第二話 阻止
渾身の投擲だった。
プロのピッチャーでも滅多に見られないような速度、精度で射出された辞書を喰らい昏倒した兄を前にして、今更ながらに少しだけやりすぎたかなと汀は思う。
「……」
だがそれも一瞬のことで、すぐにもやもやとした感情がそれを覆い隠した。
ある意味感じ慣れた――だが決して好きにはなれない感情を持て余したまま、汀はベッドへ視線を移す。あれだけの騒ぎを起こしたにも関わらず、少女は未だ安らかに寝ていた。
(…………なんだよ、もう)
胸中で大きく嘆息し、少女に対して膨れ上がろうとする怒りを抑える。憐牙に関しては少々別だが、これでも汀は自制力に自信があった。
「あーあ。やっちまったかぁ……」
苦笑いを浮かべながら、穿がこちらへ声をかけてくる。そのあまりにも普段通りすぎる声にイラついて、思わず汀は四十センチ以上も背の高い彼を睨んでいた。
「おー怖い怖い。ンでナギ、これからどうすんだ?」
が、穿はその怒りにも肩をすくめるだけ。何事もなかったかのように飄々と問いかけてくる姿のプレッシャーに、ゆだっていた汀の頭が少しだけ冷えた。
「……にーちゃんをリビングに引っ張ってって」
「お前は?」
「話も聞かなきゃいけないし、この子を起こす」
「……あいよ」
提案に異を唱えることもなく、穿が憐牙を抱えて部屋から出て行く。何か言いたげだったが、何も言わなかったところを見ると――言っても仕方ないと思ったか、それともいつもの放任主義か。
どちらにせよ教師らしくはないな、と思いながら汀は少女の観察を始める。
綺麗な子だった。思わず羨ましいと感じてしまう艶やかな黒髪を筆頭に、すらりと高めのスレンダーな体格。好みにもよるだろうが、美人だということに疑いはない。
「……知らない娘だよ、ね」
期せずして兄と同じ呟きを漏らし、汀は初対面の少女を眺めた。双子とは言え憐牙の交友関係の全てを知っているわけではないが、それなりに熟知してはいる。
少なくとも彼女の知る範囲内では見たことのない顔だった。下着姿で憐牙のベッドにいるということは――まずそういう関係なのだろうが、もしそうだとすると少々腑に落ちないところがある。
「…………?」
冷静に考えてみれば、憐牙とそれほど仲の良い相手を汀が知らないとは考えにくい。いや別にそういう報告を律儀されているってことではなく、ただ単に表情を見れば隠し事を見破れるってだけなのだが。
(ひょっとして、早まっちゃったかな?)
咄嗟に刹那的な反応をしてしまったが、本当は何もなかったのかもしれない。
(まぁやっちゃったのはしょうがないし、この子を起こせば解るよね)
そう考え、兄のベッドで眠っている少女へ汀は手を伸ばし――。
「!?」
突如として翻った布団を、慌てて跳ね除けた。その影に隠れながら飛び出してきた少女を見据え、後方へと跳び退がる。
(な、なにっ!?)
思いもよらぬ少女の動きに汀は混乱したが、それでも体の方は迅速に反応していた。
後退から一転して転進、ベッドから地面へ滑るよう動いた少女に向かって下段蹴りを繰り出す。
迅雷のように速やかで、鞭のようにしなやかな蹴り。並の人間であれば躱すことも出来ず、ただ喰らうしかない――はずだったのだが。
「っ!」
「なっ……!?」
前転のように身を投げ出すことで、少女はそれをギリギリで躱してみせた。肩にでも掠ったのか小さく手応えがあったが、一撃で倒すことを考えていただけに驚きは隠せない。
だがその驚愕も一瞬。否、驚いている暇などなかった。
「っ!?」
少女は床に散らばっていた衣服を引っ掴むと即座に反転。痛むのか、肩を押さえながらドアへ向けて疾走を始めた。
どうやら逃げる気らしい。
何で逃げるのかは知らないが、事情を聞くためにもこのまま逃がすわけには行かなかった。
「待てー!」
故に汀も足を踏み出し、飛び掛るようなタックルを敢行する。
(このタイミングなら……間に合う!)
ほんの僅かだが自分の方が速い。本当にギリギリだが、このスピードなら少女がドアを潜り終える前に地面へと引き倒すことが出来る。
まるでスローモーションのように流れる世界。だが実際は一秒すらもかかることなく決着がつくはずの世界の中――まるで汀をあざ笑うかのように、少女の体が流れた。
「!?」
トップスピードの勢いに逆らわず、抗わず、受け流しながらの軽やかなターン。力を止めるのではなく、流すことにより実現される鮮やかな転進。
完璧なまでに練磨された体捌きを以って常識を覆した少女が、飛び込む汀の手を掻い潜って側面へと回る。最初から切り返しで振り切るつもりだったのだろう、隙だらけの汀に構うような動きは一切なく、ただ一心に部屋の出窓を目指していた。
そこは風と光の舞い込む外気の出入り口。
換気扇で代替出来る存在の窓を閉ざさず、開放していたのは部屋の主に違いない。
(にーちゃんのバカ! 窓を開けたまま寝ちゃダメだってあれほど言ってるのに!)
胸中でどこかずれた文句を兄へ捧げながら、汀はもう間に合わないことを悟った。腕をついて反転するにせよ、前転して振り返るにせよ、どちらにしても汀が追いつくよりも少女が出て行くほうが速い。
(でも)
見えなくても気配は鋭敏に感じられる。この感覚では彼女が出窓に辿り着くのと、汀が反転するのがほぼ同時になるだろう。
(まだっ!)
しかしそれでも汀は諦めない。
間に合うタイミングではなくても、外的要因のアクシデントはつきものだ。そうでなくても身体能力は自分の方が少女よりも高いのだから、外に出てから追いつける可能性はある。
手を突いて反転、汀は一瞬もかからずに振り返った。視界の端、出窓へ足をかけた少女の姿をどこまでも追いかけると静かに決意し――。
「!?」
次の瞬間、背後で膨れ上がった霊力に圧されるよう体勢を低くした。何を考えるよりも先に動いた体は今までの訓練と経験の賜物である。
(これっ、て!)
汀にも見覚えのある、宙空を切り裂くように疾駆する鉛色の閃光。反応どころか視認すら難しい一閃が汀の頭上を素通りし、真っ直ぐに少女へ向けて迸った。
「っ!?」
その尋常ならざる気配に気付いたのか、振り返った少女が押し殺した吐息を漏らす。一瞬で自らの不利を悟り、窓の外へ身を投げ出したのは上々の判断だったが、迫り来るモノはその程度で躱せるような代物ではなかった。
「うっ……!」
腕へ、足へ、腰へ、腹へ、胸へ――少女の全身、ありとあらゆる部分へ絡みつく神代の忘れ形見。
常識外の速度で対象を束縛し、捕縛された相手は決して逃れられない絶対たる縛鎖が、その全身を余すところなく絡めとる。
かつて天に君臨した女王すら捕らえた鎖の神器。
故にその名を“神縛の鎖檻”――――!
「……!?」
少女の全身をくまなく覆ったムルキベルはしかし、それだけでは終わらなかった。ビデオの巻き戻しのように鎖が縮小し、部屋の中へ引き戻した少女を壁へと叩きつける。
「か、は……」
頭でも打ったのか、その衝撃で彼女の意識は落ちたようだった。鎖の拘束から逃れようと暴れていたのがピタリと止まり、その手に握られていた衣服が床へと落ちる。
「…………」
少女が汀を振り切ってから一秒弱。僅かそれだけの時間で、絶対有利だった彼女を容赦なく昏倒させたのは――。
「……ちっと手荒だったか?」
ムルキベルの先端を弄びながら部屋に入ってきた穿だった。一応は心配しているようだが、それなら最初からやらなければいいと思う。
「ちょっとどころじゃないよ。ウガっち」
なので、汀は素直にため息をつきながら返答してやった。さっきまで争っていた彼女が同情してしまうほど、穿の処断は容赦がない。曲者を捕まえるためとは言え、女性を大事にしろと教えるべき立場の教師の行動ではないだろう。
「って、そんなことはどうでもよくてっ!」
そんなことを考えてからようやく汀の頭が冷えた。慌てて振り返り、彼へ向き直る。
「なーに慌ててんだよナギ。大丈夫だって。あの程度じゃ死にはしねぇから」
「そーじゃなくて! あたしはムルキベル使っちゃって大丈夫なのかって訊きたいの!」
少女に巻きつく鎖を指差し、語気も荒く汀は問いかけた。
彼女を捕らえたかったかと聞かれれば間違いなくイエスだが、それはあくまで興味本位の好奇心からである。わざわざ神器を使うリスクを負ってまで捕らえるような相手か問われれば、それは返答しかねた。
「あー……そっちか」
だが、そんな汀の抗議を穿はさらりと受け流して。
「安心しろ。同類だ」
そんな答えを、返して寄越したのだった。