後~午後12時前後、木曜と金曜の午後7時前後~午後12時前後、土日は午後に多いらしい。しかし、内容はてんでバラバラであった。風俗や出会い系サイト、懸賞サイト、有料のアダルト動画サイトの勧誘や現金をお渡ししますという内容のものといい、届くメールの内容に一貫性はないのだという。メアドを変えようという生徒もちらほら居た。
しかし、大半の男子生徒はその迷惑メール面白がっており、クリックして詐欺に巻き込まれるようなことはないものの、どのくらいそれが送られただとか、現金を渡すという内容のもので最高金額を争うなど逆に楽しんでいるようにも取れた。反対に女子生徒には殆ど来ていない生徒が大多数を占めていた。女子の中で最も真面目で次期生徒会長との呼び声高いクラスの学級委員長である小野崎華蓮は"男子の日頃の行いが悪いから"と一喝している。
そんな困ったようで平和そうな問題の中、成瀬は少し戸惑っていた。それは自分には迷惑メールと呼べる類のものが一切来ていないのだ。まぁ個人的に迷惑と呼べるのは隣のクラスの谷津頭駿から毎日のように送られてくる遊びへ誘うメールだ。勿論、成瀬の家は親父が遊ぶくらいなら勉強しろと煩く、親父の眼を欺いたり巧みな嘘をついて騙すのは至難の業だ。そして谷津頭のメールは非常に多く、友人として誘ってくれるのは嬉しいがその気持ちに応えられないのがとても残念に思う。しかし、今話題になっている迷惑メール問題とは一切関係のない話だ。成瀬は迷惑メールが来なくて嬉しい反面、何故か取り残されているように思った。
半透明の教室の廊下側にある窓に人の影が見えた。このガラスは推測ではあるが、更衣の際に女子及び男子の着替えが見えるのを防止するためだろう。にも関わらず教室に居る生徒全員がそこに誰が居るのかわかっていた。
その影は段々と2年4組の教室のドアへとゆっくり動き、ドアの前で止まった。立っていた生徒は取りあえずといった調子で席に着く。着いた席がてんで適当な生徒も居るが、それでも大丈夫である。なぜなら、先生は驚く程に鈍いのである。生徒達の席が変わっていようと気づくことはない。
教室のドアがゆっくりと開いた。やはり、2年4組の担任である藏木佐春先生だ。授業は古典、部活は男子バスケットボール部を分掌されている。今日は赤いネクタイにの真っ白なシャツ、紺色の高級そうなジャケットを羽織っていた。
「先生髪切ったー?」
最前列の席で梅田弥央が問う。因みに梅田の実際の席は廊下側の後ろから数えて2番目の席。偶々その席が久米奈津美に座られており、取りあえずその席に座っていた。
「まぁね」
藏木先生はそんなことには一切気づかず、ドヤ顔を生徒に見せつけた。
「先生それどこで切ったのー?いつもの床屋ー?」
続けて梅田がまるで先生を馬鹿にしたような口調で問う。
「ちっちっち、今回はね、美容室のRaCoCoっていうとこだよ」
藏木先生のドヤ顔が更に増す。RaCoCoとは最近学校の近くに出来た美容室で、radiance(輝く)、confidence(信頼)、comfort(安らぎ)という意味の単語3つから出来た造語である。その名前の通り、藏木先生はいつもより安らいでいて輝いているように見えた。
「ま、僕が髪切ってイケメンになっちゃった話は置いといて、出席取りまーす」
余計なひと言を付け足した藏木先生は色んな配布物や出席簿などが入った籠を教卓の上に置き、出席簿だけを手に取った。
「はいまず阿南香緒里ちゃーん」
面倒臭そうに胸ポケットに居れていた黒のボールペンで居るのは分かっているだからなのか返事を聞くよりも前にチェックマークを書く。
「はーい」
間の抜けた恰好の悪い返事が返ってくる。
「じゃあ次梅田弥央くん」
「はーい!って何で私は"くん"何ですかー!これでも純粋無垢な女の子なんですよー」
藏木先生ははいはいという顔をして、どうでも言いじゃないの、そんなことと言った。
「どーでも良くないですよー!」
梅田は最前列に居るため、手を伸ばして教卓を強く叩く。すると藏木先生は面倒臭そうに梅田弥央ちゃんと言い改めた。教室がどっと沸く。
藏木先生は別に生徒たちに嫌われている訳ではない。ただ、他先生よりも生徒との絆が厚く、なによりも生徒達から愛くるしいクラスのマスコットキャラクターのように思われていた。そして、梅田のように藏木先生とより仲の良い生徒は藏木先生を"クッキー"と呼び、更に親交を深めていた。
「はぁい、じゃあ次小野崎華蓮ちゃん」
「はい」
無愛想な返事だが、普通ならこれが最も優れた返事だろう。梅田のように出しゃばって文句をつけず、間の抜けた返事でもない。しかし、今度は藏木先生の方が小野崎に突っ込んできた。
「もうこのクラスになって半年が経とうとしてるのになんだい?その返事は。もっと楽しく行こうよ」
「藏木先生、お言葉ですが、その下らないふざけた返事とその会話は果たして意味を成すのですか?」
ハキハキとそれは良い声で、教室に居た生徒の皆の心に突き刺さる。何とも正論過ぎて藏木先生も黙ってしまった。
「次に行こうか、柿上真愛ちゃん・・・・」
今の一件で随分落ち込んだようだ。藏木先生はメンタル面が相当弱かった。それとは逆に小野崎は正面を向いて、背筋を伸ばしていた。瑕瑾のない完璧な雰囲気が漂う。
出席調査が終わり、今日の欠席者は渡辺滉大だった。インフルエンザA型が流行っているこの時期にしては少ない方だろう。先週は確か最多の5人が休んだこともあった。男子生徒連中は事あるごとに学級閉鎖はまだが、俺もインフルエンザに罹りたいと愚痴をこぼしていた。
「ねぇ、一時間目何ぃ?」
一時間目が始まる前から怠そうに秋吉優斗は言う。
「数学だよ」
城戸が残念でしたと言わんばかりの表情で返すと、秋吉の表情は更に曇る。秋吉は少しずれた縁の広い伊達眼鏡を元に戻す。
「まじかぁ、いきなり数学かよ」
机から数学Ⅱの教科書を取り出し、準備を整える。
「ふぁーあ」
四時間目の現代社会の授業が終わるチャイムが鳴ってから、秋吉はこの上ない程の欠伸を見せた。現代社会の浅丘教諭は呆れた顔で秋吉を見た。しかし、何も言わずに教室を出る。浅丘教諭は自分からは何もしようとしない性格で、生徒を注意することも殆どない。何だか気の抜けた先生という印象を生徒達は抱いている。
四時間目が終わったことで学校ではこれから昼休みに入る。購買へと急ぐ者、予めコンビニ等で買っておいた弁当やお握り、パンをバックから探る者、母親のお手製の弁当をロッカーから持ってくる者、隣のクラスへお邪魔になる者、皆、自由な時間を過ごす。
自由な時間と言ってもだいたい皆がやることは決まっていて、お昼は気の知れたグループで食べることが多い。昼休みの風景を一歩下がってみてみるとそのクラスのざっくりした相関図が分かる。特に女子がそうだ。小さなグループが幾つも存在し、そのグループが3つの大きな派閥を作るようにして集まっている。だいたいその2つの派閥の頂上に君臨するのは廻谷光咲、禰津璃杏、そして小野崎華蓮である。廻谷は古池御子や中山葉留美を従え、このクラスでは一番大きな派閥の頂上に居る。他クラスの砂原梓や石崎夕菜も彼女の派閥に入る。その次に禰津の派閥だが、彼女は相当な大金持ちで、父親はIT企業の社長という何ともベタなお嬢様である。禰津は父親の財力を武器に、権力を盾にしていた。そして最後に小野崎だが、彼女は2人とはかなり違う。このクラスで唯一のどのグループにも属さない言わば一匹狼的存在だった。現状は、廻谷と禰津が対立し合い、小野崎が素知らぬ顔をしているといった感じだった。他クラスにも似たような派閥はあるが、それに対して男子は和やかなものだ。特に派閥と呼べるものはなく、2つほどのグループはあるものの、その2グループは決して対立している訳ではなかった。
「わー、光咲、それ何ー?」
廻谷の従順な部下である古池が興味津々で廻谷に聞いた。
「これ?最近買ったの、良いでしょ?」
廻谷は朝の藏木先生に負けない位のドヤ顔で横に掛けてある財布を見せつけた。廻谷が持っているのはLiz Lisaの長財布だった。白い財布に小さなリボンが付いているのがキュートな美しい財布だが、普通の女子高生にはなかなか手が出せない。廻谷の家は禰津のように裕福ではないが、こういったところで無理して禰津に張り合っている様な感じだった。
何も財布だけではない、洋服は勿論、最近は有名ブランドのバッグにまで手を出す始末である。どこにそんなお金があるのか古池を始め廻谷派閥の殆どが思っていた。が、そんなこと言える訳もなく、すごーいと、如何にも貴女に憧れています感丸出しの分かりやすい声をあげるしかない古池だった。
「ついこの間この機種の新しいモデルが出たから新しいのに変えようかなー」
廻谷は自分仕様にすっかり様変わりしたまだまだ新しいスマートフォンを見つめてそう言った。
「光咲、今ので充分なんじゃない?」
それとなく中山が心配すると、途端に廻谷は機嫌を悪くした。
「別に良いじゃない、私が何を買おうと!」
それまでどちらかと言えばご機嫌だった廻谷が急に機嫌を悪くしたので、2人は慌てて媚び諂う。
廻谷の機嫌を取ろうと古池と中山が奮闘している最中、風間奏は大量の昼食を摂っていた。弁当は他生徒は格段に大きく、それに加えて先程購買で買ってきたありとあらゆるパンやお菓子を並べて片っ端からまるで猛獣が生肉を喰らうかのように食らいついていた。
「おいおい、今日もよく食うな、奏は」
風間とは小学校からの同級生である猪口劉輝は眉をハの字にして言った。
「それ全部食うのかよ」
「いや、コレとコレとコレは部活の時か帰る時に食べる用。バッグにはそれ用のお菓子とお握りもあるぞ」
皆、何故ここまで食べていて太らないのかと、驚いていた。まぁそれよりも驚くべきなのは風間の食う量なのだが、テレビで見る大食い選手並みの量を平らげているんじゃないかと思う程だ。そしてその食いっぷりにも圧巻される。それはまるでフードファイターのようで、小林尊とも良い勝負をするのではと思ってしまう。
「このパン美味ぇな、明日もコレ食おうっと」
風間は購買で買ったチョココロネを半分程口にして言った。
「いい加減食べる量考えないとだよ」
風間の近くで藤代が小さめのカラフルな弁当箱の冷凍の明太子スパゲティをちまちま食べながら呟やく。この時、大半の男子がお前は少なすぎると言いたくなったが、突っ込んでも藤代の性格を考慮すると何も生まれそうに無いので思いとどまった。
「余裕だって、藤代」
風間は藤代の忠告を聞こうとすらせずに、すっかりお気に入りになったチョココロネを食べ終え、次の獲物はどれにしようかという顔をしてずらりと並んだパンやお菓子を見つめる。その姿を見てもう誰も関わろうとしなくなった。
4組の担任である藏木は職員室の自分の趣味で染められた机でコンビニの幕の内弁当を食べながら午後の授業で使うプリントを作成していた。授業が始まるまであまり時間がなく、前もってプリントを作成しておかなかった自分に自己嫌悪を抱いていた。
「そんなに急いでどうしたんですか?藏木先生」
藏木の机の向かいに座っていた同じく4組の副担任である中尾杏璃教諭が高々と積み上げられた書類越しに話かけた。中尾教諭は今年で32になる藏木よりも11も若く、ここに来てまだ2年目と日の浅い先生である。藏木はプリントを作成しているパソコンのディスプレイだけを見ながら午後の授業で使うプリントを大急ぎで作ってるんですと少々早口目に言った。
「そうなんですね、頑張ってください。あ、良かったらコーヒー入れましょうか?」
正直そんなもの飲んでいる暇なんてありそうになかったが、断るのが面倒ではいと答えてしまった。中尾教諭はスウィブルチェアをひき、コヒーメーカーのある給湯室へと向かった。その際、コーヒーと幕の内弁当の食べ合わせの悪さ危惧して幕の内弁当の方をそそくさと片した。
「あ、中尾先生、私の分も入れてくださるかな?」
第一城北高等学校の教頭を務める飯田幸雄教頭が笑顔で便乗してきた。この高校で最も古株である世界史の楠城義武教諭は昔は温厚質実な数学の先生だったと話しているが、殆どの教師生徒は面白い教頭としか思っていないだろう。現に教頭の机の上はとてもカラフルに装飾されていて、面白いし、全校生徒が集まる集会などで話をする時も必ず体育館が沸くような笑いを起してくれる。他の公立高校にこのような教頭が居るだろうかと思う。ただ、藏木はそんな飯田教諭に憧れてはいなかった。
「僕にも入れてください」
何とも透き通った声で次に注文したのは数学の遠藤康貴教諭だった。年が22と若く、女子生徒からの人気が凄かった。3年ほど前からこの高校に居るが、毎年紙袋を一杯にするくらいのチョコレートを貰っていた。そのため、よく国語科の国分静子教諭からこんなものを学校に持ってこさせるんじゃない、あなたがそんなんじゃ学校の風紀が乱れるなどと難癖を付けられていた。藏木はまだ梅田を含む自分をくーちゃんなどと親しみを持って呼んでくれる生徒から貰ったりしているので少々遠藤教諭側に立っていた。しかし、生徒にあまり人気のない教師達は恐らく遠藤のことを妬み嫉みの目で見ているだろう。今年もバレンタインが来月に迫っていているから近々数名の教師がピリピリし始めるだろう。藏木にはそれが何処となく懐かしかった。
中尾教諭は他にコーヒー欲しい方いらっしゃいませんかと、丁寧に職員室全体に届くように言った後、特に誰も名乗り出なかったため、給湯室へと向かった。
この時間は生徒の姿もちらほらあって、遅れた課題や部活等の連絡で失礼しますという言葉を良く聞く。特に遅れた課題の提出や授業中の態度が悪くて呼び出しがあった生徒だと、表情を見るだけですぐに分かる上、先生によっては説教が長く、空気が悪くなるのでそんな時は年の近い美術を教えている空閑正志教諭が居る美術準備室へと逃げていた。美術準備室は基本空閑教諭1人しか居らず、自由な空間なので、居心地がとても良かった。
藏木は焦りからか、段々とキーボードを打つ強さが強くなっていた。ガチャガチャと音を立てていると向い側の中尾教諭の隣の席でミニテストの丸つけ作業を流れるようなスピードでやっている同じ古典を教える西嶋羊介教諭が不機嫌そうにこちらを見た。
「すみません。5時間目に使うプリントを作るのを急いでいるものでして」
西嶋教諭は口数が極端に少なく、何を考えているのかよくわからない。生徒は勿論のこと、教師たちにも少し気味悪がられている先生でもある。藏木自身は特に気にしていなかったが、これまた面倒なので何か言われる前に謝罪したのだ。
「藏木先生、頑張ってください」
中尾教諭がコーヒーカップをそっと机の隅に置いた。コーヒーカップからは白い湯気が立っている。
「先生はブラックですよね」
「ええ、甘ったるいコーヒーはコーヒーじゃないですよ」
藏木はキーボードを叩く手を止めることなく呟いた。
「藏木先生はやっぱり分かってらっしゃいますなぁ」
飯田教頭が嬉しそうに言った。が、藏木にとっては今、大至急プリントを作成しなければならないから迷惑極まりないだけだった。飯田教頭にはこういったところが多々ある。つまり極限まで要約するとKYなのだ。それに加え、何度も聞いた昔の思い出話を長々と話す癖があり、ストレスが溜まる上司だった。
「・・・ふぅ、終わった」
藏木は作業を一通り終えると印刷ボタンをクリックした。間もなく印刷機が機械音をあげる。印刷ミスや最悪の自体を想定して、少し多めの枚数を印刷することにした。
「あ、終わりましたか?プリントの作成」
「えぇ、ギリギリセーフです」
藏木は中尾教諭の淹れたコーヒーに目をやった。まだひと口も飲んでいないがあの時立っていた湯気は限りなく小さくなっていた。
「冷めちゃいましたね。淹れなおしてきましょうか?」
「いえ、大丈夫です。もう授業の準備しないといけないので」
藏木はコーヒーカップを手に取って一気にそれを飲み干した。ごちそうさまでしたと中尾教諭に言ってから次の授業の準備を始めた。
「それじゃあ4組の授業行ってきます」
印刷機に溜まったプリントを取って急ぎ足で2年4組の教室へと歩を進めた。
昼休みも終盤に差し掛かったが、2年4組の教室はまだまだ騒がしかった。女子はお喋りに華を咲かせ、スマホや携帯を弄り、音楽を聴いたり携帯ゲーム機で通信プレイをしている生徒まで居た。とても携帯等が禁止されている高校とは思えない。
「次の授業なんだっけ」
4人で通信プレイしていた猪口が放り投げるように呟いた。
「確か古典だったよ」
雪乃有路がシンプルながらもかっこいいスマホを弄りながら言った。雪乃のスマホはデザイン重視で、クラスでの人気もそこそこ高かった。
「クッキーの授業かぁ、楽だな」
猪口も梅田と同じで藏木のことをクッキーと呼ぶ程親しかった。
「もうゲームとか仕舞った方が良くない?」
山口佳奈がゲーム機の画面を見つめながら言った。山口はクラスの男子よりもゲームが好きで、尚且つ詳しく、今も猪口と共に通信プレイをしている。
山口がそう言った直後、誰かが走ってくる音が聞こえた。瞬時にその足跡が藏木のものだと分かった生徒達は慣れた様子でゲームの電源を消し、音楽プレイヤーやスマホをバックに仕舞った。
教室のドアを藏木がガラガラと音を立てて開けた。
「ごめん、遅れた・・・かな?」
「大丈夫だよクッキー」
梅田が言った。
こっちもギリギリセーフかと思った藏木先生は今日の日直である寺崎に号令をかけるように言った。
「き、起立」
中々しっくりこない号令に起立がどうしてもぐだぐだになってしまう。藏木はやり直させようとも考えたが、寺崎のこの調子はいつものことで、やり直させたところでもっと酷くなると考え、続行させた。
「れ、れれ礼っ」
何をそんなに緊張しているのか、もしかしたら慌てているのか、藏木には分からなかったが、寺崎は上手いこと再び言葉を詰まらせた。
「よ、よろしくおねがいしまーす」
気の抜けた授業開始の挨拶で藏木まで調子が狂いそうになる。実際、皆出だしが揃わずにぐだぐだになっていた。
「とりあえず授業始めようか。まず今日やるところのプリント配るから。あ、欠席の渡辺の分は机の中に入れてあげといて」
昼食後ということもあり、男子生徒の多くは寝ぼけていた。が、あまり注意しすぎると授業が一向に進まず、他の生徒たちの集中力を損ねる可能性があるのでそういうことは最小限にしてなるべく一度で改善されるように注意をしていく。これが藏木の授業のスタイルだった。何故なら他の先生の授業では全く注意されないとか長々と説教をされて授業の半分近くが潰れるといった話を梅田を始め藏木のことを"クッキー"と呼び親しくしてくれる人から聞いたからである。
早速中央列の後ろから2番目で風間がウトウトしかけていた。このまま注意せずに授業を進めても構わないのだが、このままだとレム睡眠に入ってしまうだろうし、授業も始まったばかりなので他の生徒にも喝を入れる意味合いを込めて藏木はプリントを配り終えると教科書を持って風間の席の前まで近寄った。
起きて真面目に授業を受けている生徒はクスクスと笑いを堪えようとしていた。藏木は気づかれぬよう風間の隣まで行くと、教科書を軽く振り下ろし、カツンと後頭部を叩いた。そのお陰で風間はハッと我に返ったのと同時に後頭部の痛みを訴えた。
「ちょ・・・痛いっ痛いっ」
風間が後頭部を強く抑えて痛がるとドッと教室が沸いた。風間も苦笑いした。
「ほら、寝てないで授業に集中集中!」
実際は今すぐ家に帰りたいくらい元気がないのだが、午後の一発目の授業は大半の生徒が集中力が途切れ、睡眠をとったりお喋りが増える傾向にある。そのため、少しでも生徒の目を授業に向けるために度々元気よく大声で発言して注意を引く。藏木はことあるごとにこういった策を試していた。
しかし、それすらも通用しない強者も居る。秋吉優斗である。彼は午後の授業は基本寝ていて、他の授業でも寝たり、煩かったりと授業の妨げになるからどうにかしろと国分教諭から文句を言われ、面倒なので論駁は始めないが、非常に手を焼いていた。現に今も涎を垂らしながら深い眠りについていた。いつもつけている縁の広めの伊達眼鏡を机の端に置いているところを見ると余裕綽々の眠りのようだ。藏木はふとこいつにはきっと因果応報が待っていると考えた。
「さて、じゃあ今日は昨日の続きからだ。若紫を読むぞ」
教室中に教科書をパラパラとめくる音が響く。藏木も教科書が新しくなってから3年間使い続けていた酷く使い古された教科書を開いた。既に若紫を授業で進めるのは自分が受け持っている3クラス×3年間でいよいよ9回目だ。教師用の教科書は生徒に教鞭をとるために詳しいことが赤字で書かれているが、この3年間で身につけた更に詳しいことが様々に色でぎっちり書かれている。
「じゃあ罰として風間、読んでみろ。こないだの続きからでいいから」
藏木が風間を指名すると、風間は極端に嫌な顔をして深い溜め息の後、小さくはいと答えた。
「つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、髪ざし、いみじううつくし。」
「はいオーケー。突然だけどここで質問です」
藏木はニコニコ笑ってクイズを出した。これも藏木の策の一つである。
「風間がさっき読んだところの口語訳が分かる人居るかな?」
すると数人の生徒が挙手した。藏木はどいつに答えさせようかと少し迷ってから沼口に決めた。
「じゃあ沼口、答えてみてくれ」
沼口は学年では平均並みの学力だが、古典だけは学年トップレベルの成績を誇っていたため、安心して答えさせることが出来た。
「顔つきはまことにかわいげな様子で、眉のあたりがほんのりと美しく、あどけなくかき上げている額の様子、髪の生え具合、大変かわいらしい。だと思います」
多少の間違いがあれば訂正してやろうと企んでいた藏木だったが、黙るしかなかった。
「お見事、その通りだよ」
藏木は沼口に盛大な賞賛を与えた。
「よし、それじゃあどんどん次行こうか」
藏木の授業は藏木がまだ教師を初めて間もない頃、授業の進め方や方法について混迷していた時、当時教師歴10年の先輩教師、仁田颯志教諭が言った“授業というものにはテンポが大事だ。”という言葉に倣って行っていた。まだまだ力不足で現に開始からテンポの悪い授業を繰り広げている訳だが、今もその教師を目標にして教鞭をとっている。
気付いたら藏木は寝ていたり授業に集中していない生徒の人数を数えていた。秋吉のように教師を完全に舐めた態度をとっている生徒はほぼ秋吉くらいのものだが、喋ってみたり遊んでみたり、気付いてないと思っているのか教科書で隠して携帯電話を弄っている生徒まで居た。体罰にならないように気を付けてある程度の制裁を加えたり携帯電話を没収したり無理矢理起こしたり体育教師の鮫島光矢教諭のように怒鳴り散らしても良いのだが、こんなことで一々問題を増やしたくはない。ただ、そうするとストレスが溜まる。しかし、先日、そのストレスの捌け口をようやく見出すことが出来たので平気だった。
藏木は教室を一通り見渡し、真面目な生徒とそうでないもはやこの教室のゴミを区別したところでふと視界に入ってきた柿上に続きを音読させた。
「やっと終わったー」
梅田が授業の終わりの挨拶を終えると、授業中の誰よりも大きな声でそう言いながら軽く伸びをした。
「ったく、3学期は中間考査ないけど、だからと言って気を抜くなよ。その分期末考査の試験範囲が増えるんだから」
藏木は梅田に向かってそう言った。
「分かってるって。あ、そうだクッキー写真撮らない?」
恐らく何も分かっていないだろうと思う藏木は梅田に何故写真なんだ?と問いただした。
「丁度今、美がデジカメ持ってるんだよね」
美とは、牧野美のことで、特に目立たない生徒だが梅田とはとても仲が良い。
「おい待てよ、デジカメとか持ち込んで良いのか?」
「部活で使うんだって」
牧野は1年生の時は陸上部に所属していたが、理由を誰にも告げることなく1年生の秋に突然辞めた。噂では好きだった先輩が目当てで部に入り、その先輩が引退したのでやる理由がなくなったからと言われているが、真相は良く分からず有耶無耶になっていた。そして1年生の冬から写真部に入り、ある程度の成績もある。
「でも部活動以外の時間で使ったらマズいんじゃないのか?」
藏木は一応反対する顔を見せた。
「大丈夫だって。美、こっち来てー」
牧野は古典の授業で使った道具を片付けてからこちらの話を聞いていたのか、前もって梅田と作戦を練っていたのか、デジカメを片手にやって来た。
牧野が使っているデジカメは何とも女の子らしいケースに入っていて、チェリーピンクで可愛らしかった。ただ、それに何かをデコレーションしたり可愛いキャラクターのシールやらなんやらを付けたりストラップをぶら下げたりしていないところを見ると写真部で真剣に使っているものだと分かった。
「それは部活で使っているものなのか?」
藏木は殆ど確信しきっていたが、やはり生徒の校則違反を応援するような真似は出来ないため、牧野に聞いた。
「そうですよ、先生。でもこれは気軽に撮る分のもので、あとはデジタル一眼レフカメラで撮ってますよ」
藏木は一先ず安心した。しかし、今の高校生は一眼レフまで持っているのかと驚いた。藏木もカメラを多少嗜んでいて、実際数万程度の手頃なもので、レンズも1つしか持っていない。
「へぇ、どんなのを使っているんだい?」
「まぁプロの写真家さんが使うような二・三十万もするようなものではないですけど、私のものは10万~15万くらいだったと思います」
藏木は再度驚いた。まさか自分より良いカメラを生徒が持っているとは思ってもみなかったからだ。
「入部した時に、自分のお小遣いと誕生日のプレゼントも兼ねて買ってもらったんです。2400万画素で高速連続撮影は約6コマ/秒なんですよ。でもいつかはもっと良い一眼レフで写真が撮りたいです」
「十分良いじゃないか。僕が持ってるのなんて女性が使うようなお洒落一眼レフだよ」
藏木は自虐っぽく言った。牧野は梅田とは違い、上品に微笑む。
「あぁ、ミラーレス一眼ですね。アレはアレで可愛くて良いとは思うんですけどね(*1)OVFが搭載されて無いですからね」
「それより早く写真撮ろうよ!」
藏木と牧野が雑談を繰り広げようとしたのを見計らって梅田が突っ込む。2人はごめんごめんと平謝りをし、牧野は綺麗に手入れされたデジタルカメラに電源を入れた。
「何やってんだ梅田」
さぁもういよいよ撮ってしまおうかという時に城戸総平が首を突っ込んできた。梅田は邪魔しないでくれと心の中で呟いた。
「写真撮ろうって梅田が言ってるから撮ってあげてるんだ」
藏木が城戸にそう説明すると城戸は興味を示して自分も写ると言い始めた。藏木は良いじゃないかと梅田を諭すが、梅田は不機嫌そうに藏木を見遣った。
仕方なく4人で撮るように梅田を説得すると牧野はデジタルカメラを梅田の席にセットし、セルフタイマーを始めた。
「このまま待ってればシャッターが下りるんだな」
逐一確認したがる城戸を横目に梅田が小さくそうよと言う。
「そろそろよ」
牧野がそう宣言すると藏木は生徒3人の肩を組んだ。そのせいで可愛くポーズでも決めようと心構えていた梅田と牧野は驚く。城戸は満面の笑みで左手のピースサインを前にデカデカと突き出していた。構図から何から素晴らしいとは到底言い切れない写真が撮れたのは言うまでもないが、藏木は牧野に頼んだ。
「なぁ牧野、良かったらコイツをプリントアウトしてきてくれないかな、あそこの掲示物を貼るスペースに貼りたいんだ」
そう言いながら藏木は黒板の隣の掲示物を貼るコルク板を指した。
「いいですよ、良かったら他の写真も撮りましょうか?」
「先生方によっては部活動で許されていてもそういうのは嫌いな人も居たりするから使うとしても気を付けてくれよ。それにそんなに無理して撮る必要もないよ」
藏木の頭に一瞬国分教諭が浮かんだのは言うまでもない。
「分かりました。藏木先生、ありがとうございます」
「うん、じゃあ君たちには次の授業があるだろうから僕は職員室に戻るよ」
「じゃあねクッキー」
梅田は手を左右に振りながら言った。
「バイバイクッキー」
その隣で城戸も手を振った。城戸も梅田と同じで藏木のことをよくクッキーと呼び親しくしていた。しかし、牧野は違うようだ。
6時間目の科学の授業も終わり、城戸は秋吉と猪口、そして小野寺恭裕の3人に声をかけた。
小野寺は温厚質実な性格で誰からも好かれるような奴で、城戸と同じバスケ部に所属していて仲が良かった。
「あのさ、学校終わったらカラオケ行かない?」
「カラオケ?」
秋吉は城戸に聞き返した。
「あぁ、駅の近くにあるだろ、えーっと、確かCASって名前の」
城戸からその情報を聞いても秋吉はしっくりこない様子だったが、小野寺と猪口ははっきりと思い出したようでしきりに頷いた。
CASは”Cry And Sing(叫び、歌う)”の略であり、また、偶然か将又名付け親の意図なのか、カシオペヤ座(Cassiopeia)の意味もあり、店内の至る所にカシオペヤ座の絵が描かれていた。10代の男子に人気で、学生でも気軽に行ける安さが売りでもあった。
「俺は別にいいよ、どうせ部活入ってねぇし」
秋吉は詳しい場所も何も知らないが、軽く了承した。
「俺も大丈夫、行こうぜ」
「僕も」
小野寺と猪口も躊躇する素振りさえ見せずに秋吉と同じ答えを出した。
「それじゃあ決まりだな」
ふと城戸の視界に佐倉春貴の姿が映った。佐倉はこの高校が生徒の読書を習慣づけるために朝に15分ほど読書の時間を設ける独自の取り組みである朝読書でもないのに辞書のように分厚い本を読んでいた。特にクラスの皆から避けられている訳ではないが、暇さえあれば読書をしているのであまりクラスの誰かと話すことが少ない奴だった。城戸とは1年の時にクラスが一緒で、クラスでは割と話すことが多い。と、言っても向こうからは必要最低限のことしか話してこないのだが。
しかし、佐倉は悪い奴ではない。それは城戸を始め全ての生徒が知っていた。
城戸は少し躊躇しながらも佐倉の近くまで近寄った。近づいて先ず、彼の読んでいる本のタイトルを知りたかった城戸だが、英語で長々と書かれていて読むのが面倒になったので止めた。
気を取り直して城戸は咳一咳をして佐倉に話かけた。
「佐倉、ちょっと良い?」
「ん?どうかした?総平」
佐倉は読んでいる本に栞を挟みパタンと音を立てて閉じて城戸の方を振り返った。佐倉は童顔で目が丸々と大きい。一言で言うと美少年といった感じで、その潤んだ瞳で城戸を見る。
「あのさ、これから秋吉と小野寺と猪口の4人でCASっていうカラオケ店に行くんだけどお前も一緒に来ねぇか?」
「カラオケ?」
「あぁ、行こうぜ」
佐倉は秋吉や猪口とはあまり接点もなく、話すことも殆ど無いのだが、小野寺とは2年生に進級してから話していく度に意気投合し、仲が良いのでまず断れることはないだろうと城戸は踏んでいた。しかし、そうはいかなかった。
「・・・・ごめん、城戸。・・・行けないんだ」
「何故?」
てっきり来てくれると思っていた城戸はつい理由を追及してしまった。
「いや・・・その・・・・」
佐倉は仕切りに時計を気にした。それに何処か焦っているような様子を城戸は垣間見た。
「いや、無理しなくていいんだ、何か用があるならそっちを優先してくれ」
佐倉の親はこう言った遊びを否定するような人ではない。だから、言えない特別な理由があるのだろうと城戸は半ば強引に合点した。
「どう?春貴来れるって?」
後ろから小野寺が聞いた。
「いや、何か用事があるみたいだったよ」
城戸がそういうと小野寺も何でといった表情になったが、仕方なさそうに了解した。
「ほら、お前ら席につけ」
開きっぱなしになっていた教室のドアをそう言いながら入ってきたのはやはり藏木だった。藏木はやっと今日の仕事が終わるのが嬉しいのか、いつもより笑顔だった。
一応、全員自分の席へと急ぐ。ガタガタと椅子を引く音が煩く耳に響いてそれが終わるとしんと静まり返る。この後はだいたい担任の話が始まるのだが、2年4組だけは違った。
何しろ、担任の藏木は早く帰りたいとばかり5時間目終了時から思っていて、ここで長々と話しても意味がないと考えているからだ。勿論、初めからこういう感じという訳ではない。藏木が2年4組を担任してからすぐは色んな話をしていた。が、それをしたところで大して生徒の心には響くこともなく、1日を通しての注意をしても以降、生徒にそれが効くことはなかった。
「はいじゃあ明日は何があるかな」
とはいえ「何もありません。バイバイ」と、いかにもやる気のないようなことを言うのも考えものだと思った藏木は明日のことでもと、クラス全体に投げかけた。
「クラスマッチ」
藏木の目の前で梅田が言った。
「ご名答。そうだね、明日はクラスマッチだね」
だから何だという話だが、藏木は遠慮なく続けた。
「えーっと、男子がバスケットボールで女子がバレーボールだったっけ。男子はバスケ部が何人か居るから安心だね。女子はどうなの?」
「女子はバレー部山口しか居ないから不利だよな。バレー部って全国大会行けるレベルなんだろ?」
早く帰りたい為か、スクールバックと部活で使うアディダスの黒いエナメルバックを机の上に置いている津留崎が嫌味らしくそう言った。
「だよね。3年はわかんないけど2年なら2組が強いんじゃない?バレー部キャプテンの芝原芽久と相原愛莉と草野樹里、木嶋柚希も居るもんね」
津留崎の言葉に何故か学校の色んなことを知っている言わば2年4組の情報通である小島友菜が便乗した。
「でもだからって初めから諦めるようなことはしちゃ駄目だぞ。精一杯戦うんだ」
弱小チームの監督がメンバーにかける言葉のようなことを藏木は思わず言っていた。クラスの数人が何とも曖昧でぐったりとした返事をしたので藏木は軽くため息をつく。
「明日のクラスマッチのためにも今日は早く寝るんだぞ。じゃ、寺崎、頼む」
藏木は日直である寺崎に帰りの号令をかけるよう視線の合図を送った。すると寺崎は慌てて起立と声を上げた。
自然とみな、空気を読んで気を付けをする。
「れれ・・・礼」
寺崎が言葉を詰まらせながら号令をかけるとさようならとボソボソと呟くように言って各々自分のスクールバックを片手に教室をそそくさと出た。中には友達とペラペラ喋っている生徒やまだボーっとしている生徒も居たが、藏木は取りあえず職員室へと歩を進めた。
「先生」
小さいが透き通った可愛い声に藏木は立ち止った。藏木がその声に振り向くと、そこには柿上真愛が思い悩んだ表情で立っていた。柿上はスクールバックを前に両手で持ち、瞳の奥には小さな決意があるようだった。
「どうした柿上」
藏木は頼むからこの時期になって面倒な問題を持ってこないでくれと思っていた。既に授業での津留崎等の態度に腹を立てているので尚更だった。
「ちょっと相談が・・・」
柿上の深刻そうな顔を見ると少々面倒な香りがした藏木だったが、この状況で用事があるからと断ることも出来ず、どうしたのかを聞いてみた。
「ここじゃ話せません」
「そうか、じゃあ進路相談室が空いてるからそこで話そう」
柿上は小さく頷いた。
「そうだ、柿上、部活があるんじゃないのか」
藏木はそういえば柿上は美術部だったなと思う。
「部活は今日は休みです。顧問の飯島先生が居ないので」
飯島教諭は去年の冬に夫を亡くして以来、鬱気味で、抗鬱剤に頼る毎日を過ごしていた。なのでよく学校を休んでいる。そんな中途半端は教師なんて切り捨ててしまえば良いのにと大半の教師生徒が思っているだろうが、何故かこの学校に居座っている。
「そうか、なら行こうか」
藏木が生徒指導室へと向かうと、その二歩程後ろをゆっくりと柿上はついてきた。
「じゃあそこの席に座って」
藏木は柿上を手前の方の席へと案内して自分は奥の方の席に腰を下ろす。
「それで、話って何なのかな」
藏木はにっこり笑ってそう言ったが、内心あまり変な問題ではないようにと強く祈っていた。
「実は・・・・」
柿上は少し思い留まったようだったが、再度決意を固めたらしく、唇を微かに震わせながらも口を開いた。
「古賀涼子ちゃんが苛められてるみたいなんです」
藏木は驚いた。2年4組を担任してから約9か月間、イジメの実態どころかそれを匂わせるようなクラスの雰囲気すら感じなかったのだ。
「苛めてる人は誰なんだ?」
「・・・・・」
柿上はここで犯人の顔を思い出して黙った。
「言いにくいことかもしれないけど、クラスの為だ、言いなさい」
「誰にも言わないでくれますか?」
柿上は切実そうに藏木を見て頼んだ。乞うようにも見えたのだが。
「苛めにもレベルというか種類がある。酷いものになれば校長とか生徒指導に相談しなければならないかな」
藏木は濁した説明をした。
「・・・・そうですよね」
諦めたのか、柿上の声は先程よりも落ち着いていた。
「廻谷光咲です」
「廻谷がかい?」
「はい、そうです」
藏木は少し疑問を抱いた。確か古賀と柿上はどちらかと言えば廻谷の派閥に属していた気がしたからだ。
「柿上と古賀は廻谷と仲良かったんじゃないのか?」
「・・・・・」
柿上はまた黙った。藏木はいちいち小出しにする必要あるのか、とっとと全部話してしまえと思った。
「・・・去年の文化祭の時のことです」
柿上は頭の中で”あの日”記憶を蘇らせながら藏木に話し始めた。
まだまだ残暑の残る9月中旬。柿上は文化祭の準備に追われていた。2年4組は梅田を含む学校のイベントに積極的な数名がお化け屋敷を提案したことにより、否定する意見も特に出なかったので、お化け屋敷をすることになった。
お化け屋敷の会場は教室だと少し狭いのという理由で多目的室を使うことになった。普段は多目的A、多目的Bと分けられていて、用途によって教室を使い分けているが、可動式間仕切り壁を動かすことで2つの空間を繋げることが出来る。そうすると教室3つ分くらいになるのでお化け屋敷を行うには充分な広さだった。
「さて、私たちは会場づくりね」
小野崎が自分たちのやる仕事の書かれたリストを見て言った。
小野崎は今回のお化け屋敷の準備を効率良く行う為にいくつかのグループに分けて仕事を分掌した。小野崎を始め、柿上、古賀、牧野、廻谷、古池、山口、小野寺、赤根、沼口、雪村、渡辺、は会場づくりで、他にも大道具の作成、企画・演出などの役割があった。お化け役はやりたい人を募ると目立ちたがり屋な生徒が自ら名乗り出たので面倒なことにはならなかった。勿論、柿上や古賀は名乗り出なかった。
小野崎等の会場づくりチームは可動式間仕切り壁が全開になった多目的室でチーム内で更に役割りを決めて行こうとしていた。
「まず男子は会場を暗くする為に窓に黒のガムテームで巻いたダンボールを貼っていて。光が少しでも漏れると雰囲気が台無しだから気を付けて。それから古賀さんと牧野さん、廻谷さん、古池さん、山口さんは小道具の作成をやってください。最後に私と柿上さんは会場で流す音楽を集めたり、映像をプロジェクターで映すのであればその準備を。それが終われば小道具の方に合流したいと思います」
小野崎が勝手にリーダーシップをとって次々に役割りを決めて行くが、特に誰も文句を言ったり咎めたりすることはなかった。
「何か質問とか意見があれば言ってください」
柿上は肘を曲げて中途半端に挙手をした。
「なんですか?柿上さん」
「あのさ、華蓮ちゃんそんなに堅苦しくならないで。文化祭でしょ?楽しくやろうよ。今の華蓮ちゃんお化けより怖いよ」
冗談を交えながら笑って言った。こんな時までこの調子だとこっちの調子が狂うと思ったからだ。
「ありがとう。・・・でも私は実行委員長だから他のグループの指示もしなくちゃ行けないので」
「じゃあさ、せめて敬語は止めようよ」
「分かったわ。それじゃあ早速準備に取り掛かりましょう」
本当に分かったのか、柿上は半信半疑だったが、作業に取り掛かることにした。
「お化け役って誰だっけ?」
作業開始から30分もしないうちに雪村はさぼり始めて、私語に華を咲かせる。それに釣られて次々に男子の作業のスピードが減速する。
「確か前半の後半に7人ずつだったと思うよ」
小野寺が曖昧な記憶を辿りながら微妙な返事をする。
「お前お化け役だろ?何するんだよ」
「俺はゾンビ。他にも貞子とか色々役があるぞ」
「何かお化けオールスターって感じだな」
「確かに統一性はないよな」
「それにしても小野崎が居なくなって良かったな」
「あぁ、情報の市松川にプロジェクター借りに行ってるんだろ?」
男子は明らかに小野崎の存在を怪訝していた。
「あー、面倒臭い。私こんな細かい作業向いてないのよね」
廻谷は小道具の細かい作業に痺れを切らし作業を放棄し始めた。
「でもお化け屋敷は楠田先輩と2人きりで行こうっと」
瞳を潤ませて独り言のように言った。楠田先輩こと楠田悠斗はハンドボール部に所属する3年生で、廻谷とは廻谷が1年の時から付き合っていた。
「あぁもう楽しみだなぁ」
廻谷は机に肘をついて、頬杖をつき、楠田先輩とのお化け屋敷を妄想して頬を少し赤くした。古賀は特に気にしていなかったが、山口は呆れた顔をして作業を続けた。
話を聞きながら藏木はその当時のことを考えた。しかし、藏木は特に文化祭に執着しておらず、どちらかと言えば翌日の体育祭の実行委員を務めていたのでそっちのことで手がいっぱいだった。
「それで、何があって古賀は苛められるようになったんだ?」
柿上の話が長くなりそうだといち早く感づいた藏木は単刀直入に聞いてみた。
柿上は場面を切り替えて話を大きく端折って回想を再度続けた。
文化祭前夜。会場は2日ほど前に完成し終わっていて、小野崎のチームは小道具や役者の衣装作りなどの手伝いにまわっていた。前日にもなると今までより夜遅くまで残る生徒も多く、最後の仕上げに取り掛かっていた。
「入口に飾る絵ってこんな感じで良いかな」
美術部の向井雄飛が広用紙に描いたお化けの絵を小野崎に見せて言った。広用紙には様々なゾンビの絵が描かれていて、どれもリアルで迫力のある絵だった。小野崎は彼の絵のリアルさに思わず声を漏らす。その声に気付いた生徒たちが各々の作業の手を止めて彼の絵を見に集まってくる。
「すげーな、向井」
猪口がゾンビの絵をまじまじと細部までじっくり見ながら言った。
「そ、そんなことないよ」
「いや、マジですげぇって」
「そ、それじゃあこれは入口の廊下に貼りましょう。それから宣伝用のポスターと会場内に貼る用の絵は何処にあるの」
「分かった。これから貼るよ。ポスターと会場内用は教室に置いてる」
向井は絵を持って会場入り口を出て、廊下に出た。そしてそれと同時に藏木が多目的室に登場した。藏木は明後日に控えた体育祭の最終確などの仕事を終え、足早に駆けつけたのだった。
「おー、向井、その絵、もの凄く迫力があって良いな。皆も作業進んでるかー?」
「あ、クッキー」
衣装合わせをして試しにメイクをした梅田が藏木に気付いて彼の元へと向かった。衣装は母親がファッションデザイナーの久米が、メイクは2人の姉が有名美容学校を卒業している田中琴美が行っていて、レベルは非常に高かった。そのせいで藏木は若干の冷や汗をかいた。
「お、驚かせるなよ梅田」
「もしかして先生ビビってる?」
梅田は完全に馬鹿にした態度をとった。藏木はこんな日くらい大目に見てやろうと思ったが、大人をからかうなと一言言ってやった。しかし、それでもなお笑い続ける梅田には呆れるしかなかった。
「さて、小野崎、あとどれくらいで終わりそうだ?」
「会場が広いので時間は掛かりましたが今直ぐにでもお化け屋敷を催すことは出来ます。でもまだ時間があるので、細部にまで拘って制作しているところです」
「7時は超えそうか」
藏木は多目的室に時間の分かるものがない不便さに嫌悪感を抱きながら仕方なさそうに腕時計で時間を確認しながら言った。時刻はおおよそ6時20分といったところだった。
「どうせやるなら完成度高いものにしたいので恐らくあと1時間くらいは」
「そうか、8時までには片付けて帰らないと飯田教頭が煩いからな」
「分かってます。7時半には終わらせますから」
淡々とした口調だっただが、その言葉には少しだけ疲れが垣間見えた。
「じゃ、俺はまだ色々仕事があるから戻るよ」
藏木は全く協力的な態度を取らなかった。
「明日はいよいよ本番だ、お前ら、しっかりやれよ」
皆作業に集中していたようで、返ってきた返事は少なく、藏木は少々腹を立てながら多目的室を後にした。
文化祭当日の朝。普段生徒が集まってくる8時半頃の校舎には早速文化祭の最終準備にとりかかる生徒が多かった。文化祭自体は9時からなので、大急ぎで仕事を進めていた。
「私たちはもう大丈夫ね」
小野崎は隅々までした最終チェックを終えた。
「お化け役の人たちは開会式の後にメイク等をしてください。それ以外の人たちも開会式が終わってからは先ず此処に集合してください」
小野崎が指示を出すと緊張した面持ちの生徒たちが頷く。愈々だという感情がこみ上げる。柿上や古賀、廻谷の感情もこの時までは同じだった。
9時になると体育館に殆どの生徒が集まり、校長や教頭が挨拶をした上で、いつもの集会みたく堅苦しくはなく、楽しい雰囲気で文化祭は幕を上げた。
(*1)OVF・・・光学式ファインダーのこと。