第8話 果てしなく声響き
8.
そうやって先輩と話をしながら過ごす日々が続いた。色々な事を教えてもらった。私も、色んな事を伝えた。子供の頃の話、少し成長した頃の話、教会の人の話も。その話をしている時に先輩が苦笑していたのは、もしかして先輩はディアナ様に聞いてその人の事を知っているのだろうか?そんな事を思ったりもした。聞いてみても、『名誉のために言わないでおくよ』なんて、そんな言葉と共に苦笑いするばかりで教えてくれないので諦めた。他にも色んな話をした。けれど、それとは別にまだ知らない事がある。
先輩の名前である。
相変わらず、知らないとしか言ってくれないのである。恥ずかしがり屋にも程があると思うのだ。しかも防御は完璧で咄嗟に聞いても絶対、知らないとしか言ってくれない。あまりに私がしつこいので、先輩もため息を吐いていたぐらいである。相当、鬱陶しく聞いていたと思う。どれぐらい鬱陶しいかといえば、ドラゴン師匠ぐらいである。いや、それは言い過ぎだろうか。
そのドラゴン師匠に関していえば、相変わらずといえば相変わらずである。いや、そうでもないか。時折、忌々しそうにしている様子を見れば、そうとは言えないだろう。
「……頭痛いです」
勿論、ドラゴン師匠のことで悩んで頭が痛いわけではない。
延々とこんな事でも考えていなければ耐えられないぐらいに泣いている声が聞こえていた。進めば進むほど、歩けば歩くほどそれは強くなっていく。
とどのつまり、ドラゴン師匠が時折忌々しそうにするのも、足が重くなっているのもそれの所為だった。
「毎回毎回鬱陶しいわ、ほんと……」
そんな愚痴を零すぐらいにドラゴン師匠の調子は悪い。寧ろ私よりも悪いように思える。それでも凛とした姿を崩さないのは流石だけれど、それも今暫くの事だろうと思う。
私達の中で唯一無事といえるのはリオンさんだけだった。リオンさんもこの声を聞いているだろうに、それが一切表情に出ていなかった。いつものように笑みを浮かべて時折立ち止まっては何やら採取をしていた。全く普段通りだった。その事を疑問に思い聞いてみても、
「私も人でなしですしねぇ。それにいい加減慣れました」
返って来るのはそれだけだった。
「寧ろ理解できていれば、カルミナさんに御同行頂く必要はなかったといいますか」
「……はぁ」
そして、残る先輩はといえば、苦しそうではあったけれど、それでもドラゴン師匠よりは大丈夫のようだった。時折思い出したかのように耳を押さえるぐらいだった。
「私もそういう意味では大概人でなしですから」
そういう言葉をそんな丁寧に言われると違和感しか覚えないが、大丈夫なら何よりだった。先輩がそう言う風に自分のことを称する理由はもう教えてもらった。自分は人に作られた存在である、と。真っ当に産まれず、真っ当に育てられず、だから感情を理解する事は難しい、と。その事に僅かながらの憤りを感じた。僅かでしかなかったのは、そうでなければ私が先輩と出会う事がなかったから、という独善的なもの。やっぱり私って優しくないな、と思った瞬間でもあった。
そしてディアナ様との関係も聞いた。初めて出来た友人。それがディアナ様。先輩が立場上奴隷のままでいるのはディアナ様のためというのが強いそうだ。ゲルトルード様との約束、みたいなのもあるらしいがそっちに関しては詳しく聞いてはいない。ともあれ、友人のために奴隷のままでいるなんてほんと……変で、優しい人だと思う。感情を理解しきれないなんて言ってはいるけれど、普通に理解していると思う。そうじゃなかったら、私のために来てくれる事もなかったのだから。全く、照れ屋さんである。
ディアナ様といえば、話の過程で一つ教えてもらったことがある。常々疑問だったのだけれど、
「ドラグノイアって……ミドルネームではなく家名だったんですね」
「そそ」
それは物を知らない子だと言われてもおかしくない。
「だったら尚更なんですけど、なんで私にドラグノイアの名前まで……」
「そこは自分で考えなさい」
なんて、ディアナ様みたいな喋り方で先輩が口にする。そんな風に口調がころころ変わる理由も教えてもらった。言葉を後から覚えたから、誰かの真似をして覚えたからという事らしい。……誰だ、先輩に下品な台詞を教えた奴は。楚々としていれば大変、白くて綺麗で鎖骨が麗しい人にそんな下品な台詞を教えた奴に一言物申したい。
ともあれ、である。
泣き声が、いいや、もはや嘆きと称した方が良いだろう。それが強くなっている。これから更に強く、強くなっていくという。脳髄を蟲に這われるような嫌悪感だけならまだしも、心揺さぶられ、自然と涙が出て来そうになる。とても悲しくて、どうしようもないぐらいに悲しくて……それが零れ落ちないように必死に押さえながら……ということは無きにしも非ずだったけれど、どちらかといえば、私は怒っていた。
強くなればなるほど。痛みを覚えるぐらいに強くなればなるほどに怒りを覚えて行く。
死にたがりの馬鹿はたくさんなのだ。
それは例え神様だって同じだ。
絶対、殴ってやる。
改めてその事を心に誓いながら、神様へと至る道程を行く。
―――
人間は、流れ始めた涙を止めようと思って止める事はできない。
それはドラゴンだって同じのようだった。
最初にそれに気付いたのは、二つ目の巨大な空洞に至った時だ。
深く進めば進むほど、洞穴内の道が大きくなった。通路―――というと語弊はあるが―――も大きければ開けた場所も非常に広い物となっていた。十日程前に通った一つ目の空洞では、閉塞感のないそこを一日掛けて歩いた。自分が本当に洞穴内にいるのか?陽の落ちた夜の平野を歩いているのではないか?そんな錯覚に陥る程だった。
そして二つ目の広い空洞。ドラゴン師匠が適当に炎を撒き散らして確認した所、これも反対側まで行くのに一日は掛りそうだった。
そんな巨大な空間に、神の嘆きが響き渡る。壁に、地面に、天井に反射し、増幅して四方八方から私達を襲う。それだけでは済まず、それに合わせて常に地面が揺れていた。揺れるようになってきていた。歩いている内に吐き気を感じ、何度か胃の中の物を吐き出した。そんな状況でも浮いているドラゴン師匠には関係ないのだろうな、ちょっと羨ましいなと思い目を向けた時だった。
ドラゴン師匠の赤銅の瞳から、一筋の涙が流れ落ちた。
綺麗な、まるで宝石のような涙だった。
「師匠?」
「全く、この私が最初なんてね!この人でなしども!少しは人間らしくしなさいな!」
悪態を吐きながら、けれど、それでもドラゴン師匠の涙が止まる事はなかった。そして、最初から諦めているとばかりにそれを拭う事もせず、ただただ流れるに任せていた。
「と、言われましても……」
嘆きの声に、脳髄を抉られ、感情を揺さぶられ、泣きたくなる気持ちは凄く良く分かる。けれど、私は深層に近づけば近づくほど怒りの感情が強くなっていくので、涙を流す事はなかった。どちらかといえば、地面が揺れる事による吐き気の方が今の私にはきつい。そんな事を考えながら、胃の辺りをさする。ごつごつしたガントレットの感触が痛かった。
「ガラテアさん。私も、もうそろそろ限界だと思います」
そんな風に胃の調子を確かめているのかガントレットの調子を確かめているのか分からないような事をしていれば、先輩がそう言った。見れば、感情に流されまいとして歯を食いしばっていた。更に良く見れば何かに縋るように先輩は鞘を握り締めていた。白い肌が赤らむぐらいに強く、強く握りしめていた。
「ま、そうよね。貴女が一番まともよね」
「師匠」
「何よ、欠陥品」
「ティア。そんな風に悪態を吐かない。ティアはとっても優しいドラゴンだから仕方ないんですよ。あぁ、いえ、お二人が優しくないという意味ではないですよ?」
そう言って、微塵も変化のないリオンさんが、私の持っていた頭陀袋の中から紙の束を取り出した。その束を開き、包まれていたその中から枯葉を取り出し、その場でくしゃくしゃと粉々にし、次いでドラゴン師匠へと振りかけた。そして先輩にも。
訳知り顔のドラゴン師匠とは違い、一瞬、きょとんとした先輩だったが、次の瞬間、表情を柔らかくし、リオンさんに頭を下げた。
「楽になりました?」
「えぇ。御蔭さまで」
何が楽になったのか、というのはドラゴン師匠の顔を見れば分かる。涙が止まっていた。
「なんなんですか?それ」
「とっても心が落ち着く不思議な粉です」
「……なんだかとっても怪しい感じに聞こえますが」
「いやいや。怪しいものではありませんよ。痛み止めとか、麻酔とかと似たようなものです」
苦笑しながら、リオンさんが私にもそれをかけてくれようとして、断った。
「カルミナちゃんは大丈夫なので。それに、聞いていてあげたいんです。どれだけ悲しかったのかなって……まぁ、聞けば聞く程、怒りがふつふつと沸いているのが現状ですけど」
「それは……流石に驚きますね」
相変わらずの笑みを浮かべた姿。それのどこが驚いているというのだろうか。
「驚いた表情してないじゃないですか」
「いえ、これでもかなり驚いていますよ?最初の時は流石に私もきつかったですし……何とも頼もしい限りですね」
「……はぁ」
「ティア。貴女の御弟子さんは凄いですねぇ」
「そりゃそうよ、『私の』弟子だもの!」
弟子として何かを教えてもらった事なんて殆どないけれど、そう言われて嬉しくない、という事はなかった。
幾分元気になったドラゴン師匠を先頭に巨大な空間を行く。
見渡す限りには危険は感じられなかった。時折、巨大な生物の死体が転がっているのが見えてびくり、とするけれど、死んでいるのだから動くはずもなく。ドラゴンゾンビのような生物も中にはいるのかもしれないが、幸いにして今、この場でそのような生物はいなかった。
結果、当然の如くリオンさんがその死体を切り取ったり、採取したりして、半日が過ぎた頃だろうか。食事となった。
「これはちょっと何とも言えない感じです」
「むむ……残念です。私もまだまだ修行が足りませんね」
人間、慣れてくるとこんな状況でも料理の品評は出来るようで、加えて長い間リオンさんの食事だけを食べていればこれもまたある程度慣れてくるもので、美味しい以外の意見を言えるようになっていた。
「酸味がちょっときついです」
「やはりそこですか。使うならやはり新鮮な胃酸を使うべきでしたね……いえ、食材の所為にしては駄目ですねぇ。また、新たに考えてみますのでその時は宜しくお願い致します」
反省、反省とリオンさんが猫のような髪をぽりぽりと掻く。
もっとも、今啜っているものがまずいという話でもない。
「楽しみにしています」
是非、腐りかけの死体から取り出した胃酸をもっと巧く扱えるようになったら教えてほしいと思いながら、碗を傾ける。
「ちょっと白い子。貴女の番でしょ?どうにかしなさいよ。このままだとパパの二の舞よ?『朝食です』とか言いながら貴女に錆とか黴とか喰わせるようになるわよ?それで、『ちょっと刀を錆びさせて来てくれませんかね?』とか言いだすわよ、きっと!」
「もはや手遅れといいますか……というか貴女の弟子でもあるのですが」
「二人とも煩いです」
全く。
こく、こくと喉を鳴らしながら二人をじとーっと見つめる。
しかし、やっぱり美味しいけれど、僅か酸味が強い。とはいえ、物足りないのも事実で、お代りを要求すれば、リオンさんがちょっと苦笑を浮かべながら碗に怪しげな色の液体を注いでくれた。次いで、ドラゴン師匠が数日前に殺したドラゴンの直腸を切って焼いたものを碗に入れようとしているのを見て、ついつい、
「あ、もうちょっと大きめでも大丈夫です」
食欲旺盛な私はそんな事を言う。お腹が空いているのが悪いのだ。吐いたのもそうだが、怒り、という感情は意外と体力や精神力を使うのだ。だから、お腹が空いていてもおかしくない。えぇ。おかしくない。
「了解ですよ」
さらに苦笑気味にリオンさんが少し大きく切られていた腸を菜箸で摘んで碗へと。それを受け取り、呑むようにしてそれを食べる。ドラゴンの呪いが更に強まらないか?と一時期は考えていたけれど、一度呪いを受けているのだ。一匹でも二匹でももはや関係ないと思う事にした。実際はどうか分からないけれど、ドラゴン師匠に襲いかからない以上大丈夫なのだと、そう思う。
食事を終え、片付けをし、再び歩き出す。
そろそろまた、薄汚れて来た服を洗濯したいとは思うので今日休む前に皆の服を洗っておくとしよう。
女三人で男一人なので、私が皆の服を洗っている時にリオンさんがもしかして!とかいう思いが最初の頃は僅かながらあったけれど―――肌着姿というか下着姿だし、ドラゴン師匠なんてほぼ裸なわけだし―――大概そういう時のリオンさんは調理器具の手入れや料理研究に夢中なので見向きもされないので安心だった。枯れているというか、逆に思う所が出たのは我儘でしかないのでさておくとしよう。ただ、色んな意味でこの人は女の敵であると再認識した。
「敵は殴らないといけませんよね」
「なんですかカルミナさん唐突に」
「いえ、そういえばリオンさんの事を殴って無かったな、と」
「……覚えていましたか」
「しっかり覚えています。モツだけで騙されるなんて思ったら間違いです。でも、殴るのは戻ってからにします」
「では、フルコースで」
……騙されそうだった。
「だ、騙されませんよ」
「目が泳いでるぞ、カルミー。もう、それで納得しておけよ」
「……むぅ。先輩が言うなら仕方ありません。それで騙されてあげます」
「それは何より」
リオンさんのフルコースというのも是非食べてみたいので。何が出るんだろう。何が……食後なのにじゅるりと涎が口の中に発生した瞬間だった。
「やっぱり番の言う事なら聞くのね、この弟子は」
「煩いです」
―――
そんな馬鹿話がいつまで出来るはずもない。
あれから更に日数が経過した。私達は大空洞を抜け、比較的広い通路を昇ったり、降りたり、狭い道に見事に詰まったまま身動きのとれないスライミーな存在を焼き殺したり、生食したりしながら進んでいた。
そして、気付けばリオンさんの用意した枯葉でもドラゴン師匠の涙が止まらなくなっていた。結果、進む速度は目に見えて遅くなった。気だるげに道を行くドラゴン師匠の姿。それでも奇怪な生物が現れれば颯爽と殺しに行っているのだから、まだ大丈夫なのだろうとは思う。が、いつもの不遜な態度というのは、影をひそめ始めたと言わざるを得なかった。
「何よ、所詮私はドラゴンよ。ふん、私なんてどうせドラゴンよ」
止まらぬ涙を流しながら、そんな鬱陶しい事を言うぐらいに。
とはいえ、それで不安があるかと言えば特にないのもまた事実。
「まぁ、この状態の方が強いんですけどね、この子。遊ばなくなるので」
身も蓋もない父親の言葉に反論する元気もないのだろう。無視して先を進み、塞がった道は蹴倒し、現れた生物の命を止めて行く。人とは非なる咆哮をあげ、遊びなく、手加減なく、容赦なく、弱肉強食という言葉そのものに従うように。
そんな風に先を行くドラゴン師匠が突然、足を止めた。
何があったのか、そう思う前に、ぞくり、とした。
寒気が走った。
今の今まで気付かなかった自分の鈍さが許せなくなるぐらいにそれは突然だった。神が泣いたわけではない。地が揺れたわけではない。ただ、その先に存在するであろう物に対して、命の危機を感じた。
全身から汗が流れ出る。
この先から漂ってくる吐き気を催す腐臭すら気にならない程に。がなり立てる神の嘆きの声など聞こえないぐらいに。地面の揺れに吐き気を覚えていた事など忘れ去るぐらいに。怒りなど掻き消えるぐらいに。
恐怖。
ガタガタと鳴る歯が押さえられない。先輩が落下した時に感じたそれよりも尚、酷い。そして、それは先輩も同じようだった。見れば自分の腕で自分を抱きしめている。どうにか歯を食いしばろうとしてそれがカタカタと鳴る音が聞こえて来る。
「カルミー」
震える声が聞こえた。
何とか先輩の方を向けば、瞳が……その何をも見通す瞳が……恐怖に怯えているように見えた。そして、少しずつ焦点がずれていく。先輩の意識がずれていく。
「先輩!駄目ですっ」
咄嗟に、何もかも忘れて先輩の腕を、手を掴む。行ってはいけない、と。どんな事があってもこの先に一人では行かせない、と。
手の平から伝わる先輩の手の平は酷く冷たかった。それが温まるように強くその手を握り締める。
「あ、あぁ……役立たずだなぁ、私」
そうしていれば、幾分落ち着いたのか先輩がため息と共にそう呟いた。
「それはもう言わない約束です」
「そう、だったね……」
そう言って、顔を伏せ、同時に目を閉じる。
「何が、見えたんですか」
ドラゴン師匠の作り出す炎はその先を照らしてはいなかった。あえてそこで止めたのかと言わんばかりに、『その先』を照らしていない。故に、その先に何があるのか私には分からなかった。唯一分かるとすれば、きっとまた巨大な空洞があり、そこに何かが『いる』のだろう、という事だけ。
「見えない。見えていない……いいや、見えていたんだ。けれど……あんなものが」
らしくもない先輩の震える声が、しかし、それも分かる。分かってしまう。
この先に『いる』、そう思うだけで私も気が気ではない。寧ろこうして先輩の手を握ってでもいないと意識を保っていられそうにない。
ドラゴン師匠が足を止めた瞬間から、ずっと、『殺せ』と耳元で鳴いている。脳髄の奥から響いている。止まることのない衝動が私の体を侵して行く。
この奥へと向かい、その場にいる存在を『殺せ』という衝動が。
「ドラゴン……」
呆然と、呟くように。
それに合わせて、
「あははははははっ!」
哄笑が洞穴に響く。
涙を流していたのが嘘だったかのように。涙は止まり、その代わりに赤銅の瞳が怒りに満ちていた。赤い唇は吊り上がり、僅か開いた唇の奥からは恐ろしく鋭い歯が見える。
再び背筋に寒気が走ったのは、ドラゴン師匠のその笑いが原因だった。
笑っている。
嗤っている。
哂っている。
仇敵を見つけたかのように。
殺さずにはいられない存在と出会ったかのように。
その先を睨みつけながら、笑っていた。
「ティア?」
「パパ、ごめんね。でも、絶対、邪魔しないでね。あれは私が殺す。絶対に殺す。一欠片も残さない。……カルミナちゃんも白い子も絶対に邪魔するんじゃないわよ。いいえ、ここにいられると邪魔よ。だから先に行きなさい。それぐらいしてあげるわ。私、優しいからね?……だから、さっさと行って頂戴」
感情を無理やり抑えるような声音で、まくしたてるようにそう言った瞬間、とても優しい風が私達を包み込み、空洞へと誘う。炎と風に守られながら、私たちはその空洞に送り込まれた。何もドラゴン師匠が私達を生贄にしようとしたわけではない。その方が早いから、だ。向かう先はこちらしかない故に、その方向に飛ばされるのは分かっていた。だからこそ、構えていたからこそ、一瞬、見えた。が、次の瞬間には目を逸らしてしまった。
一瞬で十分だった。
風に吹かれ、宙を浮きながら、襲ってくる衝動と、ソレを見た吐き気に耐えながら、風の誘うままに、あり得ない速度で別の入り口……いや、空洞の出口へと飛ばされた。その出口が、私達が入った所からさほど離れていなかったのが幸いだった。これが他の空洞と同じく抜けるまでに一日かかるような場所であれば、流石に発狂してしまっていたに違いない。
そこに居た『ソレ』にとって私達など塵芥と同じだったのだろう。私達が風に飛ばされている間に何が起こる事もなく、何をされる事もなく、私達はそこに到達した。到達した瞬間、私達を守っていた風と炎が消えた。
「……」
私も、そして先輩も声が出せなかった。
見えたもの。
それは山だった。
何本ものドラゴンの首と頭と尻尾が生えた山だった。数え切れない、それこそトラヴァントを襲った天使よりも更に数が多いのではないだろうか。まさに無数のドラゴンの首がその山の様な体から生えていた。
そして、その全てが腐っていた。
身体も、首も、足も。腐り、爛れた肉がどろ、どろと地面に流れていたのが見えた。その隙間、骨が見え隠れしていた。その骨すらも腐食に侵され蝕まれていた。故に……その山は傾いていた。自分の重さに耐えられず、自らを殺している生物としては完全なる欠陥品。
そんなのが生きているというのだろうか?その疑問の答えは……その頭部。前に見た三つ頭のあったドラゴンのようにその首それぞれに脳があるのだろう。けれど、その脳の部分には、その全ての頭部には天使が乗っているように見えた。或いは悪魔だっただろうか。操られているのだろう、そう思った。腐ったドラゴンの首に寄生する天使と悪魔。怖気しか湧かない存在だった。
そして、その山の頂上、その中心には、人型の白骨があったように見えた。空を飛んだからこそ見えたけれど、当然、地面から見えるようなものではなかった。山、なのだから。山の麓から頂が見えるわけもない。
この存在をなんと称せば良いのだろうか。ドラゴンの山だろうか、天使や悪魔の山だろうか……どうでも良い。分かるのは、少なくともその存在が、
「醜い。本当に、醜い……もしかして、それでお母様を模したつもり?」
逆鱗に触れたという事。
パパが大好きで、母親がとっても大好きだった美しく、優しいドラゴンの決して触れてはならぬ禁忌に触れたという事。
怒りを露わにしたドラゴン師匠の言の葉が、空洞の中を伝播する。離れていようとその声が、その想いが伝わって来た。
その声に反応し、ずず、と音を立て山が動く。その振動に体が爛れ落ちる、首が動く、その頭部にいる天使が羽をはためかせ、悪魔がカチカチと歯を鳴らす。
「あはははははははははははっ!」
再び哄笑が響き渡る。そして、それが止まった瞬間、世界が僅か沈んだ。
高い所から急激に落下したような浮遊感すら覚えたそれは、もしかして、ドラゴン師匠が地に足をついたから、なのだろうか……そんな風に思った。
「全力で……殺すわよ」
咆哮の如く、そんな声が聞こえて来た。次いで、その美しい唇の奥から、そのものドラゴンの咆哮が生み出された。
「これは怒っていますねぇ……お二人とも、ここにいては邪魔になります。先を行きましょう」
そんなリオンさんの言葉と同時に、一瞬で大空洞に何十という炎の柱が昇った。炎の螺旋。地上から天井へと繋がるように作られたそれが腐ったドラゴンの首を、肉を、その頭部に位置する天使を焼いているのが見えた。
「は、はい」
そんな光景から目を逸らし、腰元から鍋を取り出し、炎をつけて灯りを確保し、私達はその場を後にした。後にするしかなかった。
そして、私達はドラゴン師匠と分かたれた。
―――
「すみませんね……生みの親の姿をあんな風に模されたら、流石のティアも感情が抑えられないでしょう。いや、申し訳ない」
少し離れた場所に移り、漸く戦闘音が聞こえなくなった頃、先を歩いていたリオンさんが口を開く。
「あれが……あんなのものが……生物なのですか?」
きっとその全てが見えたであろう先輩は未だ震えていた。その震える手を取り、二人で並んでリオンさんの後を行く。
「気が狂ったドラゴンの神様が手ずから作ったとかではないですかね?あぁでも、天使や悪魔もくっ付いていたみたいですから、人の神様を殺そうと苦心して合作でもしたのかもしれませんね……まぁ、あんなのに私の娘は負けませんから、安心して下さい。流石に時間はかかると思いますが、その内追い付いてくるでしょう」
「心配ではないんですか?」
いくらドラゴン師匠が強くても、それでもあんな山と塵芥のような差は埋められるものではないのではないだろうか。ドラゴン師匠本人に言えば怒られるかもしれないけれど、心配だった。
「特に何も。それに……いえ、別にこれは良いですね」
「……?」
「ティアも私達の賭けの結果が知りたいって事ですよ。ほんと、母親想いの良い子です」
「えっと……」
「何でもありません。心配なんて無意味です。『私の』義娘は強いですから」
言って、再びリオンさんが前を行く。私から頭陀袋を受け取り、それを肩に掛けて歩いて行く。それに私達は付き従うだけだった。鍋の炎を少し強くし、リオンさんの視界にも届くようにして、二人して周囲の警戒をしながらついていく。
ドラゴン師匠のいない道程。
酷く恐ろしかった。だからといってドラゴン師匠が追い付いてくるのを待っている程の余裕があるかといえば、これは正直、分からない。今回は特に妖精さんが無理をして一度目を覚ましている所為でどうなるかが分からない、というのがリオンさんの意見だった。だから、ドラゴン師匠が言ったように先へ向かいましょう、そう言われ先に進んでいる。勿論、それ以外にも理由はあった。多少離れたとはいえ、近過ぎるのだ。地に足をついただけで洞穴が沈むような者達の戦いなのだ。周辺その全ては崩壊してもおかしくはない。ゆえに、その場を離れる事は正解だったといえよう。
けれど、その進みはドラゴン師匠がいない事で更に遅くなっていた。
最下層に近くなればなるほど、神様に近づけば近づくほど何かに襲われる確率は低くなる、というのはリオンさんが経験的に理解している事だそうだ。理由といえば、人の神様の所へ向かう事を最優先とする物が多くなるから、というのと人の神様の嘆きに他の生物は耐えられないから、とのことだ。後者のそれを聞いた時、ドラゴン師匠だけが涙を流していた理由を理解した。かろうじてドラゴン師匠が人型だから神の下へと辿りつく事はできるようだけれど、それでもかなり辛い事らしい。
そして実際に、何かに襲われるという事は少なくなっていた。勿論、それは何かと遭遇しなかったというわけではない。例えば、スライミーな巨大ドラゴンがどろどろと床をのたうち廻るように這いながらどこかへ向かう姿にはぞっとした。その時は、こそこそと壁に隠れてやり過ごした。やり過ごせた。リオンさんの言う様に殆どの生物が神様の下へ向かう事を目的として行動しているため、私達を見つけてどうにかしよう、というものはそれ程いないようだった。ゆえに興味がないと無視される事も多かった。それはドラゴン師匠を欠いた今の私たちにとっては本当にありがたい事だった。
ちなみに、無理してこの場まで来たであろう弱い生物はほとんど死に絶えている。神の下へ向かうという本能に従い神の下へと向かうが、途中で死に絶えたのだ。御蔭でここ数日食べているものはそいつらの腐肉ばかりだった。
「リオンさん、何されているんですか?」
「松明の代わりにならないかと思いましてね。あまりカルミナさんに負担を掛けるのもどうかと思いますので」
腐肉の脂身から油を取り出し、それを皮に浸して骨に巻く。即席の松明の出来上がりだった。そして先輩はといえば時折涙を零し、それを拭いながら刀の手入れをしていた。
「これももう駄目かな……限界はあるよなぁ」
そう言って再び目元を拭う。ここに至り、先輩の瞳からも涙が流れていた。白い頬を伝う涙。なんだかついつい拭ってあげたくなるのは……何でだろう。なぜだか、時々そういう気分になる。
ともあれ、そう言って先輩は腰元から一つ鞘を抜いて、その場に捨てた。捨てた瞬間、一斉に何匹もわらわらと寄って来る栗鼠のような小動物にはびっくりしたが、それを皆で協力して運んでいく姿はちょっと可愛らしかった。可愛い物好きな先輩は当然それに反応して一匹捕まえようとしていた。が、その栗鼠のような生物は捕まえられる事もなく、颯爽と逃げて行った。
「残念、逃げられた……何よ、今の」
捕まえてどうするつもりだったのだろうこの先輩は。
「金喰い栗鼠ですね」
そう答えたのはリオンさんだった。
「あぁ、やっぱり栗鼠なんですね」
「いえ、厳密には分かりません。勝手にそう呼んでいるだけです。私は別に生物学者さんでもありませんので。とりあえず分かっているのは金属をがりがり齧って食べるのが好きみたいですね。ちなみに最下層付近にいて普通に生活している時点で分かると思いますが、相当生命力は強いですよ。活造りもできますし、食べたいのでしたら是非仰ってくださいな」
「……いらない」
「活造り?」
「カルミー、黙っとけ」
「はい」
怒られた。
ともあれ、今、先輩に残っているのは小刀だけ。それだけはまだ先輩の腰元にあった。帰りはそれこそドラゴン師匠に任せればすぐに出られるはずなのだから、行きだけ持てば良い。だから、これは良い配分といえる……のだろうか。
「ほんと丈夫だよなぁ、これ。材料は白銀と鋼鉄と天使の体液だっけ?城には大量の体液が残っているだろうし、白銀と鋼鉄なら集められそうだし……もう一本自分で作るかなぁ」
「いえ、先輩。白銀ドラゴンと鋼鉄ドラゴンだそうです」
そういうドラゴンはもう何度も見た。金稼ぎに余念のないカルミナちゃんとしては、金で出来たドラゴンがとっても興味深かった。その皮膚で作った薄い膜状の金箔なるものは食べるのが惜しいほどだった。勿論、食べたけれど。
「……今、初めて知った衝撃的な事実ですわ。それは……丈夫なのは当たり前ですわね」
突然、御嬢様っぽく喋るぐらいに驚いていた。しげしげと見つめながら大事そうにその刀身を布で拭き上げる。
「ドラゴン師匠が追いついたら、一旦、地上に戻って補給というのも手なんでしょうかね?」
「そういう事もできなくはないですね。ただ、たぶん……ここまで来ると難しいかな、と。私は大丈夫ですが……地上から一気に最下層まで辿りつくと……多分、カルミナさんでもかなりきついのではないかと。普通の人だときっと発狂します」
「……あぁ、なんだか納得しました。地上まで行っても同じ時間かけて戻ってこないと……という事ですよね」
「そういう事です。最下層から戻るだけなら良いのですが、すぐに最下層まで戻って来るというのはティアでももう二度とやりたくないと言っていましたしねぇ。よっぽどの事でもない限りは止めた方が良いですね」
ドラゴン師匠が二度とやりたくないだなんて、ぞっとする。
一度安穏とした空気を味わった後にすぐに絶望に至るような嘆きの声を聞けば、どうにかなってしまうというのは納得できた。何日も、何十日も、何カ月もかけてようやくここに辿りついたからこそ、私達はまだ慣れて来ているが、それでも辛いのだ。その時間を凝縮して一気にこれを与えられれば溜まったものではない。
今更ながらドラゴン師匠にだけ先に神様の下へ行って貰って穴を開けて戻って来て貰ってそこを皆で行くなんていう方法が脳裏をかすめたが、それもやっぱり同じく実行はできないのだろう。二度手間が過ぎる。時間制限のある事に対してそんな悠長な事やっていられない。
「さて、今日はちょっと少し作業させて頂きますね。ティアがいない分、準備は入念にしないといけません」
そう言って、その日、リオンさんはほぼ一日、何かを作っていた。蟲避けや匂いを誤魔化すもの、あるいは匂いを放つ物、或いは毒薬。
「毒薬も作れるのな、店長」
「はい。そういうのが好きな生物もいるみたいなので、お客様の希望にお応えしようかなと」
「ふぅん。後学の為に見させてもらって良い?」
「えぇ、どうぞどうぞ。あ、見るなら私の隣側の方が良いです。正面はまずいです」
「あぁ、なるほど」
そんな風に時折、興味深そうな先輩と会話しながら、作業を続けていた。そして特にすることのない私はといえば、当然の如く鍋に火を付ける灯り役である。
こうやってずっと灯り役をやっていて分かった事がある。ドラゴン師匠に水を掛けられた理由。それは、ずっと使っているとかなり体力を失うという事だ。魔法の発動媒体として鍋があるものの、使っているのはどうやら私の体力だとか精神力的なものらしく、ずっと付けっぱなしにしていれば非常に疲れる。重りを持ちながら歩いている内に重りがどんどん重くなるといえば、そんな所だろうか。だとすれば、ドラゴン師匠はどれだけ体力を持っていたのだろうか……休んでいる時でも常に魔法を使っているわけで、疲れないのだろうか。いや、結果論的に言えば大丈夫なのは分かっているけれども。
「ちなみに先輩はどれぐらい使っていられます?」
「はぁ?いきなり何の話よ。……あぁ、魔法の事?試した事ないよ、流石にね。ふやけてしまうしさ」
「あぁ……まぁ、そうですよね」
まぁ、水や湯船の中にずっと潜りっぱなしという状況もないだろうし、当然かな。
「数日ぐらいならいけるんじゃないですかね?」
納得しきりと頷いている私にそう言ったのは歪んだ緋色の包丁を使ってざっくざっくと何かを切っているリオンさんだった。良くそんな歪んだ包丁で綺麗に切れるものだと感心する。
「リオンさん、そういう事もわかるんですか?」
「いえ、流石に。私は使えませんしね、その鍋や刀は。単にカルミナさんが、それぐらい使いっぱなしだなと思っただけですよ」
「……そういえば、そうですね」
私、馬鹿だった。
「というかリオンさんは使えないんですか?」
「はい。人でなしですけど、私は交じりっ気なしの生粋の人間ですからね。魔法というのは全く」
「あー……という事は私も先輩も少しは混じっているという事ですか」
「そういう事になりますね。まぁ、寧ろ今の時代、そういう人間の方が少ないかと」
「そうなると誰でも天使に呪われる可能性があるという事ですか……」
「さぁ、それはどうでしょう流石に分かりかねますねぇ」
当然の答えだった。やっぱり私は馬鹿だった。
そんな会話をしながらリオンさんの作業が終わるのと同時に再び先へと向かう。
―――
リオンさんの作った匂いの元をさっそく振りかけて、こっそり隠れたり、穴の中で時を過ごしたり、細い道を這ったり、時折目印を残しては先を行き、行き止まりに当っては戻る。そんな事をしながら、何日もの間を過ごす。その間にドラゴン師匠が追いてくる様子はなかった。
何日も、何日も。ドラゴン師匠がいない事によって極めて緊張感が高くなった状態を過ごす。ただでさえ神の嘆きが強い所に更にそんな緊張感というのはきついものがあった。そして、それがさらに酷くなってきた頃だった。
翼竜と呼べば良いのだろうか。その羽一つ一つが巨大な剣と見紛うドラゴンが、私達を無視して物凄い勢いで飛んでいき、地上に落下した音を聞いた。おそるおそる三人で近づけば、ドラゴンが己の首をその剣のような羽で引き裂いて絶命していた。自殺したのだ。それから更に進んだ所には、死体のまま腐る事もなく放置された者達が作る赤い絨毯があった。それらの死体は軒並み己の首を、腹を、心臓を突き刺して死んでいた。
腐敗を進行させる生物すら存在していない自殺者達の空間。その死体に道を塞がれている場所を、その肉を切り裂きながら進み、時折、死体の肉を死体の血でもって茹で、水分を補給しながら進む。
「かなり近づいているようですね」
そのリオンさんの言葉が何となしに理解できた。
揺れが酷い、嘆きの声が酷い。
心が萎えそうになる。気を抜けばここにいる生物達のように自分を殺す事になるだろう。リオンさん曰く、生粋の人間ではなく、私達も混じっているのだからそれに耐えられなくなってもおかしくはない。
取りこまれるな、とドラゴン師匠が言った理由が分かった。
私は更に怒りが増しているという意味でまだ大丈夫だったが、先輩の涙はもはや止まらなくなっていた。際限なく続くそれは先輩の中にある水分その全てを失わしてしまうかのようだった。自分を殺したくなるほどの悲しみに堕ちて行きそうになっているのだろう。気を抜けば落ちて行きたくなる。死ねばこの苦しみを味わう必要が無くなる。それは甘い死の誘惑だった。けれど……それでも先輩は毅然としていた。大丈夫だと、何度も私に伝えて来る。そう言われると反対に心配になるのだけれども……。
そんな折である。
塔が立っていた、らしい。
またしても開けた巨大な空間がありそうだという事で、入る前に偵察のために、火を消して、先輩に中の様子を見て貰った。結果、その空間自体はそこまで広くないようで、駆け抜ければそれほど時間もかからないだろうという事は分かった。だが、そこに塔が二本立っていた、らしい。
「悪魔で出来た塔ですか?……今回は変なものばかり出て来ますねぇ」
戻って来た先輩の話を聞いて、リオンさんが呆れるようにそう呟いた。
塔には数多くの口があり、ひもじいとばかりにカタカタと歯を鳴らしており、数多くの目がきょろきょろとあちらこちらを見て何かを探していたという。そしてその目が、先輩の方を見たと同時に……少し塔自体が動いたらしい。動き自体はそこまで早くは無いが、これを避けて逃げ切るのは難しそうだという。
「……では、今度は私の番ですかね。ここまで声が強くなっている以上、神様はもうすぐそこだと思います。ですから、先に行っていて下さい。ここから先は危険への対処というよりも、気をしっかり持つ方が大事です。……私は、これを殺してから向かいますので」
「いえ、待ちますよ……」
「あぁいえ。ちょっと鼻につくものを使ったりしますので、二人の御命の保証ができません。ま、すぐ追いつきますよ。ああいう口の多い生物の相手は得意なんですよ。……昔から。何でかわかりませんけれど。……念のために今まで作っておいた物はお渡ししておきますね。」
頭陀袋ごと私に荷物を渡し、リオンさんは採取用の袋だけを持ってその場に座りこんだ。
暫く鍋の炎を頼りに作業していたかと思えば、次第、芳しい香りが湧き立った。
今までにない甘い匂いだった。甘くて、誘われるような匂いだった。彼岸へと向かわせるかのような、そんな甘さだった。
「こっちで気を惹きますので、その間に」
言われたと同時に、先日リオンさんが作った松明もどきに鍋の炎を移す。移して、鍋の炎を止めた。
松明の灯りの中、呆と浮かび上がるリオンさんが、真剣な表情をして、
「カルミナさん……私が追い付く前に神様の所に辿りついたら、神様の事、お願いしますね」
そう言った。
「はい」
それに答えれば、リオンさんが満足したように、先に空洞へと向かう。
「さて、こんな神様に近い場所まで御苦労さまですよ。ここまで来られてまだ命があるという事で尊敬したくもなりますが……あぁ、塔というのはもしかして人の足でも模したのですかね?……ま、ともかく。ここまで来られたんですからお腹も空いているでしょう?さぁ、ご賞味あれ」
漂う甘い匂いに、カタカタとなる歯の音が強くなり、私の耳にもその音が届いて来た。そして、二つの塔が交互に動きながらリオンさんへと近づいたらしい、という先輩の言葉を聞き、私は、先輩の手に握られて走って行く。
光一つない世界を二人で手を繋ぎながら、走り抜けた。
―――
風もなく、流れのない淀んだ空気。汚れ、腐敗した匂いが洞穴に充満していた。もはやそんな匂いも気にならないぐらいにその匂いに慣れ親しんでしまった。
神の下へ向かう途中で死んでいった者達。神の嘆きに自らを殺した者達の姿。自殺者達の作り出す赤絨毯。
そこを二人で行く。
片手には炎を産みだす鍋。片手には先輩の手。
先輩に手を取って貰い、先輩の手を取って二人で歩く。
白と黒の二人で赤絨毯を歩く。嘗て歩いた皇帝の間を思い出しながら二人で進む。
「二人だなぁ」
「二人ですね」
遠い所まで来たと思う。
先輩の瞳から流れ出る涙、それを指先で拭えば先輩が恥ずかしそうに顔を逸らす。
自らを殺す危険しかなく、自らを殺される危険など一切無い最後の道程。
叫びの中心、嘆きの中心へと向かう。
死者の葬列。さながら自殺者達に祝福されながら歩く自殺洞穴。
「先輩と二人でこんな所まで来るなんて思ってもいませんでした」
「それは私の台詞だけどな」
こんな場所だけれど、こんなにも怖くて悲しい場所だけれど、それでも何だか楽しかった。
とっても楽しくてついつい気が抜けてしまいそうになる。
淀む空気が宛ら毒のように周囲に漂っているけれど、神様の嘆きは延々と脳裏に響いているけれど、地は揺れっぱなしになっているけれど……それでも、楽しいと思えた。
そんな二人の時間も終わりを迎える。
到達点。
キラキラと光るものが見え始めた。
なんだろう?そう思いながら、先へ進もうとした時だった。
「……なるほどね。人間を模したら到達できると考えたってこと?ま、その分小さいから良いけどさ」
炎を向ければ人型をした何かが居た。
一体どこから現れたのだろうか。何体ものそれがいつのまにか私達の後方に沸いていた。
ずる、ずると音を立てて神様の下へと近づこうとしている。近づこうとして時折崩れ落ちる者もいた。弱く、儚い人間のように。崩れたその体から血肉、内臓が骨と共に落ちる。人間を模した人でなし。内臓と骨を人型の袋に適当に入れてかき混ぜたような、そんな醜悪な存在だった。歪んだ形をした唇からはうめき声。首にネームタグを付けたものがいる、剣を持ったものもいる。ぼろきれを着たものもいる。姿形だけを見れば人のように見える。けれど、決して人間なんかじゃない。意志も持たず意識も持たず、ただ洞穴の中心へと向かう事だけを義務付られた人形。こんなものを誰が作ったと言うのだろうか。
あぁ、そうか。悪魔で出来た塔は、これらを探しに来たのだろう。神様ではなく死んだ者達を冒涜するこの生物を探し、その魂を喰らいに来ていたのだろう。きっと、そうなのだと思った。そうやって考えていれば、先輩が背から荷物を下ろし、小刀を鞘から抜いて私の後ろに立った。
「カルミー、あそこがきっと到達点だろうから、ここはこわーい先輩に任せて先に行きなね。誰にも邪魔されず、神様と喧嘩してきなね」
「先輩っ!ここまで来て何を言っているんですか!」
二人で行けば良い。こんな足の遅い人でなしからなんて、逃げてしまえば良い。けれど、こんな物を神様の下へ連れて行くわけにもいかない。こんな醜悪な物で神様が殺されるわけもない。けれど……ここで先輩を置いて一人で行くという選択肢もなかった。
「いや、これさぁ……この洞穴内で死んでいった人間の血肉を集めたものだと思うわけよ。二千五百年?或いはそれ以上掛けて、神様を殺すために集めたんだろうなぁ。もう少しで成功したのかね?間に合ってよかったなぁ。流石カルミー、運が良いよな。……正直、魂がどうとか私には分からないけどさ。死者の冒涜って奴?そこは私も許せないと思ってね。柄じゃないとかいうなよ?あの人の娘である私が、これを見逃すなんてできないんだよね……お母様の大事な大事な臣民達の死体を冒涜されたまま見過ごしたとか言ったら、もう、顔向けできないんでね」
「このママ大好きっ子先輩!」
「何だよ、その罵り方。大丈夫さ、カルミー。私は、死なないよ。まだ、死ねないんでね……帰って、名前を教えて貰わないと」
……何だか何もかも忘れて素で驚いてしまった。開いた口が塞がらないとはこのことか、と理解した。
「って、本当に知らなかったんですか!?」
「そうだよ。いつも言っていたじゃない。名前は知らないって。カルミーには身の上話もしたのに分からなかったとかねぇ……ほんと、時折察しが悪いよなぁこの馬鹿は」
「馬鹿で良いので……じゃあ、それ教えて貰ったら最初に私に教えてくださいね」
「…………了解」
「では、先輩……また、後で。絶対ですよ?」
ゲルトルード様の名前まで出したのだ。先輩が引く事が無いのが……分かってしまった。だから、そんな約束だけ交わして、先輩に背を向ける。
「あぁ、また後でな」
背中の向うで、先輩がくすくすと笑っていた。その柔らかい笑い声に、つい振り返ってしまった。
先輩がこちらを見ていた。
炎に浮かぶその笑みは綺麗だった。絶対にもう一度見たいと思えるほどに綺麗な笑みだった。
そして、その笑みが苦笑に代わり、次いで私に背を向け、先輩が死者の葬列へと切りかかった。
白夜の姫が、怒りと共に冒涜された死者を弔って行く。さながらそれは鎮魂の舞の如く。
白い髪を、白い肌を、その着物を赤に染めながら。
それが、その色が先輩にはとっても……似合っているように思えた。
―――
嘆きの中心。
一歩踏み入れれば地面を埋めるのは水だった。足首まで浸るぐらいだろうか。冷たく、それでいて気持ちの良いと思える場所だった。
その事に、その事実に苛立ちを覚えた。
そこは球状の巨大な空間だった。今まで通って来た場所よりも尚広いように思えた。そして、それが見えるぐらいその場所は明るかった。炎に頼らずとも、遠くまで、目を届く範囲まで、見渡す事が出来るぐらいにそこは明るかった。自然、握った鍋を腰へと片付ける。
鈍く光る花達が自ら発光し……神様を照らしていた。
「あぁ、脳だから夢を見るって話ですか」
いつかドラゴン師匠が脳みそ蛙の事をそんな風に言っていた事を思い出した。だからこそ、でしょう?なんてそんな風に言っていたのを思い出した。
それは巨大な脳の形をしていた。
巨大な幹に挟まれるように空中に留まっているのは脳そのものだった。溝の一つ一つが人間何十人を並べた深さだろう。全体の大きさといえば、あの山のようなドラゴンよりもまだ大きい、そんな巨大な脳だった。
「こんなに大きかったらそれはそれは考える事が多そうですね……」
聞こえている嘆きの声は、きっとその脳のどこからか出ているものなのだろう。鳴り止むことなく花を揺らし、水面を揺らし、自身を揺らし、天井を揺らし、世界すら揺らす程の声がそこから発されていた。
天井からがらがらと音を立てて落ちる岩石が、水面をぱしゃんと鳴らす。延々と。延々と。このまま続けばきっとこの場も壊れ、無くなってしまうのだろう。崩れ、潰えてしまうのだろう。そして神様自身を壊すのだろう。
その前に止めなければならない。
ぴちゃ、ぴちゃ、と水音を鳴らしながらとっても大きな神様へと近づいて行く。
広い空間を埋め尽すように咲いた花に目を向けながら、歩む。
一歩、一歩、と。
酷く優しい香りが鼻腔を擽り、先程まで死臭に侵されていた鼻がすん、と鳴った。
とても綺麗で、とても優しい場所だった。
「尚更、馬鹿だよ」
咲き乱れる花の中に一際綺麗で、目立つ花があった。自然と、それが目についた。六枚の薄い花弁が放射状に咲く花。きっと神様が手ずから作ったのだろうな、とそう思えるぐらいに幻想的で、現実的ではない彼岸の向う側に咲く赤い色をした花。
「神様、一輪ぐらい貰っても良いですかね?」
今先ほど分かれた白い髪をした人に、この赤い色の花が似合うと、そう思った。もっともあの髪質である。花を髪に差してもするり、と抜け落ちるかもしれないけれど。
なんて、この場にそぐわぬそんな想像をしていれば、頬が緩む。
あぁ、丁度良い。変に笑顔を作る必要がなくなった。
「ところで神様、泣いているから聞こえないかもしれませんが、私の名前はカルミナと言います」
笑いながら、語りながら、神様の下へと。
水底と球状の天井。天と地を結ぶ程の大きさ。こんな大きな存在がこの大陸の地下で一人っきり泣いているのだ。
馬鹿だと、そう思う。
こんなにも綺麗な場所で、たった一人で泣き続けるのだ。
馬鹿だと、そう思う。
「この世界を作ってくれて、ありがとう」
言って、一歩進む。
この世界が無ければ、私は産まれていなかった。だから、
「この世界に私を産んでくれてありがとう」
言って、一歩進む。
この世界が産まれ、それが今の今まであったからこそ、今の私がいる。そのことが嬉しくて、その事がとっても嬉しくて……だから、
「この世界で、周りを不幸にしてしまう私かもしれないけれど……それでも、ありがとう」
この世界に産まれて、色んな人やエルフに出会った。優しい人達もいれば怖い人達もいた。嫌な人もいれば大事に思える人もいた。
エリザに出会った。死にたがりの馬鹿だったけれど、今はもうそんな事はない。強くなった。お姉ちゃんとして妹を守る事のできる強いエルフになった。先輩に出会った。強くて綺麗でとっても優しい人だった。ずっと母親のためにがんばってきた人。私にとってもとっても……その、大事な人だ。リオンさんに出会った。変な人だと思った。けれど、凄く凄くがんばっている人なのだと知った。ドラゴン師匠にも出会った。ドラゴンだけれど、それでも両親想いのとっても優しいドラゴンだった。ディアナ様に出会った。怖い人だけれど、それでもどこか私を見る目は優しい。あの人がいなければきっと何も知らずに私はこの身を売るだけの人生だったのだろう。ただ生きているだけの人生だっただろう。メイドマスターに出会った。ドラゴン師匠が好き過ぎて時折馬鹿な人だけれど、でも凄い人だと思った。学園長に出会った。リオンさんの前では形無しだけれど、戦う姿はとっても綺麗だった。強い人なのだとそう思った。レアさんに出会った。姉と同じく死にたがりの馬鹿だったけれど、それでも今はもう大丈夫なのだろう。ジェラルドさんとアーデルハイトさんに出会った。二人はとっても良い夫婦だった。人とエルフの垣根を越えてそれでもなお、あんな風に居られるのはとっても良い事だと思った。時期を思えば大変だったのだと思う。テレサ様に出会った。最初は怖い人だったけれど、でもとっても優しくて面白い人だった。今も妖精さんを見守るために銛の中に隠れながらがんばってくれている。アルピナ様に出会った。ずっと誰かの為にがんばっていた人だ。多くの人達の希望として最後まで戦おうとしていた人だ。最近は普通の女の子のようになっていて、それもまた好ましいとそう思う。テオさんに出会った。怪我をしてもそれでも尚戦おうとした強い人。カイゼルやボストンさん達にも出会った。宛ら太陽のように輝く強い人達だ。他にも一杯色んな人達に出会った。
そして、ゲルトルード様に出会った。とっても綺麗な人だ。辛い日々を過ごしてそれでも尚、諦めようとしなかった人だ。たまに変な事を私に言ってくるけれどそれも別に今となっては気にならない。髪に手を触れながら、ゲルトルード様の事を思い浮かべる。また、切って貰わないと。きっと、お姉ちゃんって呼んだらまたやってくれると、そう思う。……お姉ちゃんというのが本当に居たのならば、あぁいう人がいいな、とそう思う。
「なんで最後がゲルトルード様だったんですかね……」
苦笑する。
「あぁ、ごめんなさい。神様。知らないですよね……いいえ、知っていますよね。皆の事。夢の中で見ていましたよね?覚えてないなんて言わせませんよ?」
きっと、覚えている。
「あんなにがんばって助けてくれたじゃないですか。ずっと昔からずっとがんばってくれていたんですよね?そんなとっても素敵な夢をどうして忘れられるんですか?」
忘れているわけがない。
「遥か遠い昔に嫌な事があったんですよね。悲しい事があったんですよね。心を傷付けて、死にたくなるぐらいに」
とっても優しいからこそ、神様は悲しみに泣くのだ。
「でも、止められたんですよね。リオンさんと師匠に。それで夢を見て、楽しい夢をみて……尚更、死にたいと思ったんですよね?」
人が死ぬ事が、エルフが死ぬことが神様の所為なわけなんてないのに。
「……馬鹿、ですよね貴女」
ほんと……
「……で、ですね」
顔を伏せ、一度、神様から視線を逸らす。
そして、再び、睨むように。
神に向かい、目を開く。
もう、限界だった。
「こんなに嘆きながら、こんなに悲しみながら死ぬとかいってんじゃないわよ。この馬鹿妖精っ!さっさと目覚まして帰るんだよっ。皆待ってる。貴女の事を待ってる。だからさ、さっさと帰ろう?私は馬鹿だし、皆も馬鹿だけど、貴女が一番馬鹿だよ神様っ!」
例えそれが夢だとしても。妖精さんは助けてくれた。絶望しながら、けれど、それでも夢の中で必死にがんばっていたのだから……だから、もう良いじゃないか。
「誰も貴女が死ぬ事を望んでなんていない。皆貴女が生きている事を望んでいる。未来を望んでいる。……それでも、死にたいなんていうだったら、殴ってやるからそこを動くなっ」
もう、怒りしかなかった。
こんな頭の悪い神様なんて、その巨大な脳を殴りつけて考えを改めてやる。こんなに大きな脳をしていて何でそんな馬鹿な事を考えるんだ。全く……許し難い。
「こんな綺麗な場所を作って、こんな綺麗な場所で一人寂しく死のうとするなんて、絶対に許さない。こんなにも綺麗な物を作りたいのに、作ったのに。貴女だって死にたくなんて、ないんでしょう?それなのに何でこんな馬鹿な事したいなんて思うんだ。もういい加減……」
一歩、一歩進みながら。
「ねぇ。ほら、見てよ。私、笑っているでしょう?変な顔でしょう?馬鹿みたいな顔でしょう?」
少しは、笑ってくれても良いじゃないか。
「貴女の作った大事な子供達が泣いているんだよ?親が笑ってくれないと、子供が笑えるわけないじゃない」
この大陸で神の子が笑っている姿を見たくないの?自分の友人の子であるエルフ達が楽しそうに笑うのを見たくはないの?その間に産まれた子達が何の憂いなく笑いながら過ごす世界が見たくはないの?
いいえ、絶対に見たいはずだよね、神様。
この場を見れば分かる。どれだけ神様が世界を愛していたのかという事など、すぐに分かる。こんなにも綺麗で素敵な場所を作り上げた神が、世界を、自分が作り出した子供達を愛していないわけがない。
「だからさ……もういい加減、泣き止んでよ。ずっと泣いて、ずっと嘆き悲しんで。それでもまだ泣き足りない?」
だから……
「ねぇ……笑ってよ神様。私みたいにさ。馬鹿みたいに笑っていればその内良い事あるよ。きっと。皆に出会えた。神様にも出会えた。これから先もきっと一杯色んな人と出会って、色んな事をするんだと思う。そして私は……皆で一緒にまた遊びたいんだ」
そこにはさ。
「貴女だって含まれているんだよ?さっさと泣き止んで……私と一緒に遊ぼうよ。そっちの方が絶対楽しいよ?」
「ねぇ、神様さん?」
一際大きい地の揺れが伝わった後……世界は静まり返った。
神様が泣くのを止めた瞬間だった。
―――
正直に言えば、何が神様の琴線に触れたのかは分からなかった。殴り損ねたな、というのが本音といえば本音である。ともあれ、止まったのなら良かった、と思って馬鹿みたいに笑いながら、その場に座る。結果、お尻は水浸し、である。貞操帯の隙間から水が入って来てかなり気持ち悪かった。
その事が、面白くもないのについつい笑って笑って、馬鹿みたいに笑って……そういえば、と思い出して赤い色の花を摘んでいた時だった。
「あら、本当に止まったのね。出番がなくて残念ねぇ」
「師匠、なんだか久しぶりですねって……服ボロボロですね」
「ま、流石にね」
そこかしこが破れており、裸よりましといった程度だった。そんな姿も扇情的であるのは流石だけれど、手に持ったリオンさんの足を見ればやはりこのドラゴンは人でなしだな、と思う。
足を持ってずるずるとリオンさんを引っ張って来たらしい。結果、リオンさんの頭が水没していた。酷い娘もいたものである。これ、生き返ってもリオンさんまた死ぬんじゃ……なんて心配をする。
「あぁ、またぞろ阿呆な死に方をしていたパパへのお仕置きよ。気にしないで頂戴」
「気になりますよ……って、あれ?」
ドラゴン師匠がいる。
リオンさんがいる。
……一人、足りなかった。
「先輩は?」
「白い子?見てないわよ?」
ぞっとした。
「あれ?……えっと、入口から少し行った所で」
「あぁ、でっかい穴が空いていた所?」
笑みが引き攣った。
引き攣ったと同時に立ち上がり、駆け出す。
「あ、ちょっと待ちなさい!」
そんな静止の声は聞こえなかった。
走る。
水が邪魔だった。綺麗で優しい水が今はとても邪魔だった。荷物も邪魔だ。鍋も、包丁も、手に持った赤い花でさえ邪魔だった。荷物を捨て、ガントレットを外して投げ捨て、包丁を捨て、赤い花を捨てて走る。そうこうしている内にドラゴン師匠が炎をつけてくれたのを悟り、鍋も捨てて走る。
走り、走って駆け抜ける。
息が切れる。
けれど、今はそんな事どうでも良い。
足の動きが重い、体が重い、頭が重い。
でも、そんな事もどうでも良い。
ただ、早く。ただ、ただ、早く。
『後で』
そう言ったのに。
『絶対ですよ?』
あんなに、言ったのに。
『私は、死なないよ』
そう、言ったのに。
『まだ、死ねないんでね……帰って、名前を教えて貰わないと』
そう、言ったのに。
『名前、最初に教えて下さい』
そう、伝えたのに。
けれど……ここは、そんな希望が叶う場所じゃなかった。例え神様が泣き止んだとしても、ここはそんな甘い場所じゃなかった。
辿りついた場所。
ドラゴン師匠が言った通り、そこには巨大な穴が空いていた。最下層の更に奥深くまで届くような、そんな穴が空いていた。
膝が崩れ落ちた。
周囲を見渡しても何もない。何も……見えない。いいや、穴の淵に血が見えた。きっと人型のソレのものなのだろう。先輩が切って切って……それで付いた血なのだろう。けれど……
「あ……」
穴の端、そこに引っ掛かっているものがあった。
先輩の着ていた着物の欠片。
そして……
「……そんな……」
名前の書いてないネームタグが、その下……断崖となったそこに引っ掛かっていた。
ここから、落ちたのだ。
「やだ……」
折角、神様が泣き止んだのに。
折角、この大陸が自殺大陸なんてそんな馬鹿みたいな風に呼ばれなくて済むようになったのに。
神様だって笑っていられる世界になったのに。
こんな、こんな世界……
「------!」
声にならない。
こんな世界、望んでない。
私が……私が先輩を巻き込んでしまったのか。
『不幸の証』
誰も彼もを不幸にして、自分だけ幸せになる、そんな私の所為で……最後まで不幸になっていなかった先輩を……とうとう不幸にしてしまったのか?
「------!」
声にならない絶叫が、私の中で、私の中だけに響き渡る。限りなく、果てしなく、この身体の中に響き渡る。永遠に終わる事のない残響が、私を苦しめる。
でも、そんな風に苦しんでいる私を慰めてくれる人はもう、ここにはいない。
きっと神様も同じ気持ちだったのだ。大好きな友達を亡くした時……思ったのだ。
こんな世界無くなってしまえばいいのにと、初めてそう思った。
死んでしまいたいと、初めてそう思った。
瞬間。
「あ……がっ……」
突然、背に走った痛みに意識が持って行かれる。
やだ。いやだ。まだ希望はあるんだ。あるはずなんだ。ドラゴン師匠が来てくれればまだ追いかける事もできるはずなんだ。それなのに、ここで意識なんて失っているわけにはいかないんだ。
でも、一番その希望を信じられないのは……私自身だった。こんな所から落ちて助かるわけがない。地底湖に落ちた時だってただ運が良かっただけなのだから……そんな都合の良い事、何度もあるわけがない……
「……ぁ……」
心が萎えた。
心が負けた。
意識が薄れて行く。
薄れる意識の中。
声が聞こえた。
『あぁ、やっぱり……そうなんですね。教会に天使が降って来たというより、カルミナさんを見つけて降って来た、と』
『だから、言ったじゃない。私の鼻は確かよ。パパとミケネコの事もちゃんと見破ったじゃないのよ』
『そうでしたね……まぁ、今はそれよりも……多分、あそこですよね。ティア、一度外に。このままだとカルミナさんが不味いです。その後』
『分かっているわよ。それぐらいの情緒は私にもあるわよ。大事な弟子だものね。もう一人のお母様の願いを叶えてくれた子だものね。……それに混じっている奴には私、優しいからね』
何かを言う声がする。
大きな音が、天を割るような音が聞こえる。
けれど……そんな事もうどうでも良い。
こんな世界……見たくない……
無くなってしまえば良いんだ。
あの人のいない世界なんて……
いらない。