第7話 聞こえる声
7.
「カルミー、何あの演説」
「恥ずかしいんで思い出させないでください、先輩」
穴があったら入りたい。いや、もう既に入っているけれども。肌寒い洞穴内は、そんな恥ずかしさに火照る体を打ち消すにはちょうど良い場所だった。もっとも、ちょうど良いのは温度だけ。過ごすには最低だった。先日の地震によって洞穴内の壁や天井も崩れたのだろう。その影響は思いの外、大きかったようだった。
「それにしてもずたずたぼろぼろですねぇ……道なんてあってないようなものです」
呟きながら周囲を見渡す。
「だなぁ」
むせかえるような匂いが鼻腔を擽る。死臭だった。土砂に潰された人の、化物の死体がそこかしこに見えた。入ってまだすぐ、いや、入ってすぐだからこそ人の死体も混じっていたのだろう。自然とそれらが眼に、脳裏に焼きついてしまう。そして、そこから漂う匂いに表情が歪む。幾ら洞穴内は温度が低いとはいえ腐敗からは逃れなかったようだった。
手で鼻を覆ったまま、その道を行く。
ドラゴン師匠が作り出す炎の御蔭で、多少薄暗いとはいえ、視界は十分。十分だったからこそ尚更その惨状が良く見えた。死体からは蛆が沸き、それを喰らおうと小さな蟲達が死体の上を蠢いている。見れば見るほどに気色悪い光景だった。
そんな状況とはいえ、ここにいる誰一人としてそれに興味を抱く者はいない。恐怖に怯える事はない。皆死体に慣れている。慣れ過ぎている。いや、語弊があるか。興味のある人がいた。振り返り、後ろを見ればリオンさんがしゃがんで化物の死体から蛆や蟲を採取していた。時折選定しているのか取っては投げ捨て、満足いくものは頭陀袋へと入れていた。人間の死体からでない所が、多少の良心なのだと思う。大差なんて、ないけれど。
「食べるんですか?」
「はい」
まぁ、そうだよね、と頷きながら隣を歩く先輩に目を向ければ、げんなりした様子だった。まぁ、そうだよね、と再度頷く。
リオンさんが回収を終えて立ち上がり、私に頭陀袋を渡すと再び後ろへと、最後尾へと向かう。先頭にドラゴン師匠、最後尾にリオンさん。その間に私達二人が並ぶ。危険回避という意味ではこれが一番妥当な並びだった。その並びには先輩も納得していた。普段、先輩は一人で洞穴に行っているが、それでも到達出来ているのは第二階層まで。そしてそれは人間の到達限界でもある。今回の場合は、それを越えて行くのだ。ドラゴン師匠という規格外の存在とリオンさんという不死の人間以外では到達不可能な場所なのだから、先輩がその並びに当然と判断するのも頷けた。
前方から迫る危険に対してはドラゴン師匠、後方から迫る危険に対してはリオンさんが。加えて警戒の意味も込めてドラゴン師匠が小さな炎を私達の周囲に浮かびあがらせていた。
もっとも、後方を守るリオンさんの事は、危険を回避するというより、一瞬でも時間を稼ぐといった意味合いが強い。つまり、命を掛けて一瞬の時間を作り出すのだ。命を賭してというのには釈然としないものの、向う先には何が起こるかは分からない。だから、仕方ないのだと自分を無理やり納得させた。
いいや。本当は……納得なんてしていない。出来るわけがない。例え生き返るとしても、それでもやっぱり知り合いには死んでほしくない。もっとも、リオンさんにとってはいつもの事のようで特に気にした風でもなかったが……
その代わりと言っては何だけれど、リオンさんの荷物だけは強引に私が引き取った。調理器具や服の入ったものと、そして今受け取った採取用の頭陀袋。うごうごと動くそれを片手に持っていた。意外と重いけれど、それでもそれぐらいはしたいのだ。
「私が持とうか?」
「いえ、大丈夫です。食材はカルミナちゃんがしっかり守ります」
その答えに、はんっと鼻で笑われた。
気遣いはありがたいけれど、先輩に荷物を持たせて身動きをとり辛くさせるわけにもいかない。ここは自殺洞穴なのだ。本当に何が起こるか分からないのだ。突然、足元から何かが沸く可能性も否定できない。事実そんな事もあった。その時に私が十全に動けるよりも先輩が動けた方が良い。そういう判断だ。
ぴちゃ、ぴちゃと水音が聞こえている洞穴を進む。
ぐるぐると私達を周回している炎により作り出された灯りを頼りに一歩一歩先を行く。先程からずっとまともな道は無く、どれもが歩き辛い、行き辛いものだった。時に崩落した天井の上を歩き、時にその隙間を抜ける。何度も昇り、何度も下り、何度もしゃがんで、段差を飛びあがる。そんな事を繰り返す。微妙に宙に浮きながら移動しているドラゴン師匠や、こういう事に慣れているだろう先輩やリオンさんにとってはこんな道でも大したことがないのかもしれないけれど、私にはそれすら一苦労だった。
けれど、始まったばかりだ。
あんなに格好つけてその後すぐに疲れて倒れましたなんて言えない。だから、警戒しながらも、しっかりと地に足付いてドラゴン師匠の後を追う。
しばらく歩いてれば、時折、小さな声が聞こえている事に気付いた。
気になり、周囲を見渡してもその音の発生源は掴めない。他の誰もが気にしていないので気の所為かとも思ったが、いつまで経ってもその音は鳴り止まず、確かに音が聞こえていた。
何の音だろう?
訝しげな表情をしていた所為だろうか、先輩が私の顔を覗き込んできた。
「何よ?」
「いえ、なんか音というか声が……」
「音?……あれじゃなくて?」
そういって先輩の白い指先が示したのはドラゴン師匠の作った炎だった。ぐるぐると私達の周囲を周る炎。
「もしかして生きているとかですかね」
「馬鹿なの?風を切っている音だよ」
「いえ、そういう感じでは」
「じゃあ、もしかしてあれとか?流石に私も蟲の断末魔は聞こえないけどなぁ」
次いで指差した先はちょうど陰になっていた所為で全く見えない場所だった。そこに何があるのかは分からないが、見えない方が良いのだろうと、そう思った。
でも、断末魔にしては……何だかちょっと違うように思えた。いや、そもそも蟲には発声器官がないし……どちらかといえば……
「泣いているような?」
そう言って唸っていれば、リオンさんに声を掛けられた。
「カルミナさん、もしかして……こんな場所からでも聞こえるんですか?」
その言葉に、ドラゴン師匠もこちらを向いて立ち止った。見れば、驚いているような、そんな珍しい表情をしていた。
「はい?えぇ……凄く小さいですけど」
「私には全く聞こえませんが……それはきっと、神様の泣く声でしょう」
「流石私の弟子ね!ほら、さっさとどっちから聞こえているか教えなさい。場所さえわかれば穴あければ良いんだからね!まったく、そんな事なら最初から言いなさいよ」
「いえ、流石にどっちからとかは分かりませんよ……」
「ちっ……役に立たない弟子ね」
言って再びドラゴン師匠が振り返り、先へと進む。それを追いかけるように三人で後を追う。
「カルミナさん、どちらから聞こえて来たのかが分かったら教えてくださいね」
「はい」
そう答えている間にも、確かに小さな声が……泣いている声が聞こえていた。
とても悲しい事があって、抑えられない感情に負けて、延々と泣く幼子のようで、酷く心に響いた。
―――
「……リオンさん」
「……いえ、油断したというわけでは」
半壊した知り合いの死体が再生する姿、というのを何度も見るのは当然の如く気持ちの良いものではない。
「カルミー……といってもさぁ、私達も反応できなかったし」
ぽりぽりと頭を掻きながらも背から荷物を下ろし、次いで一本を残して刀をその場に置いた先輩がそう言った。確かに私も反応は出来なかったので人の事なんていえない。事実別にリオンさんを責めているわけでもない。さっそくではあったけれど、寧ろリオンさんがそうならなければ私達が死んでいただろう。
「責めているわけじゃなくて、ですね」
「初日で死ぬだらしないパパの事なんて十分に責めなさい!ほら、もっと思いっきりパパのこと責めなさい!私が許すわ!」
ケタケタと笑う人でなしの声を聞きながら、周囲を見渡せば囲まれていた。より正確にいうならば前方にはソレがおらず、後方を囲まれていた。
大して懐かしくもない水晶宮での事だった。
やはり地震によって倒壊したのであろう。もはや瓦礫の山と言わんばかりの水晶宮。普段より更に水晶の柱が乱立し、道を塞いでいた。御蔭でドラゴン師匠が掻き分けた場所をゆっくりと進むしかなかった。
この場所で手間取れば当然、水晶人形が現れるのは分かっていた事だ。寧ろ、地震によって住処を荒らされ、居心地の悪かった彼らからすれば、そこに迷い込んだものを見つけるのは普段より簡単だったに違いない。けれど、思ったより彼らが早かったのは確かだった。
突然、後方から水晶人形が私達を襲ってきた。
水晶の柱の間をくぐりぬけられるぐらいに小さな―――といっても人間の大人ぐらいの大きさの―――その人形は、恐らく彼らの中でいう子供なのだろう。その子供に、リオンさんが殴られ、頭が吹き飛んだ。
ぱぁん、という弾ける音に振り返った時には遅かった。あっという間もなく、リオンさんは死に、体が崩れ落ちた。それを見て満足そうにその子供はその場から離脱し、少し離れて様子を見ているようだった。そして、気付けば私達は囲まれていた。
だからといって一触即発というわけではない。ドラゴン師匠がそれに気付いた御蔭で、状況は停滞した。人でないからこそ尚更ドラゴン師匠の怖さが、恐ろしさが分かるのだろう。見れば水晶人形達は、乱れ並ぶ柱の間で戸惑ったように動きを止めていた。子供達だったので尚更恐怖には敏感なのだろう。けれど、鈍感という意味でも子供だった。逃げる事もなくその場に停滞していた。そうしている間にリオンさんの頭部が再生を終えた。御蔭で人間の頭の中身というのが良く理解できた。が、嬉しくもなんともない。正直、吐き気を催す程に気色悪かっただけだ。
「カルミー、荷物お願い。ここは私がやるよ……これぐらいやらないと来た意味もないしね」
リオンさんの再生と同時に動こうとしていたドラゴン師匠の代わりに、先輩が一歩前へ出た。
「あら、殊勝ね。御手並み拝見と行くわ」
その言葉にドラゴン師匠も異論はなく、その場に足を止め、次いで炎も止めた。正直、水晶宮は明るい。故に先輩にとっては得意な場所でもないだろう。まして、足場なんて最悪だ。ちょっと踏み外せばそれこそ以前の私のように訳の分からない所に行ってしまう恐れもある。けれど、そんな事ものともしないと言わんばかりに、
「襲って来ないなら、こっちから行ってやるよ、この短小。せっかく私から行ってやるんだから、がんばって少しは耐えてみせろよ?」
下品な台詞を吐きながら先輩が乱立する柱の中を飛ぶ。鞘を片手で押さえたまま、足場など一切気にせず裾を翻しながらたん、たん、と軽い音を立てて一匹の水晶人形に向かう。
光り輝く水晶の中を行く先輩がとっても綺麗だと思った。
対峙したのはリオンさんを殺した、未だ拳に血がついている水晶人形。
突然目の前に現れた先輩の姿に、憤慨するように拳を繰り出す。当たればリオンさんの頭のようになるだろう。けれど、それを先輩は足の動きだけで避ける。横に、前に、後ろに。そして避けたと思えば一歩前へ、懐へと入ろうとする。
近づくのは危険だ、何てそんな事は思わなかった。
ただただ、そうやって水晶人形と対峙するその姿を綺麗だと、そう思った。
けれど、そんな綺麗な姿から生み出される一閃は恐ろしいまでの鋭さを持っていた。懐に迫った先輩を捕えようと動いたのも束の間、きぃん、と軽い音を立てて人形が縦に割れた。次いで、倒れた音が二つ水晶宮に響く。
「言うだけはあるわねぇ」
遠目にも分かるほどに綺麗な切断面だった。確か以前に一物ごとでかいのをぶった切ったと言っていたが、ぶった切るなんてそんな荒々しいものじゃない。切ったそれをそのままどこかに飾っても見栄えがするようなそんな綺麗な切断面だった。
そんな風に私が考えている間にも、先輩は次の獲物に向かう。
「先輩、楽しそう」
嗤っていた。
ここがまるで産まれた場所だとでも言うかのように楽しそうに。釣り上がった口角、爛々と輝く瞳。まさに白い夜の姫が舞うが如く。一つ、二つと同じく軽い音が聞こえて来る。
「なんだよ、小回りが利くかと思えば親が親なら子も子かよ。短小でなおかつ早漏とか救いがねぇよ。ほらさっさと私に犯されて吐き出しちまいなね」
嘲笑。
それを理解したのか、哂われた二匹が同時に先輩を襲う。けれど、それが何だというのだ。今の先輩にそんな程度の戦力で敵うはずもないだろう。白い刃を横にし、その場で回転したかと思えば、同じく軽い音が二つ鳴り響き、人形の身体が横にずれた。
それで仕舞い。
刀を腰に差し、とん、とん、と再び軽い調子で先輩が戻って来た。
「これでまた暫くは大丈夫だろうよ」
見れば汗の一つもなく、呼吸も乱れていなかった。乱れた物と言えば精々、服ぐらいのものだ。鎖骨が微妙に見えていた。そこを見ていた私の視線に気付いたのか、その乱れを直した後、置いておいた三本の刀を腰に差し、荷物を背負った。
「先輩は凄いですね」
「何言ってんのよ。マジックマスターの方が強いだろ」
そういう意味ではなかったのだけれど。その事に苦笑していれば、ドラゴン師匠が少し楽しそうに先輩に声を掛ける。
「特別にガラテアで良いわよ。白い子」
相も変わらず不遜だけれど、何やら、先輩がドラゴン師匠のお眼鏡にかなったようだった。
「と、言われましても、ガラテア様?ガラテアさん?どちらが良いのでしょう……」
言われた先輩はちょっと困った風に頬に手を宛て、丁寧な口調でドラゴン師匠の名前を口にしていた。そういう仕草はゲルトルード様の影響だろうか。
「……面白いわね。ま、どっちでも良いわよ。好きに呼びなさい。許すわ」
偉そうである。
「ティアが名前で呼ばせるなんて珍しいですね。彼女の事、気に入りました?」
漸くまともに動けるようになったのか、調子を確かめるように首を回しながらリオンさんが立ち上がり、ドラゴン師匠に声を掛ける。
「カルミナちゃんには大層お似合いの人でなしみたいだからね。どちらかといえば私達よりよね、その子。気に入ったわ」
「ちょっと師匠。師匠と一緒にしたら失礼ですよ」
「……相変わらず失礼な言い方する弟子ね」
「事実です」
「何よ。今のは反射でしょ?反応でなしに」
ふんっ!と拗ねたように唇を尖らせ、そんな意味不明な事を口にするドラゴン師匠をじとっと見ていれば先輩が苦笑する。
「最近は自意識との差異は殆どないと思っているのですが……良く、分かりますね」
次いで、逸らすように視線を下げた。ドラゴン師匠がいう事も分からなければ、先輩が言っている意味も分からなかった。
「当然でしょ。何年ドラゴンやっていると思っているのよ。ま、私は面白くて良いからそのままでいなさいな」
「流石にお断りします」
「あら残念」
何と言うか、蚊帳の外だった。まだまだ先輩の事を私は知らないようだった。四六時中一緒にいるわけでもなければ、付き合いが長いわけでもない。だからそれも当然だろうけれど、これから洞穴の最下層に行き、そして戻って来るまでの長い時間を一緒にいるのだ。色々話をして、先輩の事をもっと知りたいなと、そう思った。
「それはそうと、この小刀。再三になりますが、ありがとうございます。刃零れ一つなく、人形を叩き切る事ができるのは助かります。大事にさせて頂きます」
「ふふん!流石、私よね」
そんな二人の会話を尻目にリオンさんがとつとつと柱を渡って水晶人形の割れた体の所に行っていた。殺されたばかりなのに……。
「食べられるんですか?」
「水晶人形の内臓というのもおつな物ですよ」
「……楽しみにしておきます」
じゅるり、と涎がでそうになったのは蚊帳の外で暇だったからというわけではなく、単にお腹が空いてきたからに違いない。そう、思った。
―――
水晶宮を抜けた所で食事となった。
これまた大して懐かしくもないミイラがある場所。以前、テレサ様とここで食事した事を思い出す。あの時は足が生えた魚だっただろうか。あれも美味しかったな、と思い返す。
とはいえ、今回は足の生えた魚ではなく、リオンさんが道すがら拾ってきたものである。つまり、蛆と蟲と水晶人形の内臓だった。さらに加えるならばドラゴン師匠の魔法によって作られた水と炎を使って調理を行った。それがどうしてこうなるのかさっぱり分からないが、水晶人形の内臓といっても水晶であるそれが蛆と蟲を煮込んだスープによって何とも柔らかくほぐれた感じになっていた。御蔭で何度も御代りをしてしまったのは秘密である。やっぱり臓物というのは良いものである。先輩と師匠はお気に召さなかったのか小さな欠片を少し食べただけだった。
「師匠も先輩ももう食べないんですか?美味しいのに」
追加で頂いた水晶人形の内臓をもぐもぐと噛み締め、舌で味わい、喉に流し込んだ後、そんな風に問いかけても、
「美味しかったよ。ただ、元々あまり食べないからなぁ」
「それよりも酒が欲しいわ」
これである。御蔭で私の取り分が増えたので良かったといえば良かったのだけれども美味しさを共有できなくて残念である。もちろん作った当の本人であるリオンさんは美味しそうに食べていたけれども。
「流石に酒は用意してきませんでしたねぇ」
「分かっているわよ、パパ。言ってみただけよ」
「消毒用に一応持って来ていますけど……」
傷を受けた時の消毒用に大きめの瓶を頭陀袋に入れて持って来ていた。そのことを伝えれば、当然の如く、
「やるわね!流石私の弟子!さぁ、寄越しなさい!ほら、傷なんて私がどうにかしてあげるから!」
これである。相変わらずの呑んだくれである。
「……このウワバミ師匠め」
「誰が大蛇よ。私はドラゴンよ。ほら、さっさと出すのよ!」
呑んだくれめ、と再度心の中で呟きながらも言われるがままに袋の中からそれを取り出せば、先日のようにがりっと瓶の先を齧ってぺっと捨てた。
「ティア、はしたないですよ」
「……分かったわよ。次からは気を付けるわよ」
流石、パパ大好きなドラゴンである。そして、これも相変わらずだった。
「なに笑っているのよ、この白黒コンビ」
言われて先輩を見れば、先輩も可笑しそうに笑っていた。戦闘中とは違ってとっても柔らかい笑みだった。
「いえ、仲が良いなと思いまして」
うんうんと隣で頷いていればドラゴン師匠がふん!と顔を逸らしてそのまま瓶を咥えて中身を流し込んでいた。そんなドラゴン師匠に再び頬を緩めていれば、先輩が口を開く。
「にしても今回はまだ落ちてないよなぁ、カルミー」
開いた口を閉じたくなった。
「煩いです」
そう何度も落ちてたまるかという話である。
そんな他愛のない会話をしながら食事を終え、再び洞穴の奥へと向かって行く。僅かばかり軽くなった頭陀袋を背負い、ドラゴン師匠の後に続く。
相変わらず泣く様な声は聞こえているものの、どこからその声が聞こえているは分からない。精々分かるのは大小ぐらいだ。それも微妙な差だったので大した意味はなかったのだけれど……結果、ドラゴン師匠が気ままに進む方向に私達はついていくだけ。適当に、曖昧に、進んで行く。死体を見ながら、殺しながら、採取しながら。
暫く行った所で、泣くような声とは違う音が聞こえて来た。
水の音だった。
大人一人がどうにか通れる道……だったものをドラゴン師匠が蹴り倒して広くした場所を通り、そこを抜けた先がその音の発生源だった。なお、砕かれた部分はその後崩落し、御蔭で帰り道は無くなった。もう少し後先考えて行動して欲しいと思う。ちなみに豪快に洞穴を蹴り倒したおみ足は、大層な綺麗なものだったことも付け加えておこう。
さておき。
抜けた先は開けた空間だった。そして、そこに水が落ちていた。それを目にした瞬間、自然、足を止めてしまった。それに気付いたのかドラゴン師匠やリオンさんも足を止める。
「……落ちていますねぇ」
「落ちてるなぁ」
「先輩、ここには来た事あります?」
「いや、こういうのは見た事がないなぁ」
轟々と鳴る音。身体に響く水音。延々と、途切れる事なく水音が続く。店の側から洞穴に入った時に見た滝のようだった。
だが、違う。そんなものであれば見慣れている。こんな風に足を止めてまでみる必要もない。だから、つまり……普通とは違った。
引き寄せられるように水の流れを目で追う。下から上へと。見上げる。そう、それは逆だった。
水が、天に向かって落ちていた。
見ていれば、まるで自分達が天地逆さまに立っているかのような錯覚を覚える。その様が、轟々と音を立てながら天へと落ちて行く姿が珍しくてついつい、そこに近づこうとして、先輩に止められた。はっとし、気を抜いた自分に叱責しようとすれば、先輩が自身の指先を私と自分を行き来させていた。つい先日、どこかで見た仕草だった。
……行くなら一緒に行く、という事みたいだった。
「お願いします」
「はんっ。畏まるなよ」
不遜な感じでそんな事を口にしたものの、滑らないようにという事だろうか。先輩が私の手を掴み、先を行ってくれた。その事が何だか気恥かしいなという想いと共に滝……かどうかも分からぬその場へと近づく。
近づき、下を眺めてもさっぱり見えず、先輩に視線で問うてみても首を振られる始末。いくら先輩の目でも距離には敵わないようだった。思いの外深くから、とっても深くからこの水は天へと落ちて行っているのだろうか。……とっても深い場所から凄い勢いで沸いているのだろうか?
そんな風に二人で滝を見ていれば、焦れたのかドラゴン師匠とリオンさんも近づいて来た。
「全く変な所に出たわね……これだったら御店から入った方が早かったじゃない。ほんと碌な事しないわ」
それは地震によって御店の側の入り口から向かう先と繋がった、という事だろうか。前に壁肉を食べに行った時……もとい、鍋の材料を採りに行った時には見なかったけれど、こっちに向かう道もあったのだろうか。
「師匠?」
「何よ、弟子」
「いえ、ご存知の場所なのかな、と」
「それはもうご存知もご存知よ」
忌々しげだった。何だかとっても言いたくないと言わんばかりだった。代わりにとリオンさんの方を見れば、同じ様に嫌そうな表情をしていた。
「さぁ、ここは無視してさっさと行きましょう。さぁ早く行きましょう」
「リオンさん?」
「人に歴史あり、です」
「歴史が深すぎて……」
そんな事を言っている間にもドラゴン師匠が先を行く。それについて行きながらも後ろ髪惹かれる思いで落ちて行く水を見上げる。そこから落ちたら近道になるんじゃないのかな?と。けれど、それを言う間もなく、先輩と一緒にその場を抜けた。
抜けた先は一転して静かなものだった。もっとも、静かなだけで酷く寒かった。何か羽織る物を持ってくればよかったと思うぐらいに寒かった。
「こういう時の鍋です」
腰から鍋を取り出し、炎を産みだす。が、次の瞬間水を掛けられた。言葉通りに水をかけられた。御蔭で全身水浸しである。寒い事限りなかった。そんな水を掛けた犯人……ドラゴンだが……を見れば呆れたような表情をしていた。
「そこの弟子、無駄な事して体力浪費する暇があったら大人しくしてなさいな」
そんな気遣いの言葉と共に新たに炎が私や先輩の周囲に浮かびあがる。炎の光にぼう、と浮かぶ先輩の白い横顔。もそうだが、その奥には霜の張った洞穴の壁が見える。寒いわけだった。
「ありがとうございます」
「ふふんっ!」
一番体力のない私が、体力を浪費するような事をするのはただでさえ先の分からぬ道程に問題が出て来るという事なのだろう。水を掛けられたのはさておいても、考えなしだったのは私だった。ドラゴン師匠の作ってくれた炎で服や肌を乾かしながら、鍋を片付ける。
「ふぅん」
そして、髪がべたっと顔に張り付いたのを手で掻きわけていれば、先輩が鍋を見つめていた。
「意外と便利そうだなぁ」
「実はとっても便利なんですよ」
「私の小刀の方はいつ役に立つのやら……」
「空気が出る魔法でしたっけ?」
「そそ。咥えたままってのは流石に無理だったけど、それでも息継ぎしたい時に口に当てれば十分だったよ。ま、そんな機会がないって話なんだけどな」
正直、それをどこで試したのかが気になる。湯船とかだろうか。真剣な表情で湯船の中にぶくぶくと沈んでいる先輩を想像すれば、自然、笑ってしまった。
「何よ、カルミー」
「いえ、なんでもない」
ですよ、という言葉は言えなかった。
突然、ぐらり、と地面が揺れた。咄嗟に手を付き、その場に耐える。ドラゴン師匠だけは微妙に浮いている御蔭で影響はなかったようだったが、見れば先輩も、そして後方を歩いていたリオンさんもまた、地に手をついていた。だが、手を付いた肝心の洞穴の方が割れた。一瞬、体勢を崩されたかと思えば、次いで壁にひびが入り、あっという間にぼろぼろと壁が崩れて行く。そして崩れた先から。いや、崩れ落ちた向うから……最初から狙っていたかのように突然、咆哮が鳴り響いた。
「カルミー避けろっ!」
咄嗟の声に、地面をごろごろと転がれば、一瞬の後にその場を通過する獣……いや、何だあれは。
明かりに映える赤茶色の肌、私の腰よりあろうか思える程に太く、しかし短い四肢を携えたソレ。それが支える体躯は記憶にあるプチドラゴンと同じぐらいだろう。そして皮膚も同じく爬虫類のそれだった。だから、一瞬、プチドラゴンなのだと思った。が、違う。明確に違う場所があった。体躯から伸びた首。そして頭。それが、三つあった。
「……いやいや。これは流石に」
生物としてありえない。
消えた獲物を探すように首がそれぞれ別の方向に動き、ちろちろと長い舌を出している様は怖気が走る程に気持ち悪さを与えて来る。全くもって奇怪だった。
何度見ても、何度見た所で頭が三つあった。
「いやはや……しかもドラゴンか……よ」
呆れたような先輩の声がこれまた、現実感を喪失させていた。だが、流石先輩だった。刀を抜き、颯爽とそれに切りかかる。いいや、違う。その険呑な瞳を見れば、先程水晶人形を殺した時とは違うその瞳を見れば分かる。殺意に呑みこまれたのだ。ドラゴンの呪いを受けた私達はドラゴンを見れば殺さずにはいられない。ドラゴン師匠の事は先輩も慣れたようだが、それ以外のドラゴンには、突然現れたそれには流石に抵抗しきれなかったようだった。私もまた、手が勝手に腰元の包丁へと向かっていた。眩む視界、猛る動悸。それを意志でもって抑えつけながら、包丁から手を離す。私が出た所で先輩の邪魔になるだけなのだから。
気付けば、先輩が両手で……そんな事普段の先輩ならしないだろうに、腰から二つの刀を抜いて両手に構えた。がきん、がきん、という鈍い音が二つ響き、それと共に先輩の刀がはじかれ一瞬先輩が停滞した。かと思えば、そのままもう一度ドラゴンへと刀を叩きつける。切るなどではない。まさに叩きつけるようだった。……そして、当然の如く、襲われた事に気付いた三つ首が先輩を襲う。幸いだったのはその動きがゆっくりと遅く……そんなわけがないじゃないか。さっき突撃してきた時の速度は今のようなものじゃなかった。案の定、突然首の動きが、その速度が変わった。それを何とか、不格好に避ける先輩。これじゃ、先輩が自らの意志を取り戻す前に……やられてしまう。そう思った瞬間、殺意ではなく意志に従い、包丁を腰から取り出し、それに向かおうとしたところで、
「あっ……」
リオンさんに付き飛ばされた。
より正確に言うならば、さらに横から出て来た生物に襲われそうになっていた私が、付き飛ばされ、代わりにリオンさんの腹が貫かれた。
「何やってるのよ、パパ」
リオンさんの口腔から飛び散る飛沫が、ドラゴン師匠の作り出す風に流され、突然現れたそれに向かう。
炎に照らされたそれの姿は、
「醜い」
私がそれの姿を認識するよりも早く、ぱしゃん、という軽い音と共に、風によって切り刻まれ、この世界から命を失っていた。そして同時にリオンさんが地面へと崩れ落ちた。明らかに意識の無い人間の倒れ方だった。確認するまでもなく、再びリオンさんは命を失っていた。
「白い子。貴女もさっさとこっちに戻って来なさい。今の貴女じゃ無理よ、無理。というか、そもそも曲がりなりにもドラゴン相手に人間が敵うわけが無いじゃない。あぁ、でも人でなしなら大丈夫かしら?」
「師匠!」
「あぁもう、煩いわね、この弟子は……ほら、さっさと代わりなさい」
言ったが早いか、先輩が僅かドラゴンから離れたのと同時に一本の首を炎で焼いた。焼き切った。先輩の目の前で焼け落ちる首一つ。その瞬間、先輩が意志を取り戻したのか、飛ぶようにこちらに戻って来た。首が三つあった所為で呪いが強かったのだろうか。
「すまん」
そんな短い謝罪を受け、首を振り、ほっとする。所々服に傷が入っているのは見えるが、怪我らしき怪我はないようだった。その事に再度、安堵する。
だが、今は安堵している場合ではない。
意識を切り替え、二つ首となったドラゴンに目を向ける。その場で暴れ壁を、地面を叩く姿を見れば痛覚などは共通なのだろうか?そんな疑問が沸く。だとすれば後は放置しておいても死ぬのだろうか。一つの首が死に至る痛みを受けたのだ。痛覚が共通ならば他の首……脳もまた死に至る痛みを受けたのと同じ事になるだろう。……だが、生憎そんな都合の良い事はなく、二つ首ドラゴンは下手人であるドラゴンに向かって残った二つの首を振り回す。
「あぁ、ほんと……醜いわねぇ。殺すわよ」
刹那、ドラゴン師匠が音も立てずに流れるように洞穴内を行き、蠢き暴れるドラゴンの首をその手に掴み、引き抜いた。それはあっという間の出来事だった。まさに流れるが如く。いつものようにゆっくりと殺すような事はなく、慈悲など一切なく、ドラゴンがドラゴンを殺した。
引き抜いた首を投げ捨て、次いで先輩の刀を弾いたドラゴンの皮膚を、手で剥ぎ取り始めたかと思えば、倒れたままだったリオンさんへと声を掛ける。
「ほら、パパ。いつまで寝ているのよ。さっさと起きて解体して頂戴」
「無茶いいますねぇ」
「やっぱり起きているじゃない」
「神様が中々寝かせてくれませんしねぇ」
そんな二人の相変わらずの戯言を聞きながら、今、この瞬間を酷く恐ろしいと感じてしまった。
甘く見ていたわけではない。例えドラゴン師匠がいようと、先輩がいようと、リオンさんがいようと、死にたがりの自殺志願が群れるこの場所では人が死ぬのは当たり前のことなのだ。けれど……きっと、心のどこかで私は気を抜いていたのだ。安心していたのだ。ドラゴン師匠がいたとしても酷い怪我をした事なんてもう遠い昔の事のように忘れて、ついさっきリオンさんが死んだ事も忘れて……度し難い程の馬鹿だった。自然、ぎり、と歯が鳴った。
「気にすんなよ、カルミー。形は違っても全員無事だったんだからさ。……寧ろ、呪いに支配されるとか役立たずなのは私だって話だよ」
そう言って先輩がハァ、とため息を吐く。
「とはいいますけどね……」
私の所為でリオンさんが死んだのだ。私が冷静に対応できていれば、ほんの少し時間を稼げていればドラゴン師匠が殺してくれたのだ。それなのに……例え、死んで生き返るとしても、二度も死に至る痛みを受けたのだから……。
「ほら、カルミナさん。美味しそうな内臓が……ってどうしましたかね?」
けれど、当のリオンさんは、楽しそうに形の酷く歪んだ緋色の包丁でドラゴンを解体し、私に向かって臓物を見せながら楽しそうに笑っていた。
「その、すみませんでした。油断しなければリオンさんが死ぬ事もなかったのに」
「と、言われましても五体満足ですし。といった所で納得しそうにありませんね。年頃の女の子は何かと難しいですねぇ……適材適所という事で納得して頂けませんかね?」
「死ぬ事が適材で適所なわけ……」
「むぅ。……カルミナさん。私にとっては貴女に死なれる方が困るんですよ。私は私の目的のために貴女を死なせないという判断をしているだけです。我儘で自業自得ですから、私の事は御気になさらずに。端的に言ってしまえば、貴女を利用しているだけです」
「そんな事はないです……私が勝手についてきたんですから」
「貴女ならそう言うと思いました。が、お互い様、ですよ」
「でも……納得はできそうにありません」
「だからこそ、ですけどねぇ。ねぇ、ティア?」
「パパの事なんて気にするだけ無駄だって前にも言わなかった?でも、それでこそよね。確かに。死んでも死なない人間が死んだ事を悲しむなんて、本当馬鹿よね?」
ケタケタと笑うドラゴン師匠に苛立ちを覚える。そんな風に言われても、そんなに簡単に割り切れるわけがない。
「白い子のために自分は真っ先に死のうとしたのにねぇ。ドラゴンに突っ込もうとした事、私は見逃してないわよ?この自殺志願の欠陥品。ま、でもそうね。番が危険だったら助けたくなるのは人情かしらね?」
「ティア、貴女が人情を語るんじゃありません」
「パパもね」
「確かに」
そう言って、ケタケタと二人が笑う。
「カルミー。受け入れろとは言わないよ。それが出来たらカルミーじゃないしさ。カルミーが嫌なら、そうならないように行動すれば良いだけさ。過去は変えられないんだから」
過去が変えられないのならば、起きた事実が変えられないのならば、街の人達と同じ様に未来を見ないといけない。そう。本当に……そうだ。
「先輩……そう、ですね。リオンさん。リオンさんが死ななくて良いように出来る限り私がんばりますので」
くすり、とリオンさんがいつものように笑みを浮かべた。
「あら、白い子の言う事なら聞くのね!この弟子!」
「煩いです、師匠」
―――
「やっぱりドラゴン師匠がいなかったら全滅でしたね」
「まぁなぁ、ついてきたけど私いらなかったかも。標的の分散もガラテアさんには意味ないしさぁ」
ドラゴンの呪いにも嵌まるし、その辺戻った後とかどうしよう、そんな事を悩む先輩と、先程の事を思い返しながら話をしていた。
「……そこはまぁ、私の為と思って。ほら、話し相手とか」
「嫌な役目だなぁ、それは」
「ちょっと、先輩。可愛い後輩に対してなんて事を」
そんな軽口が言えるようになったのはあれから更に数時間が経過した頃だった。
もう少しでいつもの……というと変だが、本日の宿泊先である地下墓地に到達するらしかった。らしいというのは、特にこの辺りは人間の作った地図など、それこそ薪の代わりにもならないぐらいに意味がないわけで、経験的に洞穴内を理解している二人の記憶に頼るしかなかったからだ。その二人が言うのだからそうなのだろう、そんな状況だった。もっとも、どうにも洞穴内が地震によってかなり乱れているようで、二人も多少悩んでいるようではあった。
閑話休題。
軽口を言いながらも、周囲への警戒は怠らず、気を抜いているわけではない。先輩と二人で突然の事に対処できるようにと天井を、床を見て回る。ドラゴン師匠が苦手……というと語弊はあるが、把握しきれない突発的な事象に対して対処できるように、少なくとも自分達の事ぐらいは自分達で出来るようにしようと先輩と相談し合った結果だった。『カルミナちゃん、流石にそういう所までは面倒見切れないから白い子に守って貰いなさい』というドラゴン師匠のありがたい言葉も頂いた事だし。
とはいえ、突然三つ首のドラゴンが現れたように、偶発的に発生する出来事というのは私達には止めようがない。大きな揺れで地面や壁が崩れるならばまだしも、ちょっと揺れたかな?という程度で、元々緩んでいた地盤が抜け落ちるという事は流石に予想できなかった。
「あ……」
という先輩の声に気付いた時には、先輩と、そしてその後ろを歩いていたリオンさんがいなくなっていた。
「せ、先輩?」
炎によって作られた灯りを頼りに周りを見れば、足元に暗がりが、穴が出来あがっていた。先輩のような目を持っていればその奥も見通せるのだろうけれど、私には出来なかった。
血の気が引いた。
嫌な汗が沸いた。
さっき誓ったばかりなのに、またしてもリオンさんが……そして、先輩が……
「し、師匠……お、追いかけましょう」
ここはもう寒いわけではないのに、唇が震える。身体が震え、指先が、手が氷のように冷えて行く。カタカタと鳴る歯の音がうるさかった。心臓の動悸が激しい。収まれと心で思った所で何の意味も無かった。
「そんなにあの子が心配?」
「はい。だから、早く……すみません、頼ってばかりで。連れて行って下さい」
焦る心が押さえられない。早く行きたい。早く行って……嫌な想像が浮かんだ。それが浮かんでは消え、浮かんでは消えて行く。違う。そんな事はない。そんな事はないんだ。けれど、そんな風に思考を抑えつけようとすればするほど余計に嫌な想像が浮かんで来る。
「あら、正直で素直な良い弟子ね。じゃあ、ついてらっしゃい……あぁ、動かなくて良いわよ」
ドラゴン師匠の口にした言葉の半分も理解できていなかった。ただ動くなという事だけは理解できた。動こうにも嫌な想像に身動きを取れなかった。そんな私を、産み出された風が浮かし、穴の中へと私を導く。先行するドラゴン師匠、そして後を追う炎と私。
炎が照らすその場は、断崖のようだった。崩れた名残か、凹凸は酷い。触れれば指先に纏わりつく粘り気のある土だった。所々から水が沸いている。それが壁を構成する土を弱くしていたのだろう。そんな場所をゆっくりと降りて行く。
それしか道はなく、それしか手法がないのは分かっている。けれど、そのゆっくりとした速度が、もどかしかった。
でも……
「あ……これ」
壁に刀傷がついているのが見えた。
咄嗟に刀を抜いて壁に突き立てたのだろう。粘土で出来た柔らかい壁には先輩の刀によって付けられた傷が延々と続いていた。けれど……逆に言えば、延々と続いていたのだ。止まる事なく、延々と。でも、これなら期待は出来る。刀の御蔭で落ちる速度が遅くなって、下の方で止まってくれている可能性が出て来たのだ。
だから、尚更、その穴を抜けた瞬間、ぞっとした。
炎が映す範囲には地面が見えない。刀によって落下する速度は落ちただろう。けれど、それでもこの高さから落ちたというのならば……いや、そんな事はない。そんな事あるわけがない。
「あら、思いの外高いわね……でも、良かったわねカルミナちゃん。地底湖よ。あぁ、でもこの高さなら人間だったら潰れているかもしれないわね」
戯言に耳を貸す余裕などなかった。
神様の泣く声に混じってぴちゃん、ぴちゃんと水音が耳に響く。その中に別の音が無いか、目を閉じて耳を澄ませる。
ぴちゃん、ぴちゃん……
けれど、変わらない。
「到着ね。ほら、がんばって探しなさいな」
言われるまでもない事だった。
地に足が付いた瞬間、目を開ければ前方に湖が見えた。そこまで広くは無い。ドラゴン師匠が追加で大量に出してくれた炎の御蔭で対岸まで良く見える。見える……からこそ、湖に二人の姿がないのも分かった。
「……いや……そん」
ぱしゃん、と鳴ったのはその時だった。
「あぁ、もう。また濡れたよ、私」
小刀を片手に先輩が、水面に顔を。
「先輩!」
「カルミー、煩い!音が響く」
「あら、パパも拾ってくれたの?」
「……手遅れでしたけどね。……落下の衝撃の方は大丈夫だったみたいですけど……もう少し早く見つけていられれば……」
「あちゃー、やっちゃったか。ほんと、手間を掛けるパパねぇ」
物珍しい言い方で、更に頭に手をあてる、なんて人間らしい格好をしてドラゴン師匠がため息を吐いていた。何だろう……違和感しかなかった。そしてそんな恰好でドラゴン師匠が面倒くさい、面倒くさいなんて言っている間に、先輩がもう片方の手でリオンさんの首根っこを引っ張って、そのまま器用に水面を泳いで陸へと。
「カルミーにサービスしてるわけじゃないんだけどなぁ……まさかカルミーみたいに落ちるとはなぁ……」
「煩いです。でも、先輩の眩しい鎖骨がまた見られてカルミナちゃんは幸せです」
「やっすい幸せだなぁ、おい」
「結構高いと思いますよ……ほんと、良かったです」
ほっとする。足が崩れるぐらいにほっとした。ちょっと眦に涙が溜まったのは乙女の秘密なのだ。それを隠そうとして顔を逸らす。そんな私に、小さく『ありがとな』と言ってくすくすと笑った。
「白い子。パパの死体貸して頂戴」
顔を逸らして涙を拭いていれば、ドラゴン師匠が漸く面倒面倒言うのを止めて先輩に声を掛けた。言われた先輩は、岸に揚げたリオンさんから離れるという形でドラゴン師匠に渡す。
そのリオンさんの死体を、ドラゴン師匠が片手で持ち上げていた。水を呑み過ぎたのだろう。良く見ればリオンさんの体が膨らんでいた。
「何?待っていれば良いんじゃないの?」
服を絞って水を抜いていた先輩が、首をくてっと傾げて聞く。
「こういう場合にはちょっと問題があってねぇ」
言い様、ドラゴン師匠がリオンさんの……肺の辺りだろうか。そこに腕を突っ込んだ。
「ちょっと!?何しているんですか!」
「そこの弟子、煩い。……さて、これで、良しっと」
次の瞬間、リオンさんの肺を手にしたドラゴン師匠がいた。そして、それを手の平で握り潰し、地面へと投げ捨てる。
「な、な、な」
「何?新しい鳴き声?求愛でもしているの?全く。そういうのは番相手にしなさいな。……それとも、パパの肺なんて食べたかった?これだから雑食は嫌ねぇ」
違う!と言おうとしても思考が追い付かない。追い付いていない間に、リオンさんがげほっと血を吐きだして息を取り戻した。
「……ティア。ありがとうございます。助かりました」
「全く。パパ、今回は死に過ぎよ。まだ初日なのよ?もっと命を大事にしなさい」
「……と言っても私って所詮一般人ですし」
「カルミナちゃんはちゃんと生きているじゃない。この足手まとい!」
「……ぐっ」
娘に叱られている父の姿だった。
いや、そんな事はどうでも良い。
「あ、あの……リオンさん大丈夫なんですか?師匠が肺を抜いていたんですけど……いえ、元に戻るのかもしれませんけど……」
「あぁ、御蔭で助かりましたよ……いやはや、本当……ハァ」
「これじゃ、今日はもう無理そうね。ここで休むとしましょうか。幸い、ここの水は酸じゃなくて普通みたいだし」
「あの、何が……」
「その空っぽより少しは詰まっている頭で考えてみなさいな……白い子は理解したみたいよ?」
「先輩?」
絞った所であまり意味はなかったのだろう。びしょ濡れになったままの先輩が炎の前で着物を乾かしていた。
「ん?……そういう事だろ?」
「どういう事ですか」
「……相変わらず変な所で察しが悪いよなぁ、カルミーは」
「酷い事を言う先輩なんて、ずっと鎖骨見てやります」
「いや、別にいいけどさぁ……」
心配だったから。
だから、気にはなったけれど、リオンさんの事は申し訳ないけれど二の次になってしまった。
本当……良かった。
―――
それから長い時間が経った。
そう感じる。洞穴に入ってから何日が過ぎたのだろうか。時間を示す鐘もなければ陽の昇り降りもない。そんな場所で延々と過ごしていれば時間感覚を喪失するのも仕方のない事なのだろう。そして、喪失した時間の代わりとばかりに脳に響く声が大きくなってきていた。それでも方向は分からない。それは他の皆も同意見だった。
そう。
先輩やリオンさんにも聞こえるようになってきていた。ドラゴン師匠は言わずもがな、である。特別私だけが早く聞こえていたからといって何の意味もなかった。そんな事を言われたのも懐かしと思えるほどに。そして、慣れているはずのリオンさんやドラゴン師匠でも方向が分からない、と困惑していた。いつもは声だけでなく揺れの中心を想像しながら神様の下へと向かっているそうだが、今回はそれが巧くいない程に揺れが乱れているようだった。そんな話をしたのもまた懐かしいとさえ感じるほどに時間が経過していた
薄汚れた体を地面から沸く水で拭きながら、宛てのない道程を思う。大きな怪我もなく、精々擦り傷やかすり傷程度。五体満足なのが不思議な程だった。
襲われた数も、死にそうになった数も、あれから多少減ったとはいえ実際にリオンさんが死んだ数ももはや数えるのが面倒になるぐらいだった。相変わらずドラゴン師匠には怪我の一つもないが、宛てが無さ過ぎる事が僅かなりとドラゴン師匠を苛立たせているようだった。もっとも本当に僅か、といえるぐらいだ。普段は相変わらずだ。悪魔や天使やドラゴンが出た時には意気揚々と率先して殺しに行ったり、食べていたりするのでぱっと見た感じでは分からない。良く見れば殺し方が雑だとかそういう程度のそんな僅かな差だ。それでも積り積もればもっと分かり易い形で表に出る事だろう。
そして、逆に言えばドラゴン師匠でさえそんな感じなのだ。私や先輩がまっとうにいられるわけもなかった。自然と口数は少なくなり、苛立ちを覚える事も多くなって来た。もっとも、それは誰かに対するものではない。自分達のふがいなさに対して、だ。
第二階層を越えたのはかなり前のことだった。二人以外の誰もが辿りついた事のない場所。人間でいう第三階層に到達してからの道程は、本当の意味で私達は御荷物だった。
巨大なドラゴンを相手に人間が敵うわけが無い。
それを私たちは経験的に知っている。それが数匹も同時に現れればどうしようもないのもまた、分かりきっている。それらの前では私達の扱いなど五十歩百歩。等しくただの人間である。
どうしようもない程、私たちはただの人間だった。弱い人間だった。
同じく人間だけれど、リオンさんだけは別だった。リオンさんの作った食事が化物には覿面に効く事もあった。相手を死なせる事もできれば、眠らせる事も出来るようだった。その全てに効くわけではない。けれど、それは十二分な成果である。その度に食事をそういう風に使うのは釈然としないという表情はしていたものの、私達にはできない凄いことだった。強い者との、化物達との戦いに慣れているのだろう、そう感じた。
そんな二人がいたからこそ私たちは今この場で生きていられる。その事を改めて実感していた。だから尚更、不甲斐ないな、と思う。
「……と言っても、少なくとも最初は普通の人間と小さなドラゴンだったんだよなぁ」
「ですね。この前、先輩が寝ている間に聞きましたけど、リオンさん、片手が無かったそうですよ、その時」
「それはまた……」
凹む。そう呟いて先輩が地面に背を向けて横になった。横になって目を開いてささくれ立った天井を見ていた。天井を見る事に意味などない。でも、その気持ちがわかった。
でも……先輩は先輩で、何度も何度も私を助けてくれていた。全てを見通すその瞳に何度命を助けられただろうか。
「私の方が」
「そういうのはもういいよ、カルミー」
「まぁ、そうですね」
「そうそう。それにカルミーは最後に役目が残っているしなぁ」
「それももう良いです」
言って互いに苦笑し合う。何度同じ言葉を交わした事だろうか。自分達に何も出来ない事を仕方ないのだと言って慰め合うことほど意味が無く馬鹿馬鹿しいものはない。
だから、ふがいないと思って苛立ちは募っているものの、それほど凹んでいるわけではないし、どこか納得もしていた。それはリオンさんやドラゴン師匠のいう所の適材適所なのだろう。ドラゴン師匠は進行役、リオンさんは食事や補助、先輩は私の確認、そして私と言えば最後の最後に御役目があるので生きていないと駄目なのだ。ううん、生きていたいのだ。
こんな暗い場所で、こんな遠くでひとり泣いている神様を殴るためにも。
「髪、伸びて来ました」
「何だよ、突然」
「何事も突然訪れるものです……ほら、言った傍からまた地震が……って…あがっ……」
「カルミー?」
揺れは大したことがなかった。けれど、脳裏に響く声が大きく、大きくなっていく。本当に、突然だった。一瞬、意識を飛ばしそうになるほどに。今までで一番きつい泣き声だった。自然、耳を手で押さえる。それで何が変わるわけでもない。だが、押さえていないと気が気ではなくなりそうだった。
だから、だからこそ。
「……あっち……あっちです」
聞こえた。
指差そうとして、しかし、耳から手を離せない。だから、視線だけをそちらに向ける。はらり、とかかる前髪が鬱陶しかった。首を振ってそれを払いのけ、再びその先を見つめる。
私には見る事はできない。けれど、先輩が見てくれる。私の代わりに全部見てくれる。そして、覚えてくれる。
「こっち、だな」
私の代わりに指差す向きに頷き、次いで近くにいるはずのドラゴン師匠やリオンさんを呼び寄せる。
「何よ、カルミナちゃん。今良い所だったのに。つまらない用事だったら殺すわよ?」
「聞こえました……先輩が示している方、しっかり覚えておいてください」
「やるじゃない、流石私の弟子ね。良い所だったけど許してあげるわ」
一体全体、何をしていたのだろうか。身体を拭くという事で少しだけ二人から離れた……といっても声を掛ければすぐに聞こえる距離だ……所にいた間に何があったのだろうか。いや、そんな疑問など後廻しで良い。
気付けばドラゴン師匠が、凄惨な笑みを浮かべていた。そして遅れて来たリオンさんが、これまた嬉しそうに荷物を片手に笑っていた。
「あと二、三カ月……いえ、私達にはカルミナさんみたいに聞こえていないという事はもう少しは掛る感じですかね。どちらにせよ、案外、早く辿りつけそうですね。いやはやそれもこれもカルミナさんがいてくれたからですね。ありがとうございます。今回は私達だけだと年単位だったかもしれません……その間に崩壊していた可能性も否定できませんし、助かりました」
「ま、でもここからが大変なのよねぇ」
リオンさんの発言に被せるようにドラゴン師匠がそう言った。気軽にそんな事を言いながらも、表情は恐ろしく綺麗で、凄惨なままだった。
「師匠?」
「取り込まれるんじゃないわよ?」
「取り込まれる?」
取りこまれるというのはこの声の事なのだろうか。だったら、分からなくもない。気を抜けば、泣いてしまいそうだった。
「人間なら大丈夫なはずよ。人でなしな二人は分かんないけど、ここまで来たら諦めなさいな。後は生きていられるか死ぬかの二択よ」
「どこにいても同じじゃないですかね、それ」
「煩いわね、この弟子」
「カルミー、そこは納得しておけよ……」
ため息交じりに先輩が私の頭をぽんぽんと叩く。結果、首の振りで払った前髪が前に落ちて来て再度私の視界を塞ぐ。それをまた首の振りで払いのけながら、外に出たらまた、ゲルトルード様に切って貰えないだろうか。そんな事を想う。
先を思えると言う事は、先が見えると言う事は心の安定のためには良い事なのだろう。先輩も、リオンさんもそしてドラゴン師匠ですら少し、気が楽そうに見えた。
勿論、気を抜いたというわけではない。ずっと緊張はしっぱなしだ。だから、そこで何かに襲われるような事もなければ、失敗する事もなかった。
だが、生憎と泣き声だけはずっと消えなかった。
御蔭で、耳を押さえたままでそこから移動し、その日、休もうとしたところで……一睡もできなかった。がなり立てるような泣き声の御蔭で体はだるく、睡眠を欲しているにも関わらず全く寝られなかった。
そんな私を心配してか先輩が飲み物を持って横になっている私の隣に座った。
「先輩。何か話をして下さい」
「唐突に何だよ」
「煩くて休めないので、子守唄的な感じで先輩に何か喋って貰いたいなぁとか」
「……ハァ。分かったよ。で、何を話せば良いのよ?」
「先輩の事、教えてください。なんでゲルトルード様の娘なのか、とか」
「あぁ、それ……ねぇ。んじゃ、ついでにカルミーの話でも聞くかねぇ」
「じゃあ、お互いに少しずつって感じで。多分、今日から私しばらくまともに寝られそうにないので……話し相手になってください」
「やっぱりそういう役目なのなぁ、私。ま、良いけどさ。……なら、最初は私から話をすれば良いのかねぇ。……じゃあ、あれだなぁ。いつ産まれたのかは知らないんだよね。前に言ったようにカルミーと同じぐらいの年齢なのは確かだと思うけれど……なんせ、物心ついた時には牢屋だったしなぁ」
「いきなり牢屋!?」
衝撃的な事実である。
「そそ。いきなり牢屋。と言っても私が牢屋って呼んでいるだけで実際には四方を壁に囲まれたすげぇ狭い部屋だったなぁ」
そんな風に話しをしていれば、いつのまにか聞こえていた泣き声が先輩の声に覆い隠されて、私は、眠っていた。